幕間 主人公の歩み
アナベルという少女は幸運な少女であった。
大貴族の娘として生まれ何不自由ない暮らしを約束されていたが誘拐され、特に何かされたわけでもなく孤児院の前に捨てられた。
だが堅実な運営を心掛ける人格者な院長と、そんな院長を支える地域の人たちの温かい目に見守られてアナベルは新しい名前『ジュディ』の名をもらいすくすくと成長したのである。
旅の薬師に感銘を覚え、自らも薬学の道で『院長と同じように誰かの役に立てる人間になろう!』と決め、そのための勉強も惜しまない努力家の少女に育った。
人々の愛を受け、素直で優しく、そして可愛らしい少女はある日その暮らしが一転する。
探し出された公女。
本当の名前はアナベル・ベアトス・ノクス。
ひょんなことで知り合った王子から、彼女のことをずっと両親と弟が探していると聞いて『そんなまさか』と思いながらも面会したら、すぐに彼らが自分の家族であることを理解した……という数奇な運命の持ち主である。
その当時、アナベルにはそれが何故かわからなかったが、とにかく直感的にわかったのである。
実際には両親が彼女が生まれた時にかけた保護魔法が共鳴し、その魔力の波動によってアナベルは懐かしさを覚えたというものなのだが――それを説明する無粋な者はいなかった。
そうして本来の家族の元に戻ったアナベルは、これまでの暮らしとの違いに目を白黒させっぱなしだった。
ジュディとして生きてきた十七年が、家族と共にいられることを喜びつつもその豪奢な暮らしをどこか別世界のものとして受け入れることができなかった。
周囲に『公女様』『アナベル様』と呼ばれる度に落ち着かなかったし、専属の護衛だという騎士をつけられた時も、お茶を淹れるにも、なんとお風呂に入る時にも人がつくというその状況に慣れるには何年かかるのだろうとため息が漏れたものだ。
そして彼女を悩ませるのは、それだけではなかった。
シリウス・フェローチェス・ノクスという男の存在だ。
逞しい体つきに精悍で整った顔立ち、父である公爵とどこか似ているなと思ったら彼女の従兄であり義兄。
嫡子の自分が攫われてしまったため、跡取りに据えるため迎えられた養子。
けれど弟のレオナールが生まれ、その立場をなくした義兄。
加えて自分が見つかったことでより居場所をなくしてしまった人。
そんな事情を耳にして『へえ、そうなんだ』で終わらせられるほどアナベルはドライな性格ではなかった。
かといって悩んだところでいい慰めの言葉が浮かぶわけでなく、慰めるのもまたおかしな話である。
ましてや、彼女自身、まだ環境の変化についていけていなかったのだ。
そして皮肉にもそんなアナベルを一番理解してくれたのも、シリウスだった。
他の家族や使用人たちと異なりある程度の距離を保って、けれど兄として穏やかに導いてくれるシリウスの存在は、アナベルにとって頼もしい兄そのものであった。
そうしてようやく〝ノクス公爵家の一員〟である自分を受け入れることができるようになったアナベルは、次に貴族社会の恐ろしさを学んだ。
大貴族の娘というだけで嫉妬や羨望の目が向けられることは理解していたつもりだったが、暗殺者まで送られるだなんて……護衛騎士がケガをして、ようやく彼女は護衛が必要な自分を、実感したのである。
それでも『ただの少女』であったアナベルにとって、自分が狙われることも、そして自分のせいで護衛の騎士がケガをしたことも、そう簡単に受け入れることはできなかった。
ただ自分に家族がいたことが嬉しかっただけで貴族になりたかったわけではないアナベルの気持ちを、周りは察することはできても理解には至らなかったのだ。
実際その気持ちを察したところで、事実家族が見つかった以上、アナベルはノクス公爵家の人間なのだ。
何をするにしたって今後貴族としての義務も、責任も、そして狙われるという恐怖もついて回ることになる。
たとえそれがアナベルにとって、望むと望まざるとに拘わらず、だ。
そんな中で現れたのが、セレンという不思議な女性だった。
自分より少しだけ年上なのに、どこか持っている空気がその場にいた誰とも違うことに怖さを覚えたが、同時に安堵もした。
(彼女は貴族じゃない。そしてわたしと同じ――異分子だ)
正確にはアナベルは異分子ではなく、ただどうしても〝公爵家の長女〟という事実に慣れるまで時間がかかっていただけなのだけれども。
それでも同じように孤児院で育った彼女は、少なくともその場にいた誰よりもアナベルの恐れを理解してくれていた。
自分を気づかってくれる兄のシリウスと、今後茶会やどこかに出る時に護衛としてついてきてくれるというセレンがいてくれるなら頑張れるかもしれない。
アナベルはようやく、少しだけ前を向くことができた。
そうしてふと気がつくと、兄の様子がおかしい。
セレンに向ける眼差しが、どことなく熱を持っていると気づいたのはいつだっただろうか。
二人が同じ屋根の下で暮らしていることは聞いている。
彼女の身の上からその正体を見極めるため、という理由でメイドとして使い、処断するならばシリウスのような実力者が最適だという話はアナベルも聞いている。
だが、兄の向けるあの眼差しはどうだろう。
アナベルは目を瞬かせる。
(……お義兄様は、セレンのことが気に入ったのね?)
まあまあ、素敵!
そうアナベルは心の中で喜んだ。
彼女は賢い娘であったから、誰かに何かを告げられたわけでもないのに一人で騒いで場を引っかき回すことはよしとしなかった。
元から魔力があってもそれを使う術を知らなかったアナベルは、孤児院でそうやって当たり障りなく、そして周りを見て動きを決めることで上手にやってきたのだ。
ただ想定外だったのは、思った以上にシリウスがセレンにのめり込んで――逃げた彼女を必死で探し出し、そうしてついには捕まえて戻ってきたことだったけれど。
結果としては、セレンが諦めてあの重たくて粘着質で、困ったほどの愛情を受け止めてくれたことで事なきを得ているのでアナベルとしては万事解決と思っている。
少々、弟のレオナールが素直すぎて周りの言葉に踊らされ、あわやシリウスが大噴火するところであったのだけれど……それもまた、兄弟喧嘩の一つよね、とアナベルはそう解釈することにしたのであった。
そう、アナベル・ベアトス・ノクス。
彼女は本来〝物語〟の主人公である、逞しい女性なのであった。
この回で一旦休載となります。
再開は来月を予定しておりますので、よろしくお願いいたします。