2.22 助けてユーリカ
夢を見る。いつも悪夢を。◾️◾️れで横◾️わ◾️◾️◾️に、◾️度も繰り返し◾️る夢だ。
深い霧の中、馬車は慎重に木々の隙間を縫って進んでいく。まず目指すはカイラの村、奴隷として攫われていた少年ホフマンの故郷である。
霧の影響で太陽が見えず、出発からどれくらい経ったのかは不明だ。だが車輪が地面を踏む感触と、窓から流れていく景色が、着実に前に進んでいることを教えてくれる。
ブルネンたちの話によれば、この狭い林道を下っていけばカイラに着くらしい。この道は廃棄された旧道ということだが、新しい街道を行くよりも距離でいえばかなり短縮できるということだった。
「しっかし道が悪いな。さっきから揺れてばかりでケツが痛てぇ」
馬車の中でアルビオが不快そうに目を細めた。馬車が揺れる度にアルビオの黒い甲冑がカチャカチャと音を立てる。
「うん。今走ってる場所は整備されていない旧道らしいからね。もう少し進めば、道も平らになってくるって話だけど……」
そう言いながら、ユーリカは膝の上に地図を広げる。地図によれば現在地の旧道は、カイラの手前で林を貫く街道へと繋がっている。
街道まで進めば道も多少はマシになるだろう。そんな希望的観測をユーリカは地図の上に巡らせていた。
「ならもっと早く進めねぇのか? いっそ手綱に電流でも流しちまえば……」
「だっ、だめですよぉ! ロバートが可哀想、です!」
アルビオの乱暴な提案に、ホフマンが珍しく抗議する。いつからか持っていたテディベアを抱きながらも、その目は強い非難の色を示している。
「あん?」
「ひぃぃぃ、ごっ、ごめんなさいです!!」
アルビオの視線に晒されて、ホフマンは怯えたように肩を振るわせる。そしてガクガクブルブルとしながら、ユーリカの近くへと身を寄せる。
そんな様子に、アルビオは毒気を抜かれたように眉を下げた。
「おいおい、んな怯えるなよ。安心しろジョークさ。実際に手綱に電流を流したりなんかしない」
「本当に、本当、ですか!?」
「当たり前だろ。俺様、嘘、つかない」
かつてホフマンやツヴァイと出会った廃墟に向かう際、似たことをして馬車を急かしていたアルビオだが、今回はそのことを棚に上げることにする。
実際にこの霧中の悪路で馬車を急かすのは、自殺行為といってもいいだろう。ユーリカを守るという契約をしている以上、アルビオは少し慎重に振る舞わねばならなかった。
「……やれやれ、めんどくせぇ」
アルビオはホフマンを適当にあしらったあと、掠れた声で呟く。この身一つで好き勝手できた封印前を懐かしみながら、アルビオはボンヤリと車窓からの景色を眺めた。
馬車の動きが遅々としていることもあって、景色の移り変わりも緩やかだ。白い霧で霞んだ木々が、ただゆっくりと流れていく。やがて霧が深くなると、その木々さえも輪郭を失い純白が場を支配した。
「霧がかなり濃くなってきたね」
ユーリカの何気ない一言は、ホフマンに向けて発せられたものだった。だがアルビオはそこに違和感を覚える。
窓の外はいつの間にか霧で真っ白になっていた。先が一切見えないほど、不自然なほどの白さだ。その霧を見るやいなや、アルビオは血相を変えて馬車を飛び出した。
「おいっ! 今すぐ馬車を止めろ!!」
霧と呼ぶにはそれは白すぎたのだ。それは不自然なまでに白く、魔術めいていた。まるで最初から色の存在が許されていないような、無彩色の世界が馬車の外に広がっていた。
故にアルビオは確信する。これは敵襲だと。
アルビオは軽やかに白の世界に着地すると、地面を強く蹴って馬車と並走を始める。
「アルビオ、アンタいきなりどうしたんです?」
馬車を無心で駆っていたルカが、思わぬ来客に目を丸くする。アルビオの文字通り悪魔めいた身体能力を知っているルカにとって、彼が馬車と並走できることに驚きはない。ただその行為に驚いたのだ。
