出会い
小鳥たちのさえずり。 肌の感触が違う。 ここはどこだ? あっそうだ、入れ替っちまったんだ。胸に膨らみがあり、あそこの感じの違和感。 ここは美憂の部屋だ。 俺は妙な立場にいる、美憂になっているんだ。 睡眠中、元に戻らなかったのだ。 もっとも、ここでいきなり戻って、本来の俺がキャミソールを着て、このべットに寝ていたら、それもまた事件だが。
美憂の大事なフルートが見える。 俺は吹けないから、吹けと言われると困るな。 今、7時40分だ、環境の激変にも拘らず、良く眠れた。 あっちは、どうだろう?
着替え身支度して、階下に降りなければならない。 クローゼットからジーンズとTシャツ、ブラを取り出し、勢いよくキャミソールを脱ぎ棄て、寝具の中にしまう。 ブラジャーを胸の膨らみに当て、背に手を回して止める。 意外と抵抗感はない、そんなことはもう気にしてはいられない、とにかく代役を務めあげるしかない。 シャツを着て、細い下半身をジーンズに入れる。 ジーンズを履くとファスナーの前の膨らみがなく、かえって体の違いを感じさせられてしまう。 丁寧に洗顔し、歯を磨き、髪をブラッシングして、長い髪を何とか纏める。 こういう作業、しなやかな女性の体で軽快にこなせる。
覚悟を決めて、階段をあえて勢いよく音を立てて降りる。 リビングに入ると、ソファーに50代位の紳士が座り、日経新聞を読んでいる。 キッチンでは母が朝食の準備をしている。 「パパ、おはようございます」と俺は娘らしく微笑み、挨拶する。 「ママ、おはようございます」 母親の傍に寄り、「手伝おうか?」 「大丈夫よ、殆ど終わっているから」これには助かった思いがした、何故なら、美憂と同じ様に出来るか、必ずしも自信はなかったからだ。 「あなたはお紅茶ね、レモン?」 「ええ」彼女はコーヒーより紅茶を好む。
父の隣に掛けると、「美憂、なんだかご機嫌みたいに見えるね」と父は微笑む。 「そうかしら」と娘は素っ気なく自然に返答する。 この人とはだいぶ以前、二三回会ったことがある。 朝食はベーコンエッグとポテトのサラダ、トーストと父はコーヒー、母と娘は紅茶だ。 緊張の場であるはずなのに、食事はすすんだ、皿の物は完食して、トーストは三枚食べた。 「美憂、食欲あるね」と父は微笑む。 「あなた、細すぎるんだから、ダイエットなんかしないで、沢山食べないとね、いずれは赤ちゃん産むんでしょう」と母。 ギョットして逃げ腰になるが、美憂も婚約者も子供は欲しいらしい。
「片付けしようか?」 「いいわ、別に忙しくないから」 娘は元気に階段を上り、部屋に戻る。
父母との朝食、物凄く緊張したが、何故か自分の中から、甘えるような気持ちが沸き上って来るのは、とてもとても不思議。 美憂の肉体がそうさせるのだろうか?
