2.1 貴賤を語る手
執務室の皮張りのソファに腰掛け、男は自身の顔に刻まれた皺ほどに深いため息を吐いた。
男はすらりとした身体に、ダークグリーンのスーツをまとい、混じりっけの無い黒の革靴を履いている。そしてエルフ特有の長い耳には真鍮の耳飾りをつけていた。どれも公国内有数の工房に並々ならぬ金を払った特注品である。
男の目の前の机にはいくらかの書類があった。男は綺麗に手入れされた手に万年筆を持ち、インクを紙面へと滑らせていく。
今、三人の領民が南方の銀山へと送り出された。机の上の書類によってそういう運びとなったのだ。男ことマルダン伯爵が書いているのは何を隠そう奴隷売買の密書であった。
「ララバドの銀山はいいな。定期的に発注を頂いている。トリーデンのオウル公も上客になりつつある」
マルダン伯爵は自身のビジネスの取引相手の顔を思い浮かべながら筆を走らせる。最初は数人だった顧客も今では30近くまで増えて、奴隷売買は軌道に乗りつつある。実に喜ばしいことだ。
「事業は順調だ。……例の鼠共が捕まらないことを除いてな」
事業は順調である。だからこそより盗まれた奴隷売買の帳簿のことが気がかりに感じる。数日前に自身の館に忍び込み帳簿を盗み出した二人組の聖職者、彼女らの行方は未だ掴めずにいた。
「報告によれば凄腕の傭兵を雇ったそうじゃないか。全く下人風情が煩わしい限りだ」
昨晩帰還した私兵団たちの報告によれば、雷を扱う鎧の巨漢が盗人を守っていたという。しかもその男がなかなか曲者で、四人がかりの私兵団をたった一人で無力化してしまったのだと。
雷を使っていたという点から魔術師かと思ったが、鎧を来ていたという点がマルダン伯爵には引っかかった。金属は魔力の通りが悪く魔術師は鎧を避ける傾向がある。そもそも金属鎧、それもプレートアーマーを纏って魔術を行使できる者などごく僅かだ。
「……お茶を」
マルダン伯爵は飲み干して空になったティーカップを指さす。すると背後に控えていた黒服の大男が颯爽と動きだし、慣れた手つきでポットから紅茶を注いだ。
黒服はくすんだ茶髪を横になぜた髭面の男で、その大きく分厚い手にはいくつかのタコがあった。
紅茶を注ぎ後ろへ下がる黒服にご苦労と声をかけると、伯爵は器に口をつける。トリーデン王国アドフィール産のゴールドチップスは、フルーティで華やかな香りがした。季節の紅茶の中でも特に高価なこの茶葉は、一箱で平民の2ヶ月分の生活費にも値する。味と値段両方含めて、この紅茶が伯爵の好物だった。
マルダン伯爵がティーポットを丁寧な所作でソーサラーの上に置き万年筆を手に取ろうとしたところで、執務室のドアが叩かれる。生真面目に2回、同じリズムで鳴るノックは緊張感を帯びていた。
「入りなさい」
伯爵が短くそう告げると、扉が静かに開かれた。
現れたのは給仕服に身を包んだ二十代半ばの女性だ。薄い茶髪を後ろに流して給仕帽でまとめている。水仕事などで荒れた手には公務に関する書類がまとめられていた。
マルダン伯爵は伯爵という爵位を国に与えられた貴族であるため、彼には領地を治めて税収の一部を国に献上するという公務があった。奴隷売買に本腰を入れ始めた最近は煩わしく感じるが、彼の裏稼業の基盤に貴族という身分があるのも確かだ。
マルダン伯爵自身、己の貴族という生まれに誇りを感じていることもあり、公務も平行してしっかりと行っていた。まあこの公務には領民から、生活ギリギリになるまで血税を搾り取ることも含まれているのだが。
書類を持ってくるよう伯爵が促すと、給仕服の女は恭しく礼をして執務机の方へ歩き出す。
「ああ、ご苦労」
伯爵はにべもなくそう告げると女から書類の束を受け取る。そしてすぐにその細い眉をしかめた。伯爵は書類を机の上に置いてから自身の手を眺める。綺麗に磨かれた爪が特徴のその手には、ピッと赤い一筋の線が刻まれていた。書類を受け取る時に紙で指を切ってしまったらしい。
「もっ、申し訳ございません!!」
