2.19 奇跡の代償
荒らされたリビングにてブルネンが話し終えると、ユーリカたちは顔を見合わせた。
伯爵の刺客、ツヴァイの行動、そしてマリシャの乱入と、一口で飲み込むには情報が多すぎる。
少しの沈黙。それを最初に破ったのはカイトであった。
「とりあえず義母も無事なんだな。よかったよ、みんなが無事で……」
そう言って彼は椅子へ腰掛ける。緊張の糸が切れたようにヘニャリと。そしてバンダナの結び目を緩めた。
「家の皆には、冬季に使う小屋の方に避難してもらってるネン」
カイトの言葉に肯定するようにブルネンが頷く。城壁に囲まれた街ではなく自然の山の中で生きる者が、季節に合わせて住居を変えるのはよくあることだ。今ブルネンたちが住むこの丘は、冬になると雪が積もり身体の芯まで冷えてしまうのだ。
幸いなことに、取り返しのつかない被害は出ていなかった。そのことに一同は安堵するが、ユーリカは浮かない顔をする。そして、翡翠色の瞳を伏せて頭を下げた。
「……ごめんなさいブルネンさん。私たちが来たばかりに大変な目に遭わせてしまって」
「私からも謝らせてください。自分たちのことで手一杯で、関わった人に危険が及ぶなんて簡単なことも考えられなかった」
ユーリカの横に並びルカも頭を下げる。その様子を見て、ブルネンは小さく息を吐く。そして二人に近づくと、その小さな肩をポンと叩いた。
「気にすることはないネン。ワッチらも君たちが伯爵と敵対していることを聞いていた。その上で君たちを歓迎したのはワッチだネン」
ブルネンは優しい声色でそう言うと、「まあ傷も治してくれたしネン」と自身の膨らんだ腹を大きく叩いて笑った。
ーーー
「それで、伯爵の私兵たちはチンピラを連れてどの方角へ向かったんですか?」
ルカは白手袋をした右手に魔力を滾らせ、玄関の方を見る。開けっぱなしにされた扉からは、オレンジ色の夕陽が差し込み、ルカのビリジアンの瞳に一筋の炎を迸らせる。
「おい、馬鹿な真似はやめとけ」
「んなっ!?」
そんな彼女の瞳の炎は、アルビオの水を差すような一言によって鎮火される。突然の制止に、ルカは納得いかない様子でアルビオを見る。
「馬鹿な真似するなって言ってるんだ。伯爵の私兵共にカチコミしようとでも思ってんだろ?」
「……そうですが、何か?」
「あー、やっぱり馬鹿だ馬鹿。オレンジ髪、残念ながらお前は馬鹿だ」
「何ですかさっきから!? 馬鹿って言うなら理由を言いなさいよ!」
呆れた顔のアルビオに、ルカは食ってかかる。ユーリカ一行にとっては見慣れた光景であるが、そうでない者には刺激が些か強い。ピーノが怯えた様子でホフマンの背後に隠れるのを見て、ユーリカはたいへん申し訳ない気持ちになった。
「でも、今から伯爵の私兵を追うのは得策じゃないかも」
そして二人の問答が過熱する前に、ユーリカは右手を挙げて両者の視線を引きつける。
「ユーリカまで……。どうしてですか?」
飼い主に鎖を引っ張られた犬のように、ルカは勢いをなくしてユーリカの方を見る。その様子にユーリカは、へたりと垂れた犬耳を幻視する。
一方でアルビオは、ユーリカの発言に対して興味深そうに片目を閉じる。
皆の注目が自分に集まってることを確認すると、ユーリカはゆっくりと話し始める。
「私たちが今伯爵サイドへ攻撃を仕掛ければ、それこそブルネンさんたちの襲撃への報復と捉えかねられない。そうしたら、またブルネンさんたちを危険に晒すことになっちゃう」
それに、ユーリカたちの目的は伯爵の帳簿を隣のマルダン男爵領に持って行くことだ。そこで伯爵の奴隷売買を明らかにできれば、伯爵の悪行は止まり、追っ手と戦う必要もなくなる。
「確かに、その通りです。すみません……先程ブルネンさんたちに謝ったばかりなのに、また危険に晒すところでした」
ユーリカの言葉を飲み込むと、ルカは恥じるように肩を丸め、また頭を下げる。
「気にするな。俺たちの為に怒ってくれてるんだろ?」
そう言うのはカイトだ。彼はバンダナを外して、自分の額に生えた一本角をポリポリと掻きながらそう話す。
「聖女サマの言う通り、俺たちがするべきは迅速に帳簿を持って伯爵領を脱出することだ。んでだ、ゴブリンのおっさん、馬車はいつ出せる?」
「馬車の修理は明朝までには終わらせる。だから今日一日待ってほしいネン」
アルビオの問いかけに、ブルネンは真剣な顔で答える。
こうして一行は、馬車が修理されるまでの一夜、当初の予定通りブルネンたちの家で世話になることになった。
ーーー
いたずらな風が草葉を揺らし、小さな虫たちの歌が暗闇にさざめく。夜は静寂をもたらすというが、山の中においては違うらしい。
ユーリカは暗闇で輪郭が朧げになった小屋を手探りで進むと、静かに扉を開けて外へと飛び出た。頬を撫でる夜風は思いの外冷たく、汗ばんだ身体に丁度よい。
浅くなった呼吸を元に戻すために、ユーリカは大きく息を吸い込んで、肺の中を冷たい夜で満たした。
空を見上げると、月が出ていた。痩せ細っていて心配になるような感じの三日月だ。
頼りない三日月は暗闇の中で弱々しく光り、地上に僅かばかり照らしていた。街を知っているユーリカにとっては、あまりに微かな灯りだった。
じゃり、じゃり。
一歩足を踏み出すと、真下で砂利の踊る音が聞こえる。そういえば小屋の前は砂利だったと、ユーリカは昼間の景色を思い出す。
じゃり、 じゃり。
手を前に出すと、指先がぼんやりと見えなくなった。その状態で手探りで前に進むと、まるで熱に浮かされたゾンビのようだとユーリカは自嘲した。
じゃり……じゃり……。
足は思いの外重たく、ユーリカはもどかしさを覚える。だが暗い闇の中走って転ぶのは嫌だし、走る気力もないので黙って歩くことにする。
じゃり……じゃり……。
じゃ……り……
ユーリカは茂みまでたどり着くと、徐に小屋の方を見た。誰も追ってくる気配はない。上手く抜け出せたようだ。
幼い頃にいたずらが成功したときのような、不思議な達成感を覚えながらユーリカは地面に膝を落とす。半ば倒れるように、勢いよく。
「おえぇっ……!」
ピシャリと地面に何かが跳ねる。ユーリカの口から溢れるそれは、夜闇でも分かるほどに赤い色をしていた。
口の中に酸っぱいものが広がり、鼻腔が血の匂いでいっぱいになる。その感覚に耐えられず、ユーリカはまた、嘔吐した。
「おぇっ、おげぇぇっ……うっ……!」
吐いて、吐いて、吐いて。
どれくらいの時間が経ったのだろう。ユーリカは額に滲む脂汗を拭い、よろめく足で立ち上がった。地面を見下ろせば、血と吐瀉物の海に今日の夕飯が浮かんでいた。昼に釣ったトラウトだ。
「うへぇ…吐いちゃった。最低だ私」
せっかく食事を拵えてもらったのに。ユーリカは自己嫌悪でいっぱいになる。
「全くもって同感だ。折角俺様が魚を釣ってやったのに」
背後から聞こえる嗄れた声に、ユーリカは目を見開いて後ろを振り返る。するとそこには、月明かりに照らされた黒い悪魔がいた。アルビオだ。
どうして、と頭の中で反芻しながら、ユーリカは無理やり口角を上げた。きっと不細工な笑顔になっているのだろうな、嫌だな、と取り留めもない感情が頭の隅でチラつく。
そんなユーリカの思考を他所に、アルビオは無表情でユーリカの鼻のあたりを見ていた。
「……あ、うん。ごめんねアルビオ。少し、疲れちゃったみたいでさ。」
ユーリカの唇から溢れる言葉はたどたどしく、不安定に上擦って夜闇に消える。風に吹かれた泡のように。
「でも……でも、全然平気だからっ!! ……さーて、明日も早いし私はそろそろ寝るね。疲れに負けないよう英気を養わないと!」
声を無理やり弾ませて、ユーリカは踵を返す。アルビオの背後に夜闇で輪郭がぼやけた小屋が見える。随分遠くまで歩いてきてしまった、とユーリカは少し後悔した。
重たい脚を強引に上げ、ユーリカは足早に歩き出す。一歩、二歩、出鱈目なステップを踏み、三歩目でついに体勢を崩した。
「あっ」
不意の浮遊感。ユーリカは転倒の痛みに備えて瞼を閉じる。だがしかし、衝撃がユーリカを襲うことはいつまで経ってもなかった。
恐る恐る目を開ける。そこで目が合う。先程まで見ないようにしていたウルトラマリンの瞳と。
遅れて、ユーリカはアルビオに腕を掴まれ支えられていることに気がついた。
「逃げるな」
ユーリカの細い腕を力強く引き寄せると、アルビオは彼女の耳元でそう囁いた。低く重たい声で。
「別に逃げてなんかないよ。疲れてるから、早く眠りにつきたいだけ」
「疲れてる、だと? 下手な嘘をつくな」
「嘘って何のこと? ごめん、話がよく分からないよ」
詰め寄るアルビオに、ユーリカは堪らず後退りする。腕を掴まれたままフラフラと後ろに下がる姿は、下手なダンスのようだった。
背中に樹木の感触を覚えて、ユーリカは観念する。もう逃げ場はない。追い込まれたのだ。
「さてとユーリカ、お前に聞こう」
アルビオの声が耳元で響く。顔は近いのに、暗闇に紛れてその表情は窺い知れない。
「お前の寿命はあと何年だ? どれくらい命を削った?」
アルビオの問いかけに、ユーリカは瞳を大きく見開く。そしてその小さな口から、か細い言葉がすり抜けた。
「どうして……?」
どうして、どうして知っているのかと。
ユーリカはそう尋ねたのだ。
「世紀の大悪魔が舐められたものだな。永きを生きる俺様が治癒術について知らないとでも思ったのか?」
アルビオはユーリカの腕を掴む力を強めて、更に彼女へと距離を詰める。両者の鼻先の隙間がミクロにまで縮まった。
「治癒術。定命の者が負った傷を何事もなかったかのように治す奇跡めいた力。そんなもの、人間風情に許される業ではない。故に、大いなるその力には代償が課される」
アルビオは吐息を乱暴にユーリカにぶつけて、そう言った。何かを誦じる様に。ユーリカにとって聞き覚えがある警句を。
そう、遠い昔にユーリカは同じことを伝えられていたのだ。聖女として見出され、カテドラルに呼び出されたあの日に。大司祭様がユーリカのまだ小さい肩を掴んで、穏やかな笑顔で言ったのだ。
『治癒術とは奇跡。そして奇跡には代償が伴う。いいかいユーリカ、治癒術とは生命の分配だ。君が術を行使し誰かを癒す度に、君の寿命は削られる』
大司祭様の言葉は本当だった。ユーリカが初めて治癒術を使用した時にそれを実感をした。
術は唱えるごとにその身を蝕んだ。心臓は早鐘を打ち、悍ましい痛みと虚脱感に襲われる。そして痛みは尾を引くように続くのだ。執念深い死神のように。
「それではもう一度聞こう。お前の寿命はあと何年だ? どれくらい命を削った?」
アルビオの言葉に、ユーリカは飛んでいた意識を現在に戻した。あまりにも暗く、風が弱った身体に沁みる夜に。
そしてユーリカは観念したように目を伏せて、こう言った。
「詳しい時間は分からないけど、あと……ーーーくらいかな」
その瞬間、風が急に強く吹き、雨がぽつりぽつりと降り出した。山の天気は変わりやすい。この様子だといつ土砂降りになってもおかしくない。
「ねえ、離して? このままじゃ濡れて風邪ひいちゃうよ」
ユーリカは掴まれて痺れた自身の左腕を振る。先程までの力が嘘のように、アルビオは簡単に手を離した。
そしてユーリカは小屋へ戻ろうとして、そこでアルビオと目があった。力強いウルトラマリンの瞳だ。その瞳が今、嫌悪感を丸出しにして細められている。
「やっぱり気持ち悪いよ、お前。自分の大切な命を他人の為に浪費するなんて、異常だ」
アルビオの声を聞かぬように、ユーリカは小屋へと歩き出した。頬についた水滴を袖で拭って、よろよろとドアを目指す。そう、今宵の風は吹かれるにはあまりに冷たすぎた。




