1.3 竜門
時刻は正午を大きく過ぎて、白雲が形を変えながら空を流れていく。窓辺から注ぐ陽光と甲高い鳥の声が穏やかな午後である。店内の客の大体は食事を終えて、店主に感謝を告げて店を後にするか食後の歓談に興じていた。
食事を終えたユーリカ一行もそんな人の流れに乗り席を立つ。エンパー男爵領までは馬を走らせて4日、馬を持たないユーリカたちにとっては12日かかる距離だ。あまりここで長居をしている暇はない。
「ご馳走様でした!」
「ありがとうございました」
ユーリカの快活な礼が店内に響き、それに続いてルカが控えめに頭を下げる。そんな二人に顎髭を蓄えた斑髪の店主はにっこりと微笑み返す。
「けっ……」
そんな3人のやり取りがどこか気に入らないのか、アルビオは眉をひそめて足速で店内を出ようとする。あの二人、特にユーリカの存在は彼の心をよく荒ませてくる。まだ出会って間もないがアルビオはユーリカのことを毛嫌いしていた。
ほつれた平常心を頭で繕いながらもアルビオを出口のドアに手を伸ばす。それと同時に目の前のドアが開いた。
ドンっと店の出口から飛び出してきた男がアルビオに衝突する。
「いってえなオイ!どこ見て歩いて……」
悪態を吐きながらアルビオはぶつかってきた男を見る。不機嫌そうに細めた目は正面の男を捉えると大きく見開かれた。
それと同時に店の奥にある客席から悲鳴が聞こえる。客の一人がアルビオと衝突した男を指さした。
「おいおい、何てことだ」
異変に気が付いた店主がアルビオの背後から顔を覗かせる。ユーリカたちもまた心配そうな表情でアルビオの方を見ている。アルビオはそんな彼女らを一瞥したあと、視線を再び出口の方へと戻す。
そこには、ずぶ濡れの服を着て肩口から出血をした若い男がいた。息も絶え絶えといった様子で、男はどうにかここまでたどり着いたらしい。店主の顔を見ると張り詰めた表情を少し崩し安堵の息を吐く。
「待っていろカブ。いま救急箱を取ってくる」
店主はずぶ濡れの男の名前を呼ぶと、そう言って店外へと駆け出していった。どうやらカブと呼ばれたこの男は村の住人のようだ。
店主が去っていくとカブはその場に座り込み壁にもたれかかった。ゲホゲホとしきりに咳き込むところから川で溺れていたのだろうか。肩に刃物のようなものによる切り傷があることから、何者かに襲われた可能性は高い。切り傷の幅から得物は短剣だろうかなどとアルビオはカブと呼ばれた男をつぶさに観察していく。
眉間にシワを寄せながらジッと見つめるものだからカブはたじろぐ。瀕死の状態で強面の大男に見つめられて動じない者などいるだろうか。
「ちょっとアンタ、なに怪我人を威嚇してるんですか……」
「俺は観察してただけだ。こいつが勝手に怯えたんだろ」
呆れた様子のルカに対してアルビオが反論する。
アルビオの言っていることは正しいが、彼の存在自体が威圧となっていることも事実だ。人相というのはどうしようもない。
「二人ともどいて!まず手当てをしなきゃ!」
呑気にも睨み合う二人の間を割ってユーリカが顔を出す。怪我人を見ると放っておかないのが彼女だ。
ユーリカは壁にもたれかかるカブに駆け寄るとその場にしゃがみ込む。そうして断りを入れると血が滲んだシャツを脱がせて、傷口を露わにさせた。
ひどい傷だ。傷口はナイフで強引に肉を掻き切られたようで、看過できるほど浅くはない。このまま放っておいたらすぐには死なないにしても、いずれは出血多量で死んでしまうだろう。
ユーリカはそのひどい切り傷を見て息を呑むと、すぐに表情を元に戻し深呼吸を2回した。その額には微かに緊張の汗が流れる。
「待ってくださいユーリカ。さっき店主が店を飛び出した時救急箱を取ってくると言ってました。何も貴女が力を使う必要は……」
ユーリカを静止したのはルカだ。彼女の声からはその文面以上にユーリカを心配するような色があった。
「うん。でもこれだけの傷だと後遺症が残る可能性がある。だからなるべく早く治療しないと、止血だけでも」
そんなルカの手を握り、ユーリカはふるふると首を横に振る。そして優しい声色でそんなことを言うものだからルカは了承せざるをえなかった。
ーー治癒術。
ユーリカが行おうとしているものは恐らくそれであろうとアルビオは推察する。
長き時代を生き、この世のあまねくを強奪してきたアルビオですらも生で見ることはなかった希少な術だ。
その内容は傷ついた者を癒し万病を快復に導くという単純なものだ。ただその単純さゆえに強力で数多の人間がその術を追い求めて命を散らしていった。
だが、長きを生きるアルビオは知っていた。その術はーー
ユーリカの詠唱が店内に響き渡る。鈴のように澄んだ声が言葉を編むたびに、眩い光がユーリカとカブを包んでいく。
空気が揺れる。天井の吊るしランタンがガタガタと音を立てた。店内はどよめきで埋めつくされる。
「何だ、これは……」
救急箱を取って戻ってきた店主が素っ頓狂な声をあげる。目の前で起こっている光景に理解が追いつかないのだ。すでに店内は眩いばかりの光で埋め尽くされていた。目を開けることすら憚られる極光だ。
アルビオは薄らと目を開けて光が放たれている中心を見た。そこには玉の汗を浮かべて叫ぶように唄う少女がいた。桃色の髪を乱して細い手で祈りの形を象る。その姿はアルビオの瞳にさえも痛々しく映った。
この間にも光はどんどん勢いを増していき、ついにはアルビオは目を開けることができなくなった。
それから数秒後、ユーリカが何かを大きく叫ぶと光は一気に霧散した。そしてさっきまで痛いばかりの光を放っていた場所には傷が塞がり顔色が良くなったカブと、衣服を汗でじっとりと濡らして地面に座り込むユーリカがいた。
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「竜門だ。竜門にやられたんだ」
一連の騒動のあと、カブは食堂の椅子に深く腰掛け水を一杯あおるとそう言った。竜門、アルビオにとっては全く聞き覚えのない単語である。
しかしこの場にいる者たちにとってはそうではないらしい。小さなどよめきが一同を巡る。
「こんな所でも竜門の名前を聞くとは。まったく節操のない連中ですね」
「しかも既に実害あり。これは見過ごせないよ」
ことの流れでその場に残ったユーリカとルカも、何やら深刻な顔をして話している。どうやらこの場において竜門という単語を知らないのはアルビオだけのようだ。アルビオは微妙な居心地の悪さを感じながらも近くにいたルカに問いかける。
「おい女、竜門って何だよ?」
「私の名前は女じゃありません」
「んなこと知ってるよ。ルカだっけ?」
「ルカティアと呼びなさい。ルカと私を呼んでいいのは親友のユーリカだけです」
面倒臭い女だと顔をしかめるアルビオにルカはフンスと鼻息をした。呼び名はルカの決して譲れない事項12選の中の一つだ。それの他には歯磨きは必ず左奥歯からなどといったものがある。
「何だい大きい人。竜門を知らねえのかい?」
徐々に周囲の注目がアルビオに向いていることに気がつくとルカは、慌ててアルビオを店の隅っこへと引っ張っていった。アルビオの存在は間違いなく話をややこしくする。一旦外野にいてもらった方がいいだろう。それに彼が竜門の存在を知らないのならその説明をしなくてはなるまい。
ルカはこれでも気が効く女だった。
「おいオレンジ髪、引っ張るな」
「オレンジ髪じゃなくてルカティア! ってそんなことよりもアルビオ貴方……竜門を知らないって本当ですか?」
軽く吠えつつアルビオの顔を覗き込むルカ。そのビリジアンの瞳には少し困惑の色が見える
「あまねくを手に入れる大悪魔の俺にとって、無知とは恥ずべきものだ。わざわざ装うものか」
それに対してなぜか尊大な態度で返すアルビオ。ルカは「はぁ」と小さなため息を吐いて説明を開始する。
「竜門というのは千年前のドラゴン襲来と共にこの世界に現れた、私たち人族の敵対者のことです」
「千年前?ドラゴン?」
聞き慣れない単語の羅列にアルビオは頭を捻る。
少なくとも彼がこれまで生きてきた記憶の中に、ドラゴンだとか、竜門だとかいう言葉は存在しなかった。
それらの存在が千年前に出現したものだとすると、アルビオはそれよりも昔から封印されているになる。何の感傷があるわけでもないが、アルビオは天井のファンを仰ぎ、自分が封印されていた年月に思い馳せる。
最低でも千年、それはとても長い年月である。しかしそれにしては文明が変わらないなともアルビオは感じた。
それで、肝心のドラゴンとは何なのか。ルカが説明を続ける。
「ドラゴンとはこの世界に壊滅的な被害を与えてから消え去った、超常的な存在のことです」
「なんともあやふやな説明だな。んで結局そのドラゴンってのは何をした奴なんだ?」
「だからさっき言った通りですよ。世界に壊滅的な被害を与えたんです。ドラゴンは千年前にこの世界に突如現れて、たった二年で世界を横断しました。その通り道にあった文明を悉く破壊しながら」
なんとも荒唐無稽な話だとアルビオは顎を撫でる。
実際にこの世界を横断して地図を作った人物はいる。いまや偉人とされているその人物が世界横断を達成するのに30年の歳月を費やした。測量と並行しての横断なので移動だけならばもう少し時間は短縮されるだろうが、2年で世界を横断というのは信じられない話だ。
あまつさえ文明を破壊しながらとなると全く想像ができない。
訝しげな顔をするアルビオをよさ目にルカは説明を続ける。
「そしてその破壊活動の最中でドラゴンが拵えたのが竜門と呼ばれる邪悪な怪物です。奴らは皆魔術のような特異な力を持ち、私たちと敵対しているんですよ」
ドラゴンなる超常的な存在の襲来、それに伴う竜門という怪物の出現。どうやらアルビオが眠っている間に時世は大きく変わってしまったようだ。
「何で竜門ってのはお前らと敵対してるんだ?」
「知りませんよ。向こうが勝手に襲ってくるので」
アルビオの質問様に辟易したようにルカは肩をすくめる。そもそもドラゴンと竜門の話など他者に説明することはそうないのだ。この世界に生きる大抵の人間は、母親の膝の上とかそれに近しい場所で教わる一般常識なのだから。
慣れない説明をして疲れた顔のルカティアと、神妙な顔で考え込むアルビオ。そんな二人に背後からトテトテと近づく影があった。桃色髪のド善人、ユーリカだ。
彼女の接近にいち早く気づいたルカは顔に花を咲かせる。挙句アルビオと話していた時とは別人のような声で「私の親友ユーリカではありませんか!」と宣いはじめた。
「おっ、聖女様が来やがった」
「ユーリカでいいよ……」
イヤミ混じりに手を挙げるアルビオにユーリカは軽く言葉を返す。どうやら村人たちとの会話を終えてきたようだ。ユーリカの背後からは村人らの熱い視線を感じる。アルビオは嫌な予感がした。
「話は済んだようですね、ユーリカ」
ルカの言葉にユーリカは頷く。それから少し申し訳なさそうな様子で頬を掻いた。
「うん。それでね、少し寄り道をすることになった」
アルビオの胸中を渦巻いていた予感が全体にブワッと広がる。この女は何を言い出すのか、まさかこの村近辺に出没した竜門を倒しにいくだなんて言わないよな、などの言葉が白々しく頭を泳ぐ。
そんなアルビオの思いも知らずに、彼の目の前のお人好しは口を開いた。
「この村近辺に出没した竜門を倒しにいくことになった」