伯爵の異変に気がついた給仕服の女が慌てて頭を下げると、下げられた頭がそのまま地面に衝突した。伯爵に掴まれて叩きつけられたのである。ゴンッという鈍い音が執務室に響いた。
「よくも平民が、私の手を傷つけてくれたな!」
ヒステリックに喚き立てるマルダン伯爵は先程とは別人のようだ。その細い脚で何度も女を蹴り上げる。たまらず給仕服の女はその場で丸くなった。
女がうずくまるのを見ると、伯爵は女の髪を掴んで顔を上げさせ、彼女の顔の前に自身の手を差し出す。そこには紙の切り傷を除いて全く傷のない、綺麗で柔らかな手があった。
「いいかね。手は口ほどに雄弁だ。商人、大工、騎士、手はその者の辿ってきた人生により形を変えて三者三様の姿となるんだ」
不出来な子に言い聞かせるように、ゆっくりとした口調で伯爵は語る。手はその者の人生により形を変える、それは伯爵が平民を虐げる時に決まって言うセリフであった。
「だから手は世界共通の身分証なのさ。私の満遍なく手入れされたこの手は貴族の証、それをお前のようは平民が傷つけていい道理はないよな?そうだろ?」
何を言っているのか分からない。とんでもない暴論だと女は思った。しかし彼女は平民であり目の前にいるのは強大な権力を持った貴族だ。それにこうして暴力を振るわれるのも初めてではない。
だから彼女はただ耐えることを選んだ、引き攣った声で謝罪と肯定をひたすら繰り返す。
「見たまえこの絹の如き私の手を。下賤な労働を知らぬ支配者の手だ。お前のような汚らしい下民の手とは違う!お前のように惨めにせこせこ働いている者の手とは違うのだよ!」
伯爵の右足が女の側頭部を蹴る。伯爵の右足が女の腰を蹴る。伯爵の左足が女の肩を蹴る。
女はすみませんと許しを乞う。女は止めてくださいと蹲る。女はただただ啜り泣く。
権力を盾とした一方的な蹂躙だ。黒服の男は目の前で自身の主人によって繰り広げられた凄惨な光景を、まるで路傍の石を見るかのように眺めていた。だがやがて何かを思いついたかのように伯爵のもとへと歩き出した。
近づいてきた黒服に気がついた伯爵は一度暴力を止める。蹴りが止んだことで女も震えながら頭を上げた。
「お戯れも疲れましたでしょう。ここらで休憩は如何でしょうか?」
そう話す黒服の右手にはティーポットが握られていた。その顔には何故か邪悪な笑みが浮かんでいる。
「ああ、それもそうだね。折角だからそこの下民にも茶を振る舞ってやろうか。トリーデン王国アドフィール産のゴールドチップスだ」
伯爵はティーポットを受け取ると、女に顔を近づけるようにしゃがみ込んだ。そしてポットの口を女の顔へ向けて傾けるような仕草をした。
「やめ……お止めください。お願いです」
「もともと泥に塗れた下民の顔だ。泥も火傷もさして変わらんだろう」
優雅に微笑むマルダン伯爵は、その貴族然とした態度のままポットを傾ける。女の震える瞳に湯気を吐き出すポットの口が映った、その時だった。
コン、コンッ。
控えめなノックが執務室に鳴り響いた。
マルダン伯爵は、傾けていたポットを黒服に渡してノックの主に部屋へ入るよう告げる。
伯爵の許可と共に執務室の扉が開き、一つの小さな人影が部屋の中へと入った。
小柄な身体に紫がかった黒のワンピースを見に纏った、15歳程度の少女だ。後ろで二つ縛りにした灰色の髪は、光の角度によってはピンクや青にも見える。愛らしい顔についた猫のように大きな瞳も、色素が薄く角度によって様々な色がついているように見えた。少女らしい小さな手には、古めかしいガンマンの人形が握られていた。
「すみません。遅れちゃいましたぁ……」
少女は蜜のように甘ったるい声で伯爵に謝罪する。それから倒れている女に気がつき、女と伯爵の間に割り込むように室内へと踏み出した。
「ふむ、君は相変わらず心優しい子だねマリシャ」
自身の目の前までやってきた少女、マリシャを見て伯爵をため息を吐く。そして彼女の背後でうずくまっている女に告げた。
「もういい。私はこれから彼女と仕事の話があるのでね。とっととこの部屋から出て行きなさい」