俺は、普段はまだ寝ている筈の時刻だから連絡は控えざるおえない。 時間があるので、美憂のスマホを開き情報を得ようと考えた。 メールの履歴を見ると、ある履歴が非常にたくさんある。 美憂の婚約者からの物だ、これは頭が痛い。 毎日の様に連絡し合っているわけだから、連絡しないわけにはいかない。 メールなら、本物の美憂がすれば良いわけだけど、通話となると本物の美憂が男性の声でするわけにはいかない、偽物の私がしなくてはならないだろう。 でも、婚約者と私が? 直に会うのなら、美憂の顔、姿なのだから、特別に妙な事を言ったりしなければ、彼女でないと疑惑をかけられる事はあまり考えなくて良いだろう。 父母も気が付いてはいないようだし。 だが電話となると、どうなのだろう? フィアンセの役なんて、務まるのか? 美憂とは長い付き合いだし。
どうすればよいのだろう? 彼女に迷惑はかけられない。 後で、相談しよう。
勉強机の引き出しにアルバムがあった。 家族との写真、友人との写真、小学校の卒業アルバム、中学校の卒業アルバム、高校の卒業アルバム、可愛い美憂、清らかな美憂、綺麗な美憂が溢れている。 俺と写っている写真も何枚かあった。
何気なく、ケースからフルートを取り出し、手にしてみる。 手に馴染み、自然な感触がする、美憂の手だからなのか? 小さな音で吹いてみると、チャンとした音色の音が出る、何となく吹けそうな感じがする。 何故だ? 少し怖くなって楽器をしまう。 これはS女子学院の合格記念に祖父母が贈ってくれた、物だ。 可愛い美憂が夢中で報告するのを覚えている。 何千時間もこの手で、練習して来たのだろう。
その時、スマホが鳴る「今、トイレにいる、そちらはどう?」男の声。 「御両親との朝食は普通に振舞えた。 今は君の部屋で、アルバムを見たり、スマホを見たりしている、ゴメン、君のプライバシーに踏み込んで」 「今はプライバシーどころじゃないでしょ。 拘りは捨てましょう。 こちらも何とか成っているわ」 「女言葉は止めた方が良いだろう、凄く変だ、オカマみたいだ、悪いけど」 「そうだな、分かったよ」少し悲しそうにも聞こえた。 息子さんとは遊んだよ、悠人君とっても可愛いね。 私に凄く良く懐いている。 これから塾に行く。 何か理由をつけて君も早く来て欲しい」 「お母さんにどう言えば良いのかしら?」「そうだな新居の家具を検討するから、高島屋に行くとか言えば不自然ではないだろう」
俺はクローゼットから指示されたグリーン地のワンピ―スを取り出し、どういう風に着るのか少し検討してから、シャツとジーパンを脱ぎ、下着のタンクトップを着ける。 ワンピ-スを手にして、ため息をつくが、頭から被り、両腕を入れ、背中のファスナーを閉める。 鏡をのぞいて「大丈夫ね、自然よ、美憂さん」と呟く、ワンピースを着た、若い女性が微笑んでいる。 思い出せば、先週もこれを着ていた気がする。 その時はこんなことに成るとはまったく想定していなかった。 髪を丁寧にブラッシングして、シュシュでしっかりと纏める。
彼女のバックにスマホを入れ、ワンピ―スから延びる形の良い脚で、階段を下りる。 「ママ、チョット出かけて来るね」
「どこに行くの?」 「家具を見てくる、買うんじゃなくて、新居の家具の調査研究よ」「そう、早く帰るのよ、嫁入り前の娘なんだからね!」と少し笑う。 「それから、あなたあんまりお料理上手じゃないから、式の前に少し教えてあげる、だから五時より前に帰ってね。 俺はやれやれと思うが、「ええ、分かったわ、ママ」と答えて、ローヒールの靴を履き、この家の娘は脱出する。 ワンピースを着た俺は「やれ、やれ、やれ、大変でした、外に出れば少しは楽だ」と思う。 長い髪の美女である俺は「美憂はこうして塾まで通って来てたんだな」と思う。 知り合いに出会う事を、警戒しつつ、若い娘は軽快に歩む。
塾は駅から三分程の三階建ての小さなビルの二階、三階を賃貸している。 塾には、六教室がある。 賃料、43万円。 生徒数、137名。
美憂の姿をした俺は、なれ親しんだ階段を上り、事務室のある二階に入る。 正面のドア―を開け、カウンターの横を抜け、責任者の席を見ると、40代位の男が掛けている。 「先生、おはようございます」若い女性は軽く会釈する。 「おはよう篠原君」と男は昨日と同じ様に挨拶を返す。
中年男は軽くため息をつき、立ち上がると、ソファーの方を差し、「ここに座った方が戻れそうな気がする。 昨日、入れ替わる前には君がこちらで、僕がここだったよね」 「入れ替わる前の位置が良いんじゃないかしら」男と若い女性は向き合って座る。
「ばれなかったよ。特に変に思われた様子もない。 奥さん優しくて良い方だね、悠人君可愛くていい子ですね、とても僕に懐いてる。 素晴らしいご家庭だね、センセイの家。 結婚式の招待状が届いていたよ、まあ一昨日、僕が出した物だけどね。 奥さん出席したいそうだよ、あのきれいな娘さん、結婚するのねと喜んでいた」
「こちらも何とか乗り切ったわ。 特に変には、思われていない見たい。 大切に育てられたのね。 あのキャミソール何とかならない、恥ずかしくて」 「あれは君のお気に入りの、夜着なんだよ。 急に止めると、おかしく思われるかも。 紫とピンクとブルーの物を三日おきに替えている。 習慣は急には変えない方が良いだろう。 真冬は、パジャマを着るけど。 今日はピンクの物を着るといい」 俺は軽いため息をつく。
それと「ボストンの彼に連絡しないと」「誰がするの?」 「勿論、婚約者の君がするんだよ、僕はこの声じゃあ無理だ。 毎日連絡してるんだから、連絡しておかないと」
美憂は、彼とのいきさつ、彼との付き合い、結婚式の事、披露宴の事、彼の家族、新居の事、てきぱきと説明していく。 膨大な情報を整理して、ホワイトボードに板書したりして、巧みに説明する。 短時間でかなりの事を覚えられた。 流石の、説明能力だ。この塾を支えてきた、実力派講師だけの事はある。
「今、ボストンは深夜だけど、彼、カルテを書いたり、論文を読んでいると思う。 電話するんだ、美憂。 分からなくて困ったことが出てきたら、ホワイトボードに書いて教えるから、大丈夫」
彼は、私が昨日から持ち歩いている、彼のバックからスマホを取り出し、ボストンの彼氏を呼び出すと、スマホを私に握らせ、頑張れと目配せする。 「美憂、僕だよ、嬉しいな、君の声が聴けるなんて」彼氏は大きな声を出す。 「どう、忙しいの?」 「アア、大変だよ、でも君と話せば、元気が出るよ、愛してるよ、僕のフィアンセ」 「あたしもよ」「僕は君の百倍位は愛してるよ、いや千倍かな?」 「マンションの事だけど、あの二子玉川の物件で良いかしら?」 「交通の便はあそこが良いし。少し高いけど、街の雰囲気も良いし、僕は基本的に君が良ければそれで、良いんだ。君が喜べば嬉しいんだ。 早く、君に会いたいよ、早く、11月になればな」 「あたしも、そう」 「美憂、愛しているよ、愛してるよ」 愛してる、愛してるって煩いな、その度に答えなければならないし、俺は男だぞと言いたくなるが、彼も美憂も傷つけてはいけない。
電話は彼の「愛してるよ」で終わるが、もしこのまま元に戻れず、11月末に成ってしまったらと、考えると
背筋は氷り、冷や汗が出てくる。 結婚は嫌だ。
美憂は塾の運営は完全に理解している、一部経営の面で分からない部分があるだろうが、それは私が教えれば良いのだ。 俺の妻と息子との事は、連絡を取り合って何として行かなければ。 午後三時くらいになると、大学生や院生の非常勤講師や子供達が来るようになる。 俺は帰る事にする。 「篠原先生まだいるじゃない」と子供達は喜ぶだろうが。 美憂の姿で、子供達に会うのも気が進まない。この異常な状態に、子供達を関係させてはいけないだろう。
今のところ、元に戻る兆候はない。 原因がまったく不明なので、予想も何も仕様がない。 このままでは今夜も娘として、あの家に帰るしかない。 あちらには、俺の姿をした、美憂が帰るしかない。
塾長に挨拶して、塾を出る。 見慣れた街を散策する。 ワンピースを着て、女性ものバックを肩にかけ、美女として、街を歩く。 知り合いに会ったが、俺とは分からないようだ、一駿こちらを見たが、きれいな娘だと思われただけであろう。
スマホと取り出し、「ママ、あたし、今、成城石井の前にいるの、荷物ないから、買い物していこうか?」 「そうねありがとう、そうねー、サーロインの牛肉を少しとエノキとトマト、ホウレンソウ。 缶ビール2-3本、銘柄はあなたの好きなのでいいわ。 あと、牛乳かな?」 「分かった、買って帰るわ」
成城石井に入ると、俺は三十代位の女性にいきなり、出会ってしまった。
俺の女房だ! 「ア! 篠原さん、お久ぶり。御結婚されるそうですね。 おめでとう御座います」俺は激しく動揺し、心臓は早鐘の様に鼓動した、もっとも、美憂の心臓であろうが。「ありがとうございます、11月に式を挙げる事になりました」俺は頭を下げ、何とか返答する。 「御式には、主人と出席させて頂きたいと思います。 とてもお綺麗だから、花嫁姿は大変素敵でしょう、是非、見せていただきたいと思います、楽しみにしています」
俺は、動揺著しいが、何とかその場を収め、逃げるようにレジに向かう。




