1.6 命の取引
ユーリカという女が嫌いだった。
出会って間もないが、彼女の人を無闇に助けようとするところや、他人を簡単に信用するところが気に食わなかった。善良を押し付けられているようで無性に腹が立った。
悪魔である自分に助けを求めた理由が、悪事の阻止であると知った時は内心仰天したものだ。悪魔の力など悪用しようとすれば幾らでも使い道はあろうに。それを正義なんてものに使うとは。
清廉潔白で素直、人一倍の優しさを持った少女というのがアルビオから見たユーリカだ。そんな彼女の全てが、アルビオには気に食わなかった。
あの、お人好しな顔を歪めてやりたい。
そう思っていた矢先である。ユーリカがアルビオに助けを求めたのは。
―――
「やだね」
「え……?」
アルビオの予想外の回答に、ユーリカは言葉を見失った。
その綺麗な翡翠色の瞳は疑問一色に染められている。
望み通りの反応にアルビオは笑い声を押し殺す。これから先の最悪のシナリオを思い浮かべながら。
「おっと、勘違いするなよ?俺は『無理だ』じゃなくて『やだね』と言ったんだ」
ユーリカが疑問を吐き出す前に、アルビオが追い討ちを掛ける。無理ではない、ただやらないだけだと言われてしまえば、もうユーリカにはどうすることもできまい。
実際にアルビオの思惑通りユーリカは何を言えばいいのか分からず、言葉にならない声を踊らせている。
友人のピンチという余裕のない時間で、ユーリカは頭を鈍器で思い切り叩かれたような錯覚に陥っていた。
二人のやりとりを眺めていた竜門は、特段大きな笑い声をあげる。
「ははははっ!可哀想に。人は窮地に陥るとこんな醜い仲間割れをするのだね。哀れだなぁ」
耳に障る高音だ。竜門の嘲笑が梢枝を揺らす。
だがユーリカにはそれを耳障りに思う余裕もなかった。ただ、アルビオに問い詰める。
「どうして?さっき触手の攻撃から私を助けてくれたよね。お願いだよ、ルカを助けて!」
「やだよ」
「何度も頼ってごめんなさい。何度も助けてもらってごめんなさい。でも、ルカは私の友達だから、だから、ルカを助けてください……!」
川辺に響くユーリカの声はあまりに悲痛だ。
友人を助けたいという少女のいたいけな嘆願は、悪魔の耳には届かない。最初から聞く気など無いのだから。
ユーリカが願い、アルビオがそれをはねのける。そんな両者のやり取りを竜門が満足げに眺める。
さながら悲劇の一幕のような光景は、竜門にとって愉快なものだったのだろう。
しつこく助けを乞うユーリカに、アルビオは煩わしげにため息を吐いた。
「勘違いしないでくれよ。俺がお前を守ったのは契約だからだ。エンパー男爵領に帳簿を届けるまでお前を守る、そういう契約に従っているだけさ。0%の善意に期待すんなよ」
契約、それは祠でユーリカがアルビオの封印を解いた時に、半ば強制的に結ばされたものだ。そしてこの契約こそがアルビオをこの場に留めているたった一つの動機であった。
アルビオの言葉を受けて、ユーリカは言葉を失ったように俯く。
自分の言葉を受けて絶望してしまったのだろう。アルビオはそう思い口の端を大きく歪めた。嬉々としたU字からはくつくつと笑い声が溢れる。
「俺はお前が嫌いだ、ユーリカ。そしてオレンジ髪のことも好きじゃない。だからあいつが死ぬまでお前と仲良くここで見てることにするよ!」
アルビオの悪意を真正面からぶつけられたユーリカは、ただ泡の拘束の中でもぞもぞと身をよじらせる。その姿はさながらミノムシみたいでよりアルビオの加虐心をくすぐった。
「……ひとつ、いいですか?」
水の触手に絡みつかれたルカが、身を捩りつつアルビオの方へ問いかける。
「恨み言なら好きなだけ吐けよ。特別に聞いてやる」
「貴方が契約に則るというなら、ユーリカは、ユーリカは助けてくれるんですよね」
「……」
額に脂汗を浮かべながら親友を慮るルカにアルビオは呆けた顔を浮かべる。
恨み言か、あるいは無意味な命乞いがくるものだと思っていた。それがこの期に及んで他人のことなど、アルビオにとっては全く考えられない感情だった。