状況が理解できていなさそうなルカに苛立ちを覚えながら、アルビオは再度声を張り上げる。
「聞こえなかったのか!? 馬車を止めろ!」
「はぁっ!? 理由は……」
「いいから早く!」
アルビオの怒号に眉を顰めながらも、ルカ手綱を後ろに引きながら、脹脛でロバの腹を圧迫する。『止まれ』の合図だ。本来であれば、これを合図にロバは徐々に減速していくのだが……
「止まらないっ!? ロバート、アンタどうしたんですか!?」
馬車を引くロバは目を虚を宿し、あろうことか加速していく。そこに意思は介在せず、何かに操られるように脚を動かす。馬車は出鱈目な軌道を描き、車輪はいつしか奇妙な軋みを上げた。
馬車からはホフマンの泣き叫ぶ声と、それを宥めるユーリカの声が聞こえた。霧の中悲鳴を轟かせて走る馬車は、まるで地獄へ死者を連れ去る死神のようだ。
そしてロバはクネクネと蛇行しながら、林道の脇にある大きな木へと突っ込んでいく。死に向かって、一直線に。
「手遅れか。こうなったら……」
アルビオは舌打ちをすると、その脚に更なる力を込める。そして一歩前に踏み出すと、そのまま今度は宙を蹴ってどんどん加速していく。
『雷動鳴躯』
その身を稲妻と化すアルビオの戦闘形態の一つだ。スピードに特化したそれは、馬車を止めなければいけないこの状況においては最適であった。
白き稲妻が馬車を追い抜くと、そのまま蜻蛉返りしてロバートの突進を正面から受ける。バチバチと雷が爆ぜると、馬車はスピードを急速に落として停止する。
「ふぅ、調教が足りなかったみてぇだな、この駄馬は」
アルビオは皮肉混じりに、急停止したロバを撫でる。意識を失って泡を吹くロバの頭を。
「すみません……助けられました」
ルカがよろけながら地面に降りる。掠れた声と伏せた目からは、自身の不甲斐なさを悔いる色が見えた。
そんなルカの様子を面倒臭そうに一瞥すると、アルビオは真っ直ぐに霧の向こうを指差す。
「俺様を敬い奉るのは後にしとけ。まだ仕事は終わってない」
無骨な指の示す先は、霧が一段と濃く一見何もないように見えた。しかし目を凝らせば、空間に強い畝りがあることが分かる。
その畝りは徐々に強まり、そこから幾つかの人影が現れた。ミイラのように乾いて痩せ細った身体、錐のように尖った爪、本来目が埋まってるはずの二つの孔から伸びる枯れ枝のような角。そのどれもが見た者に恐怖を植え付ける形をしていた。
「誘落鬼ですか」
「知っているのかオレンジ髪?」
「人を喰らう屍鬼の類ですね。霧の中では活性化し、幻術や精神干渉を行使します」
ルカはこめかみに指を当てて、図鑑の一節をそらんじる。ユーリカの旅に同行すると決めて、怪物図鑑を読み込んでいた時期に覚えたものだ。
誘落鬼はここら一帯では有名な怪物だ。幻術により人を森に誘い出し、集団で襲い喰らうことで知られている。誘落鬼の名前は、聖者オブリを霧で惑わし、崖の上から転落させたという聖書の逸話を由来にするものだ。
夏でも寒冷なこの地域では霧が発生しやすく、誘落鬼は活性化しやすい。そのため被害も多く、身近な死の原因として民間にも広く認知されていた。
「二人ともどうしたの? 大丈夫!?」
敵襲と共に馬車からユーリカが顔を出す。心配そうに瞳を震わせながらも、手にはメイスを握り臨戦態勢だ。
「誘落鬼の襲撃です。私とアルビオで迎撃するので、ユーリカは馬車の中でホフマン君をお願いします」
「うっ、うん! 分かった! ルカも気をつけてね」
ルカの指示にユーリカはすぐ頷いて、馬車の中へと退避する。それと同時に、誘落鬼の襲撃が始まった。
ーーー
鋭い爪がルカの首筋に伸びる。掠めた部分を全て抉り取る鋭利な一撃だ。それをルカはバックステップで回避する。
