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(……これでよしっと……)
あの後、私はそっと話し込んでいるシリウスたちから離れて家で荷物をまとめていた。
と言っても私個人の荷物なんてたかが知れていて、普段使っていたメイド服を脱いで以前着ていた簡素な服を着て最低限の現金を持てばそれで終了だ。
来た時と同じ。
ここにあるのは、ここに来てからシリウスに与えられたものばかりだから。
『アナベルは本当に可愛いんだ。弟も』
『守ってやりたいと思っている』
『向こうでも頑張るさ』
当たり障りない会話の中で、アナベルの話題になったらシリウスの目元が和らいだのを私は見ていた。
当たり前だ、彼にとっての運命の相手なんだから。
『あのメイド? ……ノクス公爵家とは無関係だ』
私の存在を隠すのは、元暗殺者だから。
これから王子と縁づくアナベルにとって、不利益となり得る可能性があるから。
わかっている、そんなことは誰よりも。
『……ああ。アナベルにも伝えよう』
彼女の名前を呼ぶだけで、優しい眼差しになるシリウス。
私といる時に見せるものとはまるで違う、その甘やかな表情。
当たり前だと思うのに。
ずきりと痛んでしまった胸に、衝撃を受けてしまった。
最初からわかっていたはずだ。
身分差も、何もかも。
私はただ安寧を手に入れる為にノクス公爵家の庇護を得たかっただけで、いつでも去る準備は怠らなかった。
物語の展開を知っていたから、アナベルにも――シリウスにも、気持ちが寄り添ってしまったのは自覚している。
だからこそ、傍観者としての応援、その立ち位置からは踏み出さないようにしていたはずなのに。
たとえ一夜を共にしても、それは何も変わっていないと自分では信じていたのに。
(……いつの間に、こんなに絆されちゃってたんだか)
大型犬みたいだと思った時から?
彼が『おいしい』って私の食事を平らげる姿が嬉しいと思った時から?
それとも、私に笑顔を見せるようになった時?
わからない。
わからない、けど。
一線を越えてしまったことは、理解した。
だから、もうここにはいられない。
(これ以上は、無理だ)
だって私は臆病者のモブだからね。
アナベルを見て嬉しそうに笑うのに、報われないシリウスの姿なんて見ていられない。
一夜の関係への謝罪で、あれこれ紹介されたり気を使われるなんて無理だ。
アナベルを思う彼の笑みを思い出して、心が軋んだ。
元より身分差もあって実らない恋だったのだ、離れれば――きっと綺麗な思い出になることだろう。
私は自分のものでありながら、自分のものじゃなかった部屋を見回してそっと窓から身を乗り出す。
夜に溶け込むことは得意だ。
「――セレン?」
ちょうど玄関に入ってくるシリウスの声に、私はフードを深くかぶり直して外に出る。
ほんの少しだけ振り返っても、まだ彼の影すら見えない。
むしろちょうどいいかと私は声に出さずに『さよなら』とだけ告げて、逃げ出したのだった。