「まあな」
曖昧な肯定は煮えきれない胸中から溢れたものか。アルビオは胸のモヤを横目に顎をしゃくった。まあこの女はもうじき死ぬのだ。死者に対してあれこれと思索を巡らせるのは時間の無駄だろう。
ユーリカが俯き、アルビオとルカの会話が終わると周囲は一気に静かになった。戦いの余波を避けるためか動物や昆虫の気配すら薄らいでいる。
清流の音だけが響く川辺で、竜門は巻いていたとぐろを伸ばし大きく背を伸ばした。そうして、歪なひび割れのような眼をルカに向ける。
竜門にとっての余興は終わり、ついに処刑の時間が来たというわけだ。
「もう暴れて抵抗するのは止めたのかい。清々しくていいと思うよ」
竜門は今までより柔らかい声でルカに語りかける。
嫌味ったらしいその語りも、死を覚悟したルカにとってはあまり気にならなかった。もう全てが些事なのだ。
ただ、ユーリカについては少し気がかりだった。契約に縛られている限りあの悪魔は彼女を助けるだろうが、それはあくまで肉体的な意味に過ぎない。今回のようにあの男は精神的に彼女を傷つけようとすることはあるだろう。
最期にユーリカの顔を見よう。ふとそう思いルカは視線を動かした。
そこには丁度、泡の中で身をモゾモゾとよじらせ、て懐から何かを取り出したユーリカの姿があった。
ーーー
アルビオの呆けたような顔が目の前にあった。そしてその奥ではルカが大口を開けており、彼女にとどめを刺そうとしていた竜門もまたこちらを見ている。
皆が驚いた視線をこちらに向けてくるものだから、ユーリカは何だか悪戯が成功した子供のような気分になった。修道院時代にルカと一緒にちょっと大きな悪戯をした時は、院中の皆が自分たちにこんな視線を向けてきたものだ。
「おい女ぁ、何してんだお前?」
アルビオは珍しく声を上擦らせて、そのウルトラマリンの瞳でユーリカを見つめる。その視線は彼女の顔より少し下を向いている。
ユーリカは自身の首筋に冷たい刃をあてがったまま、その翡翠色の瞳でアルビオを見つめた。何拍か間を置いて顔を歪めた悪魔と目が合った。
「ごめんねアルビオ、私きっと貴方に対して酷いことをする」
アルビオはユーリカのことが嫌いだと言った。だからルカを助けないし、助けを請うユーリカを言葉でなぶった。彼はユーリカを全力で曇らせたいのだ。
ただユーリカはアルビオの思い通りになるわけにはいかない。友であるルカを助けるためにも。
「これはお願いじゃなくて取引。ルカを助けて」
少しでも気丈に、声の震えを律するように一語一語はっきりと話す。侮られてはダメだ。そう思い微塵の恐怖も悟られないように振る舞った。
アルビオはユーリカを助けた理由は契約にあると言った。であるならば今度は契約を使って、ルカを助けて貰うことも可能なはずだ。
アルビオはユーリカの意図を悟って苦虫を噛み潰したような顔をした。
アルビオはユーリカの命を守らなければならない。その契約を逆手に取ってこの女は自分の心臓を天秤に載せたのだ。ルカを助けなければ自分が死ぬ、つまりこれはそういう脅しなわけだ。
「……口先だけの奴ほどそういう真似をするんだぜ。そうやって刃物を使えば、簡単に深刻な状況に見せかけられるからな」
ただあくまで脅しは脅しなのだ。この女に実行する勇気はない。アルビオはそう判断してユーリカを睨みつけた。
「私は、本気だよ」
ユーリカの細い首筋に一滴の血が流れる。鋭い痛みに顔が歪みそうになるが、唇をきゅっと結んで堪える。
遠くで何やら叫ぶルカの声が聞こえたが、ユーリカはそれを聞かないフリしてアルビオだけを見た。
滴る血を眺めたアルビオは自身の胸にゾワゾワとしたものを感じた。これは契約の主が命の危機に瀕しているという警鐘だろう。ユーリカを水の触手から守る直前にも感じた不快感だ。
だが、その不快感は先程感じた時よりも大きい。警鐘云々以前にアルビオはユーリカに対して底知れぬ不快感を抱いていた。
「首には大きな血管が流れているんだって。だからこのまま刃物を引き切れば、私は多分死ぬ」
そのままアルビオを見つめ続けるユーリカに、アルビオは歯を見せる。感情とは裏腹のぎこちない笑顔を。
「自分の命を脅しの材料に使って悪魔をけしかける。お前、本当に聖女かよ?」
「今は聖女とかどうでもいいんだ。ルカに死んでほしくないから」
ユーリカの返答にアルビオは乱雑に髪を掻くと、一つ大きな息を吐いた。
そしてアルビオが地面を強く踏み締めると、瞬間、川辺のしじまに稲光が咲いた。
ーーー
『雷鎚』
雷を孕んだ拳が水の触手を引き裂いて、ルカを拘束から解き放った。アルビオが泡を振り解いて8秒後の出来事だ。
乱雑に抱いたルカを地面へと置くとアルビオは視線を上げる。そこには驚愕の表情を顔に貼り付けた竜門の姿があった。
「私の泡は全てを閉じ込める鉄壁の牢獄。そこから抜け出すなんて不可能なはず……!」
「牢屋に封じられる悪魔なんて聞いたことないだろ?俺を捕まえたいなら神にでも頼るんだな」
まあ尤も二度も捕まる気はないが、とアルビオは一人ごちる。
竜門は潰れるほどの歯軋りをすると、再び川面から水の触手を伸ばしてアルビオを切り裂こうとする。だがその攻撃は既にアルビオには見切られていた。
右、左、少し屈んで、右、右、左。
怒涛の連撃をアルビオは最小限の動きだけで躱していく。直線的な触手の攻撃は初動さえ見ていればそう当たるものではない。アルビオ程の猛者であればの話だが。
一向に当たらない攻撃に竜門は歯噛みをする。もともとは人を騙すための美しい女の顔を獣のように歪めて、貧乏ゆすりのように尻尾を地面に叩きつける。
徐々に触手の量を増やしていって、既に最大本数まで使用している。であるにも関わらずアルビオは涼しげな顔でそれを捌いていった。
「何だこの力の差は。ずるい。不公平だ!」
竜門はヒステリックに喚き立てると、先程ユーリカたちを拘束した時と同じように、六本の腕で己の身体を擦り始める。
みるみる竜門の蛇のような体躯を覆う泡。それは先程と異なり竜門の身体に纏わりついたまま鎧となった。
泡を鎧い、水の触手を放ちながら後方へと下がる竜門。だがそんな方法でどうにかなるほどアルビオは甘くない。
アルビオは眼前に迫る水の触手を雷鎚で引きちぎると、腰を屈めて地面を強く踏み込んだ。
パチリ。
竜門が瞬きをした一瞬で、アルビオは竜門に急接近して拳を振り上げる。この場にいる誰もが捉えられない超スピード。まさに雷の如き速さだ。
『雷鎚参連』
そこから繰り出される三発の雷鎚。
一発目で竜門を守る泡の鎧が跡形もなく爆ぜる。
二発目で竜門の身体を地面へと墜とす。
三発目で腕でのガードを試みた竜門の、その腕を吹き飛ばした。
圧倒的な暴力。力、速度、戦闘センス、その全てにおいてアルビオは竜門を上回っていた。
「どうして……」
腹這いになってこちらを見上げる竜門に、アルビオは冷たい視線を落とす。どうしてこんな目に遭わなければならないのか、竜門の涙ぐんだ目からは本気でそう思っていることが伝わってきた。
もう抵抗などできない有様の竜門にアルビオは雷を纏った拳を向ける。こいつと戦っていればいるほど、ユーリカに上手いことやられた屈辱感が湧いてくる。だからアルビオはもう早く終わらせたかった。
「私は君たちにたくさん慈悲を与えてきた!そうだろう!?であるならば君たちはそれを返すべきだ!慈悲を!慈悲をくれ!」
突如飛んできた素っ頓狂な命乞いにアルビオは思わず失笑する。面白いジョークだがそれで拳を収める理由は全くない。だからアルビオは拳をより強く握りしめた。
「私はただ可哀想な君たちを救おうとしただけなんだ。これはきっと不幸な行き違いだよ。なあ、そうだろう!?どうか慈悲を!」
「ああ、お前は不幸だったかもな。あんな狂った聖女様に目をつけられなければ、こうなることもなかったのに」
アルビオは本心からの憐れみを向けると、最大出力の雷鎚をその顔へと振り下ろした。激しい雷光が夕暮れ時の川辺を奔り、その長い肉体は泡と同じように爆ぜた。
「可哀想に」
その言葉を耳にしたのを最期に、竜門の意識は闇の中へと消え去った。