ルカの回避により狙いを外した誘落鬼は、体勢を僅かに崩す。その隙はルカが攻めに転ずるのに十分すぎるものだった。
『狐火・二ツ尾』
つんのめる誘落鬼の眼前に、ルカは杖の先を向けて魔力を練る。杖先に赤い炎が明滅すると、たちまちにそれは炎の狐へと変貌して誘落鬼に飛びかかる。
二又に分かれた尻尾を横に振りながら、炎の狐は誘落鬼の頭に牙を突き立てる。まるで新しい玩具を与えられた犬のように。無邪気な戯れにも見えるそれは、誘落鬼にとっては命に致る猛襲だ。一口、二口と炎が食い込む度に、誘落鬼は悲鳴を上げて忽ち動かなくなった。
「ルカはやっぱり凄いなぁ……!」
ルカの鮮やかな立ち回りに、ユーリカは目を奪われていた。馬車の中で潜めていた息はいつしか弾み、思わず漏れた声には安堵と感嘆が滲む。
ルカは強いのだ。自分の友人であり騎士である彼女の強さを、ユーリカは自分のことのように誇らしく感じていた。
「すっ、すげーです!」
ユーリカの横でホフマンもまた驚愕の声を上げる。彼の視線はユーリカとは別方向を向いていた。
黒い鎧に身を纏い、戦場を軽やかに駆ける巨漢。悪魔のような力を振るう正真正銘の悪魔アルビオの方を。
『雷刃』
アルビオが小さく念じ、右手に握ったダガーを上空へと掲げる。するとダガーの刃先から、1m程の長さを持つ雷の刃が生まれた。
カイトより受け取った魔力を刃へと変換する魔道具だ。それが大悪魔の暴力的な魔力を浴びて、煌々と輝いている。
アルビオの雷刃に、誘落鬼たちは怯んだ様子を見せる。生物としての本能が、近づくべきではないと警鐘を鳴らしているのだ。僅かな逡巡。その果てに彼らが導き出した答えは、大声を上げての突貫だった。
「ぐぉぉぉぉぉっ!!」
三体の誘落鬼が恐るべき叫びと共に駆ける。アルビオへ向かい、真っ直ぐに。その突進に呼応するように、霧中に叫びが重なる。
遠くから聞いているだけで身のすくむ叫びだ。馬車の中で状況を見守っていたユーリカは思わず目を細める。その瞬間ーー
「えっ、嘘っ!?」
ユーリカの目の前に信じられない光景が広がる。
アルビオへ向かう誘落鬼の数が、瞬く間に増えていくのだ。足音が響く度に一体。心臓の鼓動が脈打つ度に一体。粗野な怪物の突撃は、いつの間にか大地を埋め尽くす大群の行進へと変わっていた。
あまりに悍ましい光景だ。無数の手足が衝動のままに前進する様子は、蝗害や侵略者による略奪を想起させる。それは個であることを許さない暴力の波濤だった。
「危ないっ! アルビオ避けてっ!!」
思わずユーリカは声を上げる。恐怖と懇願が入り混じった悲鳴のような声を。
しかしアルビオはそれを聞き入れることはない。ただ不適な笑みを浮かべて、その行進を他人事のように眺めている。
それから間も無くして、地響きという名のマーチを轟かせ、怪物たちはアルビオへとなだれ込んだ。
目の前で起きる惨状を予見し、顔を覆うユーリカ。その華奢な指が目を隠すより早く、一筋の雷が怪物の群れを割いた。
「……へ?」
アルビオの背後に六つの塊が落ちる。それは真っ二つに切り裂かれた三体の誘落鬼だった。
「どうして逃げる必要がある? この偉大なる悪魔である俺が、たかが三匹の木偶に」
にべもないアルビオの言葉を聞いて、ユーリカは初めて気づいた。先程までいた怪物の群れは、幻だったのだと。
三体の屍を尻目に、アルビオとルカは周囲を見渡す。戦闘に身を置く者特有の、油断のない目で。しかし、しばらく待ってもこれ以上敵が来る気配はなかった。
「さて、誘落鬼も殲滅しましたし、そろそろ出発しましょうか」
「そうだな。おいユーリカ、いつまで呆けている? 行くぞ」
危なげなく敵を退けた二人が、馬車に向かって歩き出す。その姿はユーリカの瞳にはとても頼もしく映った。この二人がいれば、ホフマン君を故郷に送り届け、伯爵の私兵を撒き、全てが解決できそうな、そんな予感さえする。
戦いが終わった安堵感を胸に、ユーリカは二人のもとへと駆け寄ろうとした、その時だった。
「おっ……」
それはルカの口から漏れた。声ではなく、音として。そして音の後に、その小さな口から大量の血がこぼれ落ちた。
ルカの靴を真っ赤に染めて、足元に血の池が広がる。一目見ただけで、取り返しのつかない量だと分かるほど大量に。
一体なぜ、どうして、そんな疑問符を浮かべるまでもなくユーリカの視界にそれは映った。木の幹ほども太い黒い杭だ。それがルカの脇腹を貫いている。
そしてその背後には、体長20メートルを超える黒い人影が、霧の中で無数に蠢いていた。
ーーー
ユーリカは悲鳴を上げなかった。否、突然のことに悲鳴を上げることすらできなかったのだ。
眼前には犇く影の巨人たちと、杭に貫かれて動かなくなったルカ。霧はどんどん白さを増し、その分だけ地面の血がいやに目立つ。
早く助けねば、ユーリカはその一心で一歩前に踏み出す。
「そこで大人しくしてろバカユーリカ! お前まで死なすわけにはいかねぇ!」
アルビオの怒声が飛び、ユーリカは目を見開く。
一体アルビオは何を言っているのか。『お前まで死なすわけにはいかねぇ!』とは、まるでルカがもう手遅れみたいではないか。
否。否。否。ユーリカの思考がその言葉を拒む。早くルカを助けなければ。これ以上、救えない人を増やすわけにはーー
「来い怪物共。偉大なる悪魔である俺が遊んでやる」
ユーリカが逡巡している間に、アルビオは不遜な口上と共に跳躍する。全身に雷を纏い天を駆けるその姿は、稲妻のように眩く、そして速かった。
「さあ、血の噴水を見せてみろ!」
瞬く間に一体の巨人の頭上まで肉薄したアルビオは、急降下して雷を纏ったダガーをその首元へ叩きつける。
空を裂く強烈な斬撃。しかしそれは巨人の首を断つには至らなかった。分厚い首に雷刃は弾かれ、そのままアルビオは宙に投げ出される。
「何……だとっ!?」
アルビオの顔が驚愕に歪む。悪魔の力を用いた雷の一撃。封印の影響で力が弱まっているとはいえ、これまでの旅で防がれることはなかった。それが今、いとも容易く弾かれたのだ。
珍しく額に冷や汗を浮かべながら、アルビオは宙を蹴り体勢の立て直しを図る。卓越したバランス感覚と雷動鳴躯を駆使して、アルビオは再び巨人の眼前には突撃する。
次なる狙いは目だ。
外皮に攻撃が通らないのなら、皮膚に覆われてない箇所を狙えばいい。長年の戦闘経験をもとに導き出した勝利への演繹。それを頼りにアルビオは雷刃を前方に突き立てる。
空気が爆ぜ、鋭利な雷の刺突が巨大な眼球に突き刺さった。
「……クソったれ」
確かに雷刃は瞳に刺さった。しかし分厚い目の膜に阻まれ、勢いを殺されてしまっていたのだ。結果、雷刃が抜けなくなったアルビオは、上空で無防備にも宙ぶらりんの状態になった。
雷刃を引き抜こうとアルビオはバタバタと身体を動かす。それは戦闘に不慣れなユーリカから見ても、大きすぎる隙だった。
黒い巨人は目の前で無様に踊るアルビオへと、その塔のように長い腕を伸ばす。そうして五本の指を広げると、そのままアルビオを握り潰した。
遥かユーリカの上空から血の雨が降る。
恐るべき悪魔である筈の肉体から飛び散る、赤い赤い血の雨が。
「……えっ、うそ」
血の雨の一滴が頬を濡らすと、ユーリカの鼻腔に濃密な死の匂いが広がった。咽せ返るような、吐いてしまいそうな、鉄と生命が入り混じった死の匂い。
否。否。否。いくら否定しようとしても、その匂いは現実を告げている。
アルビオは死んだ。ルカも死んだ。また救えなかった。
「助けなきゃ。これ以上、これ以上は……!」
ユーリカはうわ言のように言葉を反芻すると、黒い巨人の群れに背を向ける。向かう先は馬車の奥だ。
馬車にはまだホフマンがいるはずだ。せめて、せめて彼だけは助けなくては。強迫観念じみた使命感が、ユーリカを駆り立てる。
「ホフマン君! 逃げるよっ!!」
切迫した叫び。それに応える者は誰もいなかった。代わりに、より濃密な死の匂いがユーリカを包む。
「あ、え……」
ユーリカは翡翠色の目を大きく見開く。その瞳には凄惨な赤色が滲んでいた。
死体だ。まだあどけない少年が首から血を流し、その肢体を晒している。真っ赤に染まった馬車の中で、ホフマンは無念に目を見開き死んでいた。
「ああああああああああああああああぁぁっ、ぁぁあっ!!!!!」
ーーー
夢を見る。いつも悪夢を。◾️◾️れで横◾️わ◾️◾️◾️に、◾️度も繰り返し◾️る夢だ。
ーーー
夢◾️ ◾️る。い◾️も悪夢を。◾️塗れで◾️ ◾️わ◾️母◾️に、何◾️ ◾️繰り返◾️ 謝◾️夢だ。
ーーー
◾ ◾️ ◾️る。い◾️ ◾️ ◾ ◾ ◾️ 。◾️ ◾️ ◾ ◾️ ◾ ◾️ ◾️ ◾ ◾️ ◾️ ◾️ 、◾️ ◾️ ◾ ◾ ◾️ ◾ ◾️ ◾ ◾ ◾だ。
ーーー
「助けて」
ユーリカの眼前には血の海が広がる。暗澹たるビロードのような雲。遠くで燃える山々。倒壊した瓦礫に混じって、無数の人々が血を流して呻いている。
「助けて」
「助けて」
「助けて」
皆が助けを求める。目の前の少女に。桃色の髪をした聖女、ユーリカに助けを求める。
「助けて」
「助けて」
「助けて」
皆が助けを求める。枯れ木のような腕を伸ばして、ユーリカに助けを求める。
「助けて」
「助けて」
「助けて」
手を伸ばす者は様々だ。年老いた老人、恰幅のいいパン屋の女主人、優しい顔をしたエルフの女性、頭を丸坊主にした子供。
それらは全て、ユーリカにとって見覚えのある者たちだ。
「助けて」
「助けて」
「助けて」
手を伸ばす。血塗れでひしゃげた腕を、精一杯ユーリカへと伸ばす。ルカが、アルビオが、ホフマンが、これまで救えなかった者たちが救いを求める。
「助けて」
手を伸ばす。くすんだ桃色の髪をした30代程の綺麗な女性だ。血塗れで横たわりながら、その細い手を真っ直ぐにユーリカへと伸ばす。
「助けて、ユーリカ」
ーーー
夢を見る。いつも悪夢を。血塗れで横たわる母親に、何度も繰り返し謝る夢だ。
その夢はいつもユーリカの住んでいた村が舞台で、分厚い黒い雲に覆われていて、あの日の惨劇の直後に固定されている。
血塗れで横たわる母親の近くには、他の村人たちや、これまでユーリカが救えなかった人たちがいて、みな血塗れで苦しんでいるのだ。
そして、皆が口を揃えてこう言う。「助けて、ユーリカ」と。
「ごめんなさい」
ユーリカは肩を振るわせて目を伏せる。それでも足元に縋り付く者たちの姿は見えた。
目の前の救えなかった者たちは、ただ無垢に救いを求めている。濃密な死の匂いをまとい、もう助からない命が救いを求めているのだ。
その光景が、救えなかった罪悪感が、ユーリカを責め立てる。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
堤防が決壊したように、謝罪の言葉が口を溢れる。それがもはや意味のないものだとユーリカは理解していた。だって彼らはもう死んでいるから。
しかし言葉の濁流に抗う術を、ユーリカは知らなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
ーーー
夢を見る。いつも悪夢を。血塗れで横たわる母親に、何度も繰り返し謝る夢だ。
ーーー
「でも」
ーーー
夢を見る。いつも悪夢を。血塗れで横たわる母親に、何度も繰り返し謝る夢だ。
