婚姻届け
「婚約者の彼が五か月ぶりに帰国するのだよ、迎えに行った方が良いよ。 是非、行ってきなさい」両親から説得され、娘は成田空港に向かう。 第一ターミナルに着いた時、スマホに連絡があった「美憂、手続きはもう直ぐ終わる、もう近くにいるんだ、直ぐ会えるんだ。 少しだけそこで待ていてくれ、直ぐに行くから」
キャリーバックを引いた彼が先に私を見つけた。 「逢いたかったよ、美憂! もう絶体に離さないからな!」興奮して抱きしめようとする彼を制して、何とか駅へと向かう。
彼とは数回、会った事がある。 勿論、美憂と三人でだ。 この前会った時は、まだ新米の研修医でナイーブな青年であった。 数年で若い医師らしい雰囲気に変化している。 唯、今は五か月ぶりに、最愛の彼女に再会して、子供の様に燥ぎ捲っている。 「美憂、前も凄くきれいだったけど、益々綺麗になったね!」 「そうかしら、前と同じだと思うけど」「信じられないほどキレイだよ。 こんな君と結婚する僕は世界一の果報者だ」 「少し、大げさじゃない」
興奮気味の彼を制するのに美憂である私は少々手を焼いた。
その夜はおそいので、渋谷で食事をした後、自由が丘で別れた。
帰り道、「これからは優しい彼氏とずっといっしょなんだ」と言う、幸せな気持ちになりかけたが、明後日の挙式を考えると、恐ろしい深淵が広がる。 「美しい花嫁衣裳が着られて最高じゃないか」と思うと、また深い深淵が広がり。 「明後日の晩には、彼の愛をこの身で受けなければならないのだ」と考えると、更に深い深い深淵が広がるのであった。 「俺には無理だ」と言う気持ちからは抜けられず、幸せな花嫁の気分にはとてもなれなかった。 スカートから延びる、すらりとした俺の脚は、美憂の家に向かう。
べッドに入り、本来の美憂に連絡する、「アー、君か。どうしてる?何かあったか?」 「彼が帰国したの、成田に迎えに行ってきたの」 「そう? 今日だったんだ。 彼、元気? いや、今の僕は彼とは赤の他人だな、無関係だ。 君の大切なフィアンセだね。 いよいよ明後日だ、おめでとう、最高の日だね」 「彼はとっても元気、美憂、美憂って煩くて少し閉口したけど。 とっても良い人ね。 でも、本当に私が彼と結婚してしまって良いの??? あなた、構わないの?」 「勿論だ。 大体、君の結婚に、僕が口を挿むべきじゃないだろ。 実はその事には、もうあまり関心がなくなって来ている。 今の僕にとって大事な事は、塾の事であり、妻と息子の事であり、自分の日々の暮らしだ。 君は、君が小学生の時から親しくしている大切な女性だが、あくまで他人だ。 君の素晴らしい結婚は、祝福すべき祝い事であって、僕には直接は関係はない。 君は大事な年少の友であって、これからも色々協力し合っていきたいが」 「でも、もうあと一日と少し、しかの残ってないけれど、もし? 元に戻れたとすれば、どうするの?」 「・・・・・それは、もしそうなれば、それはまた大変な事態で混乱するだろうけれど、元の鞘に収まるのかな? だけど、俺はもうそんな事は起きないと考えている。 何故なのだ? と言われれば論証は出来ないのだが。 俺は直観的には強くそう考えている。 入れ替わりなんて、常識的には起き得ない事だ。 何とも非現実的な事だ、もう二度と起きない気がする。 僕は、すでに殆ど男性だ、女性としてのあり方は捨て去った。 もう元には戻りたくはないんだ。 君も悪い事は言わない、若くとても綺麗な魅力的な女性なんだ。 その恵まれた立場を有効に利用して女性として生きるのが良いだろう。 明後日の婚礼も君が完全に美憂になる、良い機会ではないのかな? 披露宴は女房と楽しみにしている。 スピーチも巧くやるよ」 「そう…宜しくね」
美憂である私には巧い反論は出てこない、それは嘗ての美憂が私にあまり反論出来なかった事と同じなのかもしれない。
電話を切り、キャミソールの中の柔らかな自分の胸に触れ、「美憂さん、こうなるともう彼と結婚するしかないのかな?」と美憂の唇で呟いた。
ショーツの上から、女性器に軽く触れ、「ここに彼を迎え入れるのかな? やっぱり嫌だな、少し怖いよね、これは未経験の女性が感じる事かな?」とか思いながら眠りについた。
彼に昨日、書類を渡したのが失敗だった。 「今日、婚姻届けを出そう」と言い出したのだ。 「挙式は明日なんだから、その後でいいんじゃない?」「駄目だよ、新婚旅行が七日あって、その後提出じゃあ、籍が入っていない期間ができちゃう」 私の言う事なら全て聞きいれてくれる彼だが、これに関しては強硬だ。 駅から大井町線沿いの玉川総合支所に向かって歩く。 支所の敷地内で、二人の若い男女が書類を確認する。 新本籍地、新住所は、私が契約して用意した賃貸マンションの住所を記入してある。
夫に成る人、北島良司 妻に成る人、篠原美憂
証人はそれぞれの、父親に署名して貰ってある。
この書類を提出して、受理されれば、晴れて彼と法的に夫婦になってしまう。 「ねえ、やっぱり今度にしない?」「駄目だよ、せっかく来たんだから、旅行から帰ると仕事が始まるから、二人では来れないよ」 彼は私の手を取ると、庁舎に入る。 受付の女性に「婚姻届けを提出したいのですが」 「奥の、戸籍係で提出してください。おめでとうございます」と笑顔で言われてしまう。 窓口は空いていて、スムーズに書類は提出され、スムーズに受理されてしまう。
かくして、私は北島美憂と成ってしまった。 最近名前がよく変わる。
庁舎から出て、10歩をど歩くと彼は立ち止まる。何をするのだろうと思うと、銀色に光るリングを取り出し、長く器用そうな指で、そのリングを細く白い私の左手の薬指にはめようとする。
手を引っ込め「ダメよ、それは明日でしょう、明日にしましょう」 「法律上、もう夫婦なんだ、今やろうよ」 彼の穏やかな笑顔を見ると、あまり突き放すのも悪いかと思い、リングは私の左手の指にピッタリと嵌まってしまう。
二子玉川から、坂を上り、閑静な住宅地に辿り着く。
管理人に挨拶してから、三階の新居に入る。
窓を開けると、豊かな緑が広がり、数棟の高層ビルの向こうに多摩川河川敷が広がる。 子供の頃の美憂が両親と遊びに来た場所だ。 彼とも何回かデートした所である。 明瞭な記憶はないのだが。 私は、妻や息子と来た事があるが、その記憶は今や、非現実的な自分のものではないかのような、非現実的な記憶に成りつつある。 反対にS女子学院で彼に出会った事等がまるで自分の記憶の様に成りつつある。
「良い部屋だね、良く探してくれた、ありがとう。 生活の準備もしっかりやってやってくれたね、ありがとう、良い妻を持てたようだ」と笑う。
べッドルームに入ると、新品の寝台に彼が押し倒して来ないか、多少警戒する。 今、夫に押し倒されるのは溜まらない。 それは杞憂に過ぎない。 彼は誠実な人柄だ、元の私もそう言っていた、私もそう思う。 しかし、彼が強い欲望を感じているのは目に見えている。 元男性である自分には、若い彼が大好きな彼女にどれほどの欲望を抱いているのはよく分かる。 十年以上待たされたのだ。 多少の注意は必要だろう、刺激しない事、でもこの体は彼を刺激するであろう。
新婚旅行から、帰国して直ぐに生活する、この部屋の準備をすませ、彼と坂を下り、ショピングセンターを散策して、数点の品を部屋に配達するように手配し、二人で食事をする。 彼の熱い視線と言葉を嫌と言うほど全身に受け、今日は二人は分かれた。
午後九時少し前。 久しぶりに塾の階段を上りかけると、「篠原先生久しぶり、うれしー」と三人の六年生の女の子の笑顔に出会う。 「皆、頑張るのよ、もう遅いから、まっすぐ帰りなさい」と優しく応える。
塾に入ると、非常勤の講師二名が帰る所であった。
「篠原君良く、来たねえ、まあ掛けなさい」
あれが起きた、場所に二人で掛ける。
「いよいよ、明日だね、おめでとう」
「先生には本当に長い間お世話になって、感謝しています」 どうしても最近、美憂としての立場の発言になってしまう。 ここに掛ければ、また入れ替わりが起こるのではないかと思い、微かな期待をもって来たのだが、彼の堂々とした男性としての態度をみると、期待は簡単に砕かれた気分になる。
彼には美憂としての面影は微塵もない。
「今日、届けをだしました」 「婚姻届け? それはよかった。 じゃあ、君はもう北島美憂なのかい?」 「ええ、そうなります」 「明日の式、素晴らしいものになりそうだ。 君はキレイだから、素晴らしい花嫁姿だろう」
もう完全に昔の事は忘れてしまったかの様なムードだ。 俺には戻る処は、ないのかもしれない。
逃げるように、塾を出て、家路につく。 スカートで歩くことに、違和感を覚える。 最近では珍しい事だ。
「篠原さん、久しぶり」途中、若い女性に笑顔を向けられる。 「結婚するって? 本当?」 「ええ、明日、式なの」 「早いわね、羨ましいー、スゴイわね」 年格好からして、小学校の同級生か?
家に到着すると、かなり慣れた手つきで、キーを開け、玄関に入る。 「タダイマー」 直ぐに母が来て、「お帰りなさい。 未婚の娘の最後の帰宅ね」と微笑む。
「今日、彼と届けだしたよ、どうしても今日出したいっていうから」 「そうなの、おめでとう」母は私を軽く抱きしめた。 「お父さんが、待っているから、少しお話しましょう」
「パパ、届け出してきました」 「そうか、それは良かった、おめでとう」父は神妙な雰囲気。
通帳と印鑑、美憂の名義で、500万円。 「これは使わないで、いざという時の為にとって起きなさい。 お前が高校生の頃から、少しずつ入れたものだから、税金は問題ない、贈与税はかからない」 「パパ、ありがとう。 パパ、ママこれまで、育ててくれて、本当にありがとう」美憂の代理で言う、気持ち。 「明日、忙しいから、もう休むね」
階段を神妙な、気持ちで上がり、美憂の部屋に引き上げる。
腰近くまで伸びる、黒髪に暫し触れ、キャミソールの中の、柔らかな膨らみを確認して、乳首をつまみ、若い綺麗な肉体を確認する。 左手薬指のリングを外し、机の上に置く。 中学生の時から使う、べットに横に成り、明かりを消す。
「女房が、妊娠したよ」と言う、奴の言葉が頭に媚びりつく。




