2.18 左手の熱
魚籠の中に十匹程のトラウトをみちみちに詰めて、ユーリカたちはブルネンの家へと向かっていた。 時刻は夕暮れ、小高い丘の上にブルネンの家が見えてくると、ユーリカはちょっとした安堵感を得た。
考えてみれば、今日一日で色々なことがあった。馬車の破損やブルネンたちとの出会い、そして伯爵の追手との遭遇。張っていた気がほぐれたからか、ユーリカのお腹が可愛らしい音を立てる。空腹の合図だ。
「食い意地の張った聖女サマだぜ。教会の唱える清貧とやらはどこに行ったんだよ?」
「うぅ……恥ずかしい」
顔を赤くするユーリカに代わって、隣を歩いていたルカがアルビオを睨みつける。ダークオレンジのサイドテールを激しく揺らし、アルビオを見るルカの姿は、さながら番犬のようだ。
「いちいち瑣末なことに噛みついてきて、アンタって人は本当に最低ですね! それにユーリカはお腹が鳴っても可愛いんだからいいんですよ。お腹が鳴っても!」
「そんな、何回も言わないでったら……」
ルカの擁護を受けて、更にタジタジになるユーリカ。完全なる逆効果である。
「いちいち騒がしい奴らだな……。聖職者ってのは皆そうなのか?」
黙々と一行を先導していたカイトが、呆れた顔で振り返る。その顔には疲弊の色が滲んでいた。
「聖職者ってのは元から喧しいモンだろ。何かに託けて、やれお布施をくれだの、免罪しろだの」
捻くれ切った聖職者観をカイトが飲み込みそうになるが、ルカが慌ててブロックする。
「違いますよ! 教会の目的は迷える人の救済! そのために少し活動費を恵んでもらうことはありますが、全ては助け合いのために使われるんですから!」
ルカの言葉にユーリカも顔を赤くしながら頷く。教会が大陸中で布教も兼ねた援助活動をしているのは確かだ。そのお陰で身寄りのないユーリカは、修道院で拾われて生きていくことができた。
「まあ、お前らを見れば、教会も悪い奴らばかりでないことは分かるさ」
カイトがぶっきらぼうにそう言い放つと、ユーリカとルカは二人して首をうんうんと振った。
「そもそも私たちが騒がしかったのは、アルビオのせいです。 ユーリカのお腹の音を揶揄うから! 普通に乙女に言います? お腹が鳴ったとか!」
「あぅぅ……。だからその話やめよ? ね、ルカ、やめよ?」
意図せぬルカからの口撃により、ユーリカの顔は更に赤みを増した。耳まで真っ赤なその顔は、まるで採れたてのトマトのようだ。
そんな一幕を経て、一行は家のある麓まで辿り着く。その時だった。丘の上から一人の少年が降りてくるのは。
熊のぬいぐるみを小脇に抱えた人間の少年、ホフマンがユーリカたちのもとまで駆けてくる。息せき切りながら、必死の形相で。
そしてホフマンは涙ぐんだ声でユーリカたちに叫んだ。
「大変なのです! ブルネンさん家が、大変なのです!」
ーーー
一行がブルネンの家に戻ると、そこはひどく荒らされていた。机や椅子が倒され、玄関の扉は外れて転がっている。昼まであった日常の光景はもうどこにもなかった。
更に床に血痕があることを発見し、ユーリカの呼吸が浅くなる。ここで血が流れたという事実が、ブルネンたちへの心配と動揺を増長させる。
「おいおい、どうなってんだよこれは……。義父! 義母! みんな無事か!?」
カイトも床の血痕を確認したようで、上擦った声で必死に周りへ呼びかける。その様子からは、ユーリカたちの前で見せていた気丈さは見えない。年相応の少年の顔であった。
一行が眼前の光景に動揺していると、家の奥より人影が現れる。頼りない足取りでユーリカたちの前に近づくのは、この家の家主ブルネンだ。
ブルネンは、額から血を流し顔はパンパンに腫らしていた。見るも痛ましい姿だ。それでも、彼はカイトたちの姿を見ると、歯が一本抜けた口を開けて安堵の笑顔を見せた。
「おお君たち、無事だったかネン!」
「義父の方こそ! 大丈夫なのかよその傷!?」
「カイトは心配性だネン。この程度の傷、昔狼に襲われた時と比べたら全然平気だネン」
駆け寄るカイトをどうどうと落ち着けるブルネン。その顔はまさしく父親の顔である。血のつながりがなかろうと、彼らは互いにかけがえのない家族なのであろう。
「いえ、全然大丈夫じゃないですよ。頭からの出血を甘く見ないでください。放っておけば最悪死にますから」
ピシャリと言い放つルカに、ブルネンは思わず鼻白む。彼女の言葉は非常に鋭く容赦のないものであったが、それもルカがブルネンのことを真剣に想っているからこそだろう。
どんな場面、どんな状況だろうが、傷というのは適切な処置をしなければ命に関わる。それが人の急所にあるものなら尚更だ。
思わぬ言葉にブルネンとカイトは、揃って顔を青くする。そんな彼らの心配に寄り添うように、ユーリカは優しく笑いかける。
「さっ、まずは治療をしましょ。私は治癒の聖女だから、任せてください」
ーーー
倒れていた椅子を直し、ブルネンをそこに座らせると、ユーリカの治療は始まった。薬草学や医療ではない。もっと出鱈目で、神の領域に踏み入るかのような秘技ーー治癒術である。
ユーリカが鈴のように澄んだ声で詠唱を始めると、彼女とブルネンの周りを眩い光が包む。囁き、祈り、詠唱を重ねる度に、光は明滅しどんどん激しいものになった。
窓がガタガタと音を立てて、床に散乱していた食器類は命を得たように踊り出す。ユーリカは額に玉の汗を浮かべて、次第にその動きを激しいものへと変えていく。荒らされた室内で、光に包まれ詠唱を続けるユーリカは、まるで廃墟に舞い降りた天使のようで、神々しく、壮麗で、あどけなくーー
「……気持ち悪い」
誰かの掠れた呟きが光に飲み込まれる。
そして光が収束すると、そこには傷一つないブルネンと、肩で息をするユーリカの姿があった。
「すごい……痛みが一瞬で消えたのネン」
「これは魔術じゃない……? なんだその力は、初めて見たぞ」
初めての光景に目を見開く二人。特に魔術に精通したカイトは、ユーリカの為した術の異質さに肩を震わせる。
魔術で物質を生み出すことはできない。詠唱より生み出される炎や槍は、そのものの性質を模倣した魔力であるからだ。そのため傷を塞ぎ肉体を再生させたユーリカの術は、カイトにとっては殊更に異質なものであった。
「ありがとう。これで二度目だネン。君たちに助けられるのは」
ブルネンは椅子から立ち上がると、ユーリカに深々と頭を下げる。ユーリカはそれに力の抜けた笑みで応えた。汗で着衣がじっとりと濡れ、顔を青くするユーリカの姿はかなり疲れて見える。
「……ユーリカ、平気ですか?」
「うん。へっちゃら。ルカはいつも心配してくれるね」
ルカが心配そうに駆け寄ると、ユーリカは困ったように眉を下げる。治癒術のあとにはよく見る光景であった。
ブルネンの回復が終わったが、これで全てが解決したわけではない。むしろ何故このような状況になったのかすら、ユーリカたちは知らないのだから。
「おっさんも回復したことだし、そろそろ状況確認といこうぜ。……一体ここで何があった?」
アルビオはブルネンの方へと顎をしゃくる。それから倒れていた一番豪華な椅子を立てると、そこにどっかりと腰掛けた。
「そうだネン。まずはどこから話したところか……」
ブルネンは下げていた頭をゆっくりと上げると、ぽつぽつとここでの出来事を話し始めた。
突如現れた襲撃者のこと。彼らがユーリカたちを探していたこと。そして襲撃者が情報を吐かせるためにブルネンたちに行った残虐な行為のこと。話を聞く度にユーリカたちの顔は陰り、険しいものへと変わっていく。
ツヴァイが襲撃者たちと交渉したこと。そして解放されたツヴァイがピーノを刺したこと。
そこまで聞いて、ルカは机を強く叩いて立ち上がった。
「あのチンピラ……!! 子供に手を上げるなんて!」
「それよりピーノは? お腹を刺されたなら、すぐに治療しないと……」
憤りを露わにするルカと、よろけながらも周囲を見渡すユーリカ。そんな二人の様子を、アルビオは呆れた顔で眺める。
「お前たちは馬鹿か? そんなに騒ぐ必要ないだろ?」
「子供の命がどうでもいいと!? いくらアンタがユーリカの護衛だからって、その言葉は看過できませんよ!」
淡々と告げるアルビオに、ルカは詰め寄る。額に青筋を浮かべて、ただでさえ大きい目を更に見開くその姿は迫力があった。
「いや、そうじゃなくて。ほら……入り口を見てみろよ」
ひどくめんどくさそうな様子で、アルビオは玄関を指差す。扉が蹴破られて風通しのよくなった玄関からは、真っ赤な夕陽が差し込んでいた。そして、その灼光を背中に受ける小さな人影ーー
ーーゴブリンの子供ピーノがその場に立っていた。
「ピーノ! 無事だったのか!?」
これまで神妙な面持ちで話を聞いていたカイトが、いちばんにピーノのもとへ駆け寄る。そしてそのまま肩を揺すると、ピーノは「あわわ」とあどけない悲鳴を上げる。その様子は健康体そのものだ。
カイトに続いて、ユーリカが頼りない足取りでピーノに近づく。間近でピーノの姿を観察すると、その腹部には黒ずんだ血の染みが見えた。
決して少なくない出血量に、ユーリカの顔は自然と強張る。それでもユーリカは平静を装い、ピーノを不安にさせないように振る舞う。そしてなるべく優しい口調で、軽く断りを入れると、ピーノの上着をめくった。
「えっ……?」
上着に手をかけたままフリーズするユーリカ。その目はガラス玉のように丸くなっている。
「傷が……ない?」
「だから言っただろ? 騒ぐ必要はないってな」
安堵と驚きが渋滞した様子の面々を横目に、アルビオは呆れた顔をする。恐らく魔力感知により、周辺の様子を探れるアルビオにとって、ピーノの無事はとっくに分かっていたのだろう。
「よかった……心配したんだぞ、ピーノ」
カイトは地面に膝をつけて、震える手で再度ピーノの肩を掴んだ。ユーリカたちの前で取り繕っていたクールさは、そこには一切見えない。
そんなカイトの様子を見て、ユーリカとルカも続いて胸を撫で下ろした。
「でもピーノが無事だったとすると、この床の血痕は……?」
一同が落ち着いたあと、ルカは改めて気がついたように床を見る。木製で丁寧に手入れをされた家の床には、確かに今も血痕があった。黒ずんで木目に染み付いたそれは、小さなカップから水が溢れたかのように地面に広がっていた。
「あー、それについてだがネン……」
ルカの呟きを聞いて、ブルネンは話し始める。ピーノがツヴァイに刺された、その後の話を。
ーーー
時を少し遡り、ユーリカたちが湖へ釣りへ出ていた時のことである。
ブルネンたちの家は、伯爵の私兵によって占拠され、ブルネンとブルッカは地面に組み伏せられていた。そして玄関口には震えるピーノの姿があり、その全てをツヴァイは眺めていた。
拘束から解放された身体は未だに他人のものだと感じられる程に固く、握りしめた包丁は汗でびっしょりと湿っている。手の中の凶器を落とさないように必死に掴みながら、ツヴァイはピーノのもとへ歩を進めた。
ツヴァイは手元の包丁で数度空を切ると、意を決したように、無防備なピーノの懐へ刃を差し込む。
「えっ、えっ……?」
驚いたように大きく目を見開くピーノ。その足元には真っ赤な血が滴り落ちる。
その様子にツヴァイは目を細めて、そして自嘲気味に笑った。
「悪いな。俺もワルモンなんだ。……そのまま大人しく、地面に倒れといてくれや」
肉を刺した感触が右手に広がり、嫌悪感が手のひらを虫のように這う。それから遅れて鋭い痛みが左手を貫いた。ツヴァイの額に大量の脂汗が流れる。
「っ……てぇ……」
刺したフリ。ツヴァイが取った選択はそれだった。少年への同情か、殺人への躊躇か、ツヴァイには自分の取った行動が何によるものか分からなかった。夢うつつ、漠然とした選択。ただ、冷たい鉄による燃えるような痛みだけが、自分の取った行動の結果を教えてくれた。
「え、え……?」
ピーノは未だに何が起こったのか分からない様子で眼前に立っていた。ツヴァイの機転に即座に乗れるような冷静さを、子供に求める方が酷かもしれない。ただ、ツヴァイはピーノの鈍臭さに苛立ちを覚えた。
そして苛立ちのままに、ピーノを強く押す。小さな身体は呆気なく地面へ倒れ、そのまま動かなくなった。その様子を見てツヴァイは浅く息を吐く。
「あはーはぁっ! いたいけな子供をナイフで一突きとは、とんだ悪人だなぁ君は」
パチパチと乾いた拍手が室内に響く。音の発生源はキュランと呼ばれていた青年だ。統一された兵装の私兵団の中で、司令官と並んで浮いた格好をした男である。
仕立ての良いブレザーを身に纏い、腰に高価そうな剣を佩いたその姿は貴族のようだ。そんな貴族然とした小綺麗な装いとは裏腹に、キュランの笑みは品のない邪悪さで埋め尽くされている。
「あんたよくも!! ピーノを……ピーノをっ!!」
そしてキュランの笑い声を掻き消すように、ブルッカの怒号が部屋に轟いた。伯爵の私兵に組み伏せられながらも、ブルッカは鎌首を上げてツヴァイを睨む。その瞳には子を無くした母親の怒りがあった。
「そんな風に、睨むなよ……」
掠れた声のツヴァイに、ブルッカは更にいくつもの罵声を飛ばす。甲高い叫び声が左手の傷に響き、ツヴァイの背中にびっしょりと汗が流れる。
「おい、いつまで呆けているつもりだ?」
「え?」
笑い声と怒声で混沌とした室内に、低く重たい声が響く。ツヴァイが振り向くと、そこには不服そうな顔をした巨漢の姿があった。料理人風の白いエプロンを身につけ、右手に巨大な包丁を持った異常者にして一団の司令官、ビッグコルクだ。
「あと二人、残っているぞ」
ビッグコルクの無骨な指が指す方には、慟哭するブルッカと静かに一部始終を見つめるブルネンの姿があった。
あと二人、その言葉がツヴァイの胸に重くのしかかる。
左手の激痛が、これ以上の無理は効かないと警鐘を鳴らしていた。それに刺すフリは今回こそ通じたが、次も騙せる保証はない。果たして目の前で死を待つ二人をどうするべきか。ツヴァイはくらくらする頭で逡巡する。
そもそもピーノを助けたのは衝動的な行動だった。自分でも理由がわからない突発的なものだった。ツヴァイには彼らを助けなければならない理由はない。むしろ見捨てた方が安牌だ。
ぐるぐる。答えのない問いが頭を支配する。
そして、長い逡巡の果てにツヴァイは動けなくなっていた。
「あっはぁ! もしかして腰が抜けたの? 亜人のガキ一人刺したくらいで? 情けないなぁ!」
キュランの不快な嘲り声が聞こえたかと思うと、ツヴァイの背後から大きな影がブルッカの方へと進み出た。
「もういい、俺がやる。下手に〆られると肉の風味も落ちるからな」
料理人を気取る巨漢は、粗暴な顔を大きく歪めて、ブルッカの前に立つ。そしてブルッカの大きく見開かれた瞳を、その大きく平たい舌で舐めた。
「んー、12点。まあ骨くらいは出汁に使ってやろう」
不遜にして残酷な品評。それは死の宣告としてブルッカに降り注ぐ。目の前に立つビッグコルクの威圧感を受けて、ブルッカは喉から掠れた声を漏らす。
子供を失ったという悲劇から、眼前に迫る死へと思考が塗り替えられたのだ。
彼女の濡れた瞳は、頭上に振り上げれた包丁を映す。窓からの光がよく手入れされた白刃を照らし、ブルッカの瞳孔がきゅっと縮まった。
「あっ……」
「そのまま首を固定しておけ」
ビッグコルクの命令を受けて、ブルッカを組み伏せていた私兵が彼女の頭を押さえつける。
「待つのネン! ピーノに続いて妻の命まで……!!」
「おっさんは自分のことを心配しなよ。次はアンタの番なんだからさぁ!」
ブルネンの悲鳴。キュランの嘲笑。厳かに使命を果たそうとする私兵たち。爽やかな陽光が差し込む屋内には、誤魔化しきれないほど濃密な死の匂いが溢れていた。
じくじく。場を支配する熱に呼応するように、ツヴァイの左手の傷が痛んだ。
この状況、どうすればいい? いつまで経ってもツヴァイの頭に答えは浮かばない。だがしかし、胸中の早鐘に急かされるように、ツヴァイは足を前に伸ばしていた。
「待ってくれっ!!」
ツヴァイが震える声で叫ぶと、ビッグコルクの太い腕は空中で止まっていた。そして微動だにしないまま、背後の人物に語りかけた。
「……何の真似だ?」
逞しいビッグコルクの背中に銃を突きつけるガンマン人形。そしてそれの所有者たる、紫紺のワンピースの少女に。
ーーー
「……何の真似だ?」
「それはこちらの台詞ですぅ。民間人への被害は最小限にという命令だったはずですが……」
猿のような顔を大きく顰めるビッグコルクに、ドールズマジシャン、マリシャは無表情で答える。猫のように丸く大きな目と、鼻筋がはっきりした顔立ち、きめ細やかな銀髪を後ろで二つに結ったその姿は、さながら精巧に作られた人形のようであった。
「こいつらは必要な犠牲だ。俺たちのことを知りすぎた。口封じする方が妥当だと思うが?」
「相手は亜人のゴブリンです。彼らの発言にあの方を揺るがす力はないと思いますが……」
口封じの必要性を説くビッグコルクに、マリシャは静かに反論する。悲しいことに、ヒエラルキー最下層である亜人に、伯爵を失脚させられるような発言力がないのは事実であった。
「確かにこいつら亜人にそんな力はない。だがそもそも、こいつらは民間人じゃなく亜人だ。別に趣味で殺したっていいだろ?」
趣味での殺害。異常な殺人鬼は、さもそれが正常な判断であるかのようにそう告げた。邪悪なる笑みに、周囲の者たちが口をつぐむ。
ビッグコルクは周りの沈黙を肯定と捉えたようで、そのまま威圧するようにマリシャを見た。
マリシャは巨漢の凝望に一切動じることなく、透き通る瞳でビッグコルクを睨み返した。それと共に彼女の背後から、圧倒的な魔力が渦めく。
「部隊の指示権は私にあります。武器を下ろしてください」
一切目を逸らすことなく、マリシャは淡々と命令を下した。機械的な声に、重苦しい圧をはらんで。その背後には、彼女の魔力によって呼び出された黒い人影があった。
体長2メートル半ほど。人影の正体は、黒装束を全身に纏った痩身痩躯の人形だ。頭部全てをすっぽり覆うような大きさのシルクハットを被り、帽子と装束の隙間からは眩い金の長髪が数房後ろにこぼれている。そして細長い腕の先には、ナイフのように鋭い五本の指が伸びていた。黒ずくめでゆらりと不気味に揺れるその姿は、まるで暗殺者のようであった。
だが人形の所有者である少女は、それを見て愛おしそうに、こう呟く。
「来てくれてありがとう。……プリンス」
プリンスと呼ばれた人形は、ガタガタと身体を軋ませて、その右手で優しくマリシャを撫でる。
「ちっ……気持ち悪いガキが」
ビッグコルクは眉間にシワを寄せたまま、巨大包丁を鞘へと納めた。それから周囲の私兵たちへ必要以上の大声でがなり立てた。
「おいお前ら、撤収するぞ! 身支度を整えろ!」
どうやらビッグコルクはマリシャの指示に従うことにしたらしい。不服そうに声を荒げながらも、テキパキと撤収の指示を出していく。
「どうにか、なったのか……?」
一部始終を眺めていたツヴァイは、ただ力無く呟いた。眼前の出来事が信じられないように、呆然と。
そしてすぐに現実へと戻された。自分の右肩を叩く衝撃によって。咄嗟に顔を上げると、そこには歪んだ笑みを浮かべたキュランの姿があった。
「何をぼーっとしてるんだい? 早く案内してもらうよ、聖女様の居場所まで」
ツヴァイは自覚した。ブルネンたちへの危機は去ったとしても、己の苦難はまだ続くのだと。




