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仮宿といっても本当の宿屋だ。
めっちゃくちゃ安くてぼろくて、そこそこの高さがある。
ここの土地は夜になると魔獣が徘徊することがあり、安全を確保するために客室は三階から五階と定められている。
二階までは魔獣が届く可能性があるらしい。
一応魔獣よけの護符が貼ってあるから、入ってはこれないようだけど……なんといっても音がね。
どうして僻地にこんな高階層の建物が作られているのかって言うと、その昔栄えた名残だって聞いているが、本当かどうかは知らないし興味もない。
過去にすごく栄えていたとしても、今じゃあ薄壁で隣の部屋の笑い声は筒抜けだし、廊下を歩く人の足音は響くし、ドアの立て付けだってめっちゃ軋んでウルサいからね!
普通に泊まるならごめんである。
だけど私のように裏稼業の人間にとってはとてもありがたい宿である。
なんせ誰かが近づいてくるのにも気配を察知しやすく、そして何よりもなんの未練もなくこの部屋を去れるところ!
もし襲撃を受けてこの部屋が吹っ飛ばされたとしても良心が痛まないって素晴らしい!!
我ながらなかなか酷い言い様だが、綺麗な内装が壊れるのは申し訳ないと思うのが人情ってもんでしょ。
壁はもう土が覗いて床に敷かれた絨毯は破けているし、ベッドはもう……埃っぽいし?
コレでよく金取ろうと思ったねって言うレベルの部屋ですのでね。
(……ま、この部屋に長居するつもりは元々なかったからいいんだけどさ……)
このベッドで寝たくない私は最高級の寝袋を持ってきていたので、これで休むつもりだったんだけど……。
寝具は! ケチっちゃいけない!!
とはいえ今回は本当に小休憩しつつ周囲を窺って脱出しないと……。
万が一ノクス公爵家の私兵に呼び止められたりなんかして、シリウスに気づかれるのが一番厄介だからな……。
(当然ながらあんな逃げ方した私が悪い。うむ)
しかしながら恋心の自覚と共に、現実ってものを前に私も冷静ではいられなかったのだ。
我ながら乙女だなあと、そんな部分もあったんだと新鮮な驚きだ。
体を重ねたことも、彼の元を去ることも、彼に好きな人がいることも当たり前のように受け入れていたくせにね。
今更恋心を自覚したらそれらが辛いだなんて、自分でも笑っちゃうほどおかしいんだけども……ああ、ままならない。
(……相変わらずかっこよかったなあ)
逃げ出しておいてなんだが、好きな人の姿を見ることができたのは望外の喜びだ。
こんな初心なところが私にもあったんだねえ……。
ノクス公爵家については新聞記事で見かける程度しか調べてないけど……いやほら、ストーカーみたいにならないようにね?
いくら情報屋に知り合いがたくさんいるからってね?
その辺の節度はさすがに弁えてますぅ!
少し痩せただろうか?
以前よりも尖った雰囲気だったのは、きっと任務のせいだろう。
私のことを心配して少しは探してくれただろうか。
公爵を通じて辞めたにしても、義理堅い彼のことだから……。
うっ、罪悪感。
「……」
一人反省会をしていると、遠くからこちらに向かってくる足音が聞こえる。
ここは宿屋の階段から一番遠い四階の角部屋だ。
だからわざわざここに来るやつなんて、碌な客じゃない。
私はまとめておいた荷物を持って、息を殺す。
物盗りか、女狙いのゴロツキか……それにしては足音はとても落ち着いている。
となると例の闇競売場側からの刺客という可能性が一番高いか。
気づかれていないと思ったけど、後からバレたんだろうか?
ふとある程度の距離で音がしなくなった。
私の部屋が目的ではない……?
だけどまだ油断はできないなと思っていると、何の前触れもなく部屋のドアが吹っ飛んだ。
「……!?」
長い足が覗いていることから蹴破った……にしてはちょっと、あの、ドアが吹っ飛んだんですけど……?
「やあセレン。いい夜だな」
そこにいたのは笑顔のシリウスだった。
目は、これっぽっちも、笑ってなかったけども。