ーーー
「私、行かなくちゃ」
ユーリカは気づいている。これが夢だと。あるいは何者かによって作られた悪趣味な幻だと。
目の前にいる彼女らは皆死んでいるのだ。とっくの昔に、ユーリカの前で。
「これ以上、人が死ぬのを止めるために」
ユーリカは自分の髪を撫でると、花冠の感触を確かめる。ホフマンが感謝の印として作ってくれた拙い花冠。そこから仄かに温かい陽光の匂いがした。
「私なんかが生き残っちゃったのは……きっと、この力を使うためだから」
陽光の匂いに導かれるようにユーリカが一歩踏み出すと、周囲の瓦礫が灰になって消えた。更に一歩踏み出すと、今度は暗澹たる雲に亀裂が走った。
そして三歩目を踏み出すと、眼前の悪夢が霧となって崩れ去った。
ーーー
「逃げるですよ! ユーリカさん!!」
泣き叫ぶような甲高い声がユーリカの背後から響く。恐怖で上擦ったホフマンの声だ。そしてその恐怖はユーリカの正面に立つ存在に向けられていた。
誘落鬼だ。いつの間にか馬車の入り口まで忍び込んだそいつは、枯れ枝のような腕の先にある鋭い爪をユーリカに向けている。
幻術を使ってユーリカをそのまま捕食するつもりだったのだろう。突如動き出したユーリカに、誘落鬼はひどく困惑した様子を見せる。
誘落鬼の背後には、全速力でこちらへ駆けるアルビオとルカの姿があった。
しかし彼らが到着するよりも早く、ユーリカは動いた。誘落鬼の隙だらけの懐へと踏み込み、カイトから譲り受けたメイスを振り抜こうとしたのだ。
その時、誘落鬼の顔が粘土のように歪む。そして怪物の顔はみるみる内に人の顔を模った。くすんだ桃色の髪、翡翠色の瞳、上向きの小さな鼻、それら全てユーリカに似ていたが、それよりも大人びて見える。
それは先程ユーリカが見たばかりの顔だ。最後に見た日から何年も経つのに変わらない優しい顔。誘落鬼の姿がユーリカの母親へと変わる。
「助けて、ユーリカ」
悪夢の中では見ることが叶わなかった優しげな微笑み。それを浮かべて人の皮を被った怪物はユーリカに懇願する。
幻術の精度は完璧だ。息遣いや体温に至るまで模倣したそれに、ユーリカは温もりさえ感じてしまいそうになる。
しかしユーリカの理性と記憶は残酷なまでに告げていた。眼前の母親は偽物であると。
「もうお母さんはいない。私の目の前で死んだから」
声の震えを抑えて、ユーリカははっきりと宣言する。それは眼前の怪物に向けた言葉というよりは、自分自身に向けたものだった。
「だから、さよならっ!」
メイスを思い切り振るうと、ユーリカの母親の顔が爆ぜる。真っ赤な血が飛び散り、肉を抉る感触がユーリカの手に返り血と一緒にこびりついた。
地面に転がる誘落鬼の亡骸を見つめると、その顔は本来の怪物のものに戻っていた。ユーリカはそれに大きな安堵と一抹の名残惜しさを覚える。
「ユーリカ、大丈夫ですかっ!?」
感傷に耽りそうになるユーリカを、ルカの声が現実に引き戻す。ユーリカが顔を上げると、そこには駆けつけてきたルカの姿があった。
細い眉を下げて、心配そうに口を振るわせるルカ。その表情を見せるのは朝に続いて本日二回目だ。
ルカには心配されてばかりだ。彼女の献身を受ける度に、こんな自分なんかのために、とユーリカは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
だからこれ以上はルカを心配させまいと、ユーリカは口の端をぐいっと上げた。
「私は大丈夫だよルカ。心配かけちゃって、ごめんなさい!」
治癒術と幻術で疲弊し切った身体を無理やり弾ませて、ユーリカは馬車の座椅子へとダイブする。努めて明るく、これ以上心配させないように。
「さあ出発しましょう! 早くホフマン君を村に届けないと!」




