2.14 怒りは炎にも似て
「そこは急勾配だから気をつけろ」
「あっ、本当だ。ありがとう」
カイトの忠告を受けてユーリカ一行は慎重に急斜面の林道を進んでいく。各々の手に持たれた釣り竿や籠が、坂道を進むごとに揺れて音を立てる。
ブルネンの家を出たユーリカたちは、釣りをするべく森の中の水場を目指していた。先導はもちろん現地民であるカイトだ。
カイトの案内は的確だ。難なく森の傾斜や藪を越えていくが、ユーリカたