2.20 愚者の祈り
寝苦しい夜にはエールが恋しくなる。酒は偉大だ。将来の不安も目の前の苦境も忘れさせてくれる。そして、この左手の痛みさえも。
ツヴァイは狭いテントの中で寝返りを打った。半ばのたうち回るように。寝返りを打つ度に、シーツ越しの石が背中に刺さる。
まるで針の筵だ。心身共に、とツヴァイは心の中で皮肉を言った。
痛みに堪えきれず目を開けると、テントの出口からチラチラと光が漏れていた。そして外からは神経質な息遣いが聞こえる。カンテラを持った私兵が見張っているのだろう。難儀な状況に陥ったものだと、ツヴァイは自嘲する。
今のツヴァイの状況を一言で表すのなら捕虜というのが適切だろう。ユーリカたちの情報を流す代わりに息を許された捕虜。生殺与奪は既に私兵たちに握られている。
ツヴァイはこの野営地に連れられたのは今日の夕刻である。ブルネン宅襲撃の後そのままこの場所に連れられてきたのだ。
到着してすぐに通されたのは、司令部らしき大きな天幕であった。そこでドールマジシャン・マリシャとゴレムスという男に情報を求められたのだ。首筋に鋼を当てられながら。
ツヴァイは正直に答えた。元より己は伯爵傘下の奴隷商人なのだ。伯爵に与するのは当然の行為である。ブルネン宅の襲撃でゴブリンたちを庇いはしたものの、自身はどうしようもない悪人だとツヴァイは自認していた。
『ツヴァイ……ああ、聞いたことありますよ。クナール商会の末端にそのような者がいると。汚れ仕事を厭わない働き者だとも』
天幕で顔を合わせた時、ゴレムスという伯爵の側近を務める執事は、抑揚のない声でそう言った。くすんだ茶髪を横に撫でつけた黒服の男だ。彼がマルダン伯爵の一番の側近だというのは伯爵陣営の中では有名な話だが、まさかこのような汚れ仕事の場にも顔を出すとは、とツヴァイは目を見開く。
それほどまでに今の事態は伯爵にとって看過できないことなのだろう。まずいことに巻き込まれてしまった、とツヴァイは背中に底冷えする感覚を覚える。
『貴方の働きが素晴らしいものであるならば、きっと伯爵は貴方を取り立ててくれるでしょう』
そう言って微笑むゴレムスだが、その目に一切の笑みがないことにツヴァイは気づいていた。そして、自分が極めて不安定で痛い立ち位置にいることにも。
「……痛ぇ」
左手の痛みによって、ツヴァイは回想から現実へ意識が戻される。暗闇の中目を凝らせば、左手に巻いた布には無視できない量の血が滲んでいた。
血を見るのは慣れない。それが自分から溢れ出ているものなら尚更だ。このまま止まらなかったから自分は死ぬのだろうか、ツヴァイの胸中には不安ばかりが募っていった。
「替えの布も無ぇしなぁ……」
今ツヴァイが左手に巻いているのは自前のハンカチーフだ。曲がりなりにも商人として身嗜みはしっかりしろと、彼の所属する商会の教えにより買わされたものである。
言われた当初は「布切れに金を出すなんて」と内心反発していたツヴァイだが、今はハンカチを買わせてきた商会にも感謝している。予備でもう一枚買っておけば良かったなどとさえ思うくらいに。
ギュッと目を瞑り、瞼の裏の羊を数えるツヴァイ。しかしその試みはすぐに中止させられる。天幕の外から話し声が聞こえるのだ。
私兵の疲れた声と若い女の舌足らずな声が何度か交わされると、その後ひとつの足音がツヴァイのいる天幕へと近づいてくる。そしてすぐに天幕の仕切りをくぐる音が聞こえ。
一体こんな夜中に何の用だろうか。鼓動を早める小心者の心臓に従い、ツヴァイは薄目を開ける。
「なっ……」
それと同時にツヴァイは目を合わせてしまった。自分の顔を無表情で覗き込む、突如現れたガンマンの人形と。
「どわぁぁぁぁっ!!?」
ツヴァイは寝床から飛び起きると、尻を地面に擦りながら三歩後退する。そして勢いのまま、天幕の支柱に後頭部をぶつけた。
「っ……! 痛ってぇっ……!!」
「あっ、えっとぉ……大丈夫ですかぁ?」
後頭部を押さえて転がるツヴァイに、天幕の入り口から少女が飛び出して駆け寄る。
色素の薄い銀髪のツインテールを揺らしながら、心配そうにツヴァイを見つめる少女だ。その人形めいた端正な顔に、ツヴァイはのたうち回りながら唾を飛ばす。
「大丈夫な訳ないだろっ! 時間と場所考えろよ。昼間はチャーミングなぬいぐるみでも、夜中に突然目の前に現れたら、そいつぁホラーだろうがっ!」
ツヴァイは一息に言葉を吐き出すと、その顔をすぐさま青ざめさせる。自分の目の前にいる女に見覚えがあったからだ。その少女の強さと恐ろしさをツヴァイは知っていた。
「マリシャっ……様! まさかアンタ様とは知らず、とんだご無礼を。えへへ、しゃーせん」
ツヴァイの掌返しにマリシャは目を白黒させる。首を控えめに傾げるその姿からは、困惑の様子が見て取れた。
ひとまず怒ってはいないようだ、とツヴァイは安堵する。
「えーと、よく分かりませんが……大丈夫ということでしょうか?」
「見ての通りピンピンしてますぜ。ちょっとビックリしただけだ……ってイテテテ!」
「あ、やっぱり、大丈夫じゃないですねぇ!」
作り笑いを浮かべるツヴァイだったが、その表情はすぐさま苦痛に歪む。急に動いたことで、左手の怪我に障ったらしい。
左手を押さえるツヴァイに、マリシャはすぐさま駆け寄る。そしてその小さい手で、ツヴァイの左腕を掴むと、出血を確認する。
「ひどい傷ですね。あのゴブリンの子供を刺したフリした時のものですか?」
「いぁっ!? な、何のことだかよく分かりかねますぜぇっ! 俺、ガキ、刺したしぃっ!」
「あのぅ……夜なのでお静かにぃ。いま手当てしますので」
「いやだから俺ぁちゃんとガキ刺してって……ん? 今なんつったぁ?」
やかましく騒ぎ立てていたツヴァイだったが、マリシャの言葉に引っかかりを覚えて不意に聞き返す。ツヴァイの長い耳が飾りでないのなら、彼女は先程『手当て』と言ったようだが。
困惑するツヴァイを無視して、マリシャはツヴァイの手のハンカチを解いていく。布が傷口を擦って、鋭い痛みがツヴァイを襲う。
「うっ……!?」
思わず身を捩るツヴァイだが、その動きはすぐ止められる。ガンマンの人形が、その小さい躰に見合わぬ力でツヴァイを押さえているのだ。
訳がわからず目を細めるツヴァイに、マリシャは口角を上げ笑うような素振りをする。『ような』と形容したのは、それが笑顔と呼ぶにはぎこちなくお粗末なものであったからだ。
「抵抗しないでくださいね。死にますから」
「すげぇ脅し! 俺何かやらかしましたかぁ!?」
「あのぉ、誤解しているようですが、ここで手当てを受けてくれないと死んじゃうかもってことです。あ、軟膏塗りますね」
マリシャは抑揚のない声でそう言いながら、テキパキとツヴァイの手当てをしていく。
ハンカチを解き、温い水で傷口を濯ぎ、軟膏を塗る。それから清潔な包帯を取り出し、ツヴァイの左手を丁寧に包んだ。
最初こそ怯えた様子のツヴァイだったが、マリシャの手際の良い処置に、いつしか身を委ねていた。
「はい、手当てはお終いです」
ツインテールを小さく揺らし、マリシャが宣言する。
清潔な石鹸の匂いが鼻先をくすぐると、マリシャはそっと身を引く。彼女との距離が離れたことに、ツヴァイは何故だか名残惜しさを覚えた。
そんなツヴァイの視線に気付いたのか、マリシャは彼の言葉を待つように首を傾げる。
「あ、えっと……」
ツヴァイは逡巡する。少女の献身に一体何と言えばよいのかと。
「何で俺を助けてくれるんすか?」
そして口をついたのは疑問だった。使わない引き出しは錆びついて開きにくくなる。ツヴァイにとって感謝の言葉がそれだった。
ぶっきらぼうなツヴァイの問いかけに、マリシャはガラス玉のような目を丸くする。
「何で、と言われましてもぉ……」
「いや、変な事訊いちまいました。忘れてくだせぇ」
困ったように眉を下げるマリシャ。その姿を見て、ツヴァイは慌てて質問を撤回しようとする。だがそれを遮って、マリシャは小さな口を開いた。
「きっと、貴方がゴブリンの子供を助けたのと同じ理由ですよ」
抑揚のない少女の声には、微かな優しさが篭っていた。それを聞いてツヴァイはむず痒さを覚える。
ピーノをナイフで刺したフリしたのは、綺麗な善意からではない。
ただ知っている子供を見殺しにするのが、後ろめたかっただけだ。そんな心が、唐突で不条理なあの場所で暴走した。ツヴァイにとってあの行動は、所謂気の迷いというヤツであった。
それ故に、ツヴァイはマリシャの言葉を受け止められなかった。
「アンタが思ってるような高尚な奴じゃねぇっすよ俺は。ただ見殺しにすると寝覚めが悪くなると思っただけで……」
ツヴァイは掠れた声でそう話すと、ぎこちなく目を伏せた。きっと彼女は自分に失望しただろう。しかし言わずにはいれなかった。
能力が低く、意志が弱く、水と同じで低きに流れる。エルフという無駄に長い人生の中で焼成された中途半端な悪人。それがツヴァイという存在であった。ツヴァイは己をそう評している。
ぐるぐると自虐の念が頭を巡る。鬱陶しい蠅のように。そんなツヴァイを現実に戻すように、マリシャの声がテントに響く。
「ならば私と一緒ですね」
「へ……?」
ツヴァイが素っ頓狂な声を出して顔を上げると、マリシャと目が合った。
「私も一緒ですよぉ。ただ目の前で、自分が動かなかったことで、人が不幸になるのを見たくない」
猫のように大きく、ガラス玉のような色素の薄い目。それを翳らせながらマリシャは言葉を続ける。
「可笑しな話ですよね。伯爵様の悪事に加担している立場なのに。いたずらに人を傷つけたり、助けようとしたりしてる……」
淡々とした口調と裏腹に、声は次第に熱を帯びていく。長いこと少女が内に秘めていた、病的で膿んだ熱。ツヴァイにとっても覚えがあるものだ。
ツヴァイは対面の少女、そのガラス玉の瞳を覗く。それは鏡のように、ツヴァイの草臥れた顔を映していた。
「流され続けて戻れなくなった悪人。そんな私は、天罰を受けていつか地獄に落ちちゃうんでしょうね」
慚愧の念に顔を歪めるマリシャに、ツヴァイは肩を振るわせる。少女の姿に、胸中はザワザワで満ちていた。叫びたくなるような、掻きむしりたくなるような、そんなザワザワ。だが生憎、ツヴァイはそれを言い表す言葉を持ち合わせていなかった。
故に、言葉と思考を追い越して、衝動が身体を突き動かす。
「えっ?」
気がつくと、ツヴァイはマリシャの手を握っていた。困惑する少女を正面に見据え、ツヴァイは遅れてやってきた言葉を吐き出す。
「そんな訳ねぇはずだ! アンタは、アンタは俺の手に包帯を巻いてくれた。ゴブリンのおっさんたちを助けた! そんなアンタが、地獄に落ちるだなんてっ、そんな訳ねぇはずなんだ! そんな訳っ……!!!」
それは支離滅裂で要領を得ない台詞だった。溢れる想いを、言葉という布で濾過せず出したような、魂からの濁流だ。
そんな訳ないと、マリシャという心優しき少女が地獄に落ちる訳などないと、そして救いようのない悪人である自分たちでも救われるはずだと、ツヴァイは声にならない声を紡いだ。
震える両手でマリシャの右手を握る姿は、ある種の祈りのようであった。
「そですか」
マリシャは小さな声でそう言うと、優しくツヴァイの手を解いた。そして一歩後ろへと下がる。
「あ、いや、すみません。急に手を握って叫んで、俺ぁ一体何やってんだか……」
「……いえ、ありがとうございます。そのような言葉を貰えるだけで、救われます」
両者の間でそう言葉が交わされると、次にその場にやってきたのは沈黙だ。暗い森の中、いつの間にか降り出した雨がテントの上を叩く音だけが響く。
雨音に抱かれて、ツヴァイは静かに目を伏せたまま上げられずにいた。
少しの間、その後にマリシャが再び口を開いた。
「明日、カイラの村を抜けた先の林道で聖女様を襲撃することになりました」
「そうすか」
マリシャの言葉にツヴァイは小さく頷く。ツヴァイにとってそれは概ね予想通りの決定だった。
ユーリカ一行は奴隷の子供ホフマンを故郷に帰すためにカイラの村に寄る。そしてその後伯爵の悪事の証拠である帳簿を、マルダン男爵領に届けにいく。それがツヴァイが彼らに吐いた情報である。
そのため彼女たちが通るルートのどこかで待ち伏せて襲うというのは、伯爵陣営としては当然の行動だった。
ただ一つ、ツヴァイにとって予想外だったのはーー
「カイラを超えた先で事を起こすんすね。俺はてっきりカイラ前で襲うのかと」
奇襲を仕掛けるなら敵が動きにくい時を狙うべき。それは脛に傷がある者なら大抵知っている鉄則だ。それに基づけば、ホフマンという足手纏いがいるカイラ前に仕掛けるのが最善手だろう。
「そですね。ゴレムスさんも最初そのような提案をしていましたが、私が拒否したんですぅ」
「そんなことしてよかったんすか? つか、よく通りましたね」
「ゴレムスさんは話せば分かってくれる人ですから」
マリシャの言葉に、ツヴァイはゴレムスの顔を思い浮かべる。ゴレムスは伯爵の側近として有名な黒服の男だ。今回伯爵の野営地に連れられて初めて顔を合わせたが、ツヴァイは彼に良い印象を持ってなかった。
ゴレムスは紳士的な立ち振る舞いをしているが、その双眸には獣のようなギラつきがあった。それに風の噂では、彼はかつて公国の近衛騎士だったが、数々の暴力騒動を起こして除籍されたとも聞いている。
裏の世界には、理知的に振る舞う獣がいることをツヴァイは知っている。人面獣心の怪物、ゴレムスもその類だとツヴァイは感じ取っていた。
「そんなことよりも重要なのは、明後日の襲撃後の貴方の処遇ですぅ。ツヴァイさん」
「え、俺の処遇っすか?」
聞き返すツヴァイに、マリシャは神妙な面持ちで頷く。そして声を潜めて話し始めた。
「今回の件は伯爵様にとっても一大事。帳簿の存在が世に知れ渡れば、伯爵様は全てを失いますぅ」
奴隷売買はいまツヴァイたちがいる公国では御法度行為だ。例え貴族であろうがそれは同じ。公王の命により重たい処罰が下されることだろう。
「そのため伯爵様は、この追手の部隊を、彼に最も忠誠を誓っている者たちで固めました。それも全て情報を外に漏らさないため」
ツヴァイはそこで察してしまう。自分の身の危うさを。そして彼女が言わんとしていることを。
「つまり、伯爵は捕虜である俺を口封じするってぇことかぁ……!?」
「その可能性が高いかとぉ……」
否定してほしかった質問を肯定され、ツヴァイは目の奥がチカチカするような錯覚を覚えた。そして少しずつ落ち着いてきていた心臓が、また早鐘を打つのを感じる。口封じされる可能性は考えていたが、いざ面と向かって言われると気が触れそうになった。
一体どうすればよいのか。ツヴァイは足りない頭で考える。自分が生き残る方法を。この苦境を乗り越える方法を。
そんなツヴァイの肩を、マリシャは掴む。小さな手に力を込めて。
「だから、逃げてください」
逃亡。それはツヴァイも最初に考えた手段だ。だがその困難さからすぐ選択肢から消したアイデアでもあった。
「逃げるつったってぇ、こんな兵士だらけのなか、どうやって逃げるんだよ……」
八つ当たり気味に弱音を吐くツヴァイに、マリシャは冷静な顔のまま続けた。
「先程見張りの兵士さんたちに、お酒を差し入れしました。度数の高いワインにグヤの実を混ぜたものです。高い催眠効果がありますので、今頃眠っているはずかと」
「んなぁっ……!?」
マリシャの話にツヴァイは言葉を失う。それがあまりに危険な行為だったからだ。意図的に捕虜を逃したことがバレれば、伯爵陣営の主戦力であるマリシャとて無事では済まないだろう。最悪命を奪われてしまうかもしれない。
「どうして、そんなことまで……」
ツヴァイの疑問にマリシャは小さく笑いかける。先程とは違った、自然な笑顔で。
「言ったはずですよ。貴方と同じ理由だと」
そしてツヴァイに背中を向けてマリシャは歩き始める。少し離れただけで、その背中はあまりに華奢で小さく見える。
「ありがとうございましたツヴァイさん。貴方がさっき掛けてくれた言葉のお陰で、私はとても救われました。だからこれは私なりのお礼ですぅ」
「なぁ待ってくれ、俺はまだ手当の礼も何も返せてねぇ」
「それならどうか逃げ延びてください。こんな私ともう会わないように。それが一番の礼です。」
マリシャがテントの出口に立ち、そのまま暗闇の中へと消えていく。深い深い黒。黒洞々たる夜の中に。
ツヴァイは手を伸ばして、その場に立ち竦む。前を見れば、綺麗な包帯の巻かれた左手がそこにあった。