腹這いになっていた女は小さく頷くと、ヨロヨロと立ち上がってそのまま扉の方へと歩き出した。
既に伯爵は給仕の女に対する興味は失せたらしく、立ち去る女を尻目に新たに部屋に入ってきた少女マリシャに声をかける。
「よく来てくれたね。まあ立ち話というのも無粋だ。腰掛けてゆっくり話すとしよう」
そう言うとマルダン伯爵は執務机の前のソファに腰掛けた。マルシャも黒服が部屋の隅から運んできた小さな木椅子に遅れて腰掛ける。
執務室内は先程までの騒ぎが嘘であったかのように静かだ。部屋の中央にある大きな窓からは陽の光が差し込み、歌を唄う野鳥の声が聞こえる。マルダン伯爵は優雅にティーカップから紅茶を一口飲むと、目の前に座る小さな少女に目を向けた。
「さて、君を呼んだということは他でもない。お掃除を頼みたい。今度は厄介な鼠が出てね」
お掃除という言葉にマリシャの顔が少し強張った。掃除と聞いて本当にただの掃除を思い浮かべる者は生憎この場にはいない。全員の頭にあるのはもっと物騒なことだ。
マリシャの表情に気がつきながらも、マルダン伯爵はそのまま話を続けた。
「対象は三人。この前の盗人二人と新たに雇われたらしきボディーガードが一人。詳しい話は道中の馬車にて聞いてくれ」
すらすらと話すマルダン伯爵とそれを反芻するマルシャ。今までの年季を感じさせるスムーズなやり取りである。
「……あのぉ」
伯爵のお掃除の依頼を聞いたマリシャが、おずおずと人形を持っていない方の手を挙げた。薄く小さな彼女の手に伯爵の視線が向く。
「すみません伯爵さん。私これ以上こんな仕事……」
「役立たず」
マリシャの言葉に被せるようにマルダン伯爵はそう呟く。途端、彼女の表情がみるみると青ざめた。
その様子を眺めて伯爵は目を細めて、言葉を続けた。
「……にはなりたくないだろう?君の居場所なんてここにしか無いんだ。でも役立たずはこの屋敷には置いておけない」
「はい。役立たずは、嫌です……」
伯爵の言葉にマリシャは力なく頷く。萎れた様子のマリシャに伯爵は満足そうに微笑みかける。
このやり取りも初めてではない。マリシャが仕事を辞めようとする度に、伯爵はこの手法で彼女を汚れ仕事に押し留めていた。
過去にどういった経験をしたのか伯爵は知らないが、マリシャは役立たずといった言葉を非常に嫌っていたし、また居場所がなくなることを恐れていた。それは出会った頃からそうであり、役立たずという言葉を出しつつ屋敷から追い出すことをちらつかせば、彼女にはどんな仕事も押し付けることができた。
いってしまえばマリシャは伯爵にとって、非常に与し易い相手だった。
「では今回の仕事もやってくれるね?」
「はい」
そしてお決まりの台詞を言えばマリシャは仕事を受け入れる。実に単純な作業だ。
「それでは準備をして出発しますね。失礼しますぅ」
マリシャはそう言うと、ぎゅっと人形を握ったまま席を立った。
「ああ待ちたまえ。君にこれを」
伯爵の呼び止めによりマリシャが振り返ると、黒服がいつの間にやら取り出した小さな箱をマリシャに差し出した。
トマトくらいのサイズのそれは、銀製で鎖のような装飾が施されている。黒服から受け取ってみれば大きさの割にズシリとした重みがしてマリシャは驚く。また手に持つとヤスリのようなジリジリとした魔力の感触があった。
これは恐らく魔道具の類だろうとマリシャは察する。
「それは魔道具だ。今回の敵は強力らしいからね。もしも戦って勝てないと感じたならそれを開くといい」
「ありがとうございますぅ。あの、効果の方は……?」
伯爵の厚意に感謝をしつつ、マリシャが魔道具の内容について質問にする。それに対して伯爵はにっこりと微笑んで、一拍置いてからこう告げた。
「強力な炎の魔術が込められている。ただ気軽には使わないでくれたまえ。かなり高価なものだからね」
マルダン伯爵の言葉を反芻するとマリシャは笑顔で頷いた。
ここまでお膳立てをされたのならばマリシャはもう仕事を執行するだけだ。古びたガンマンの人形を握りしめて、彼女はこれから殺す者達のことをぼんやりと思い浮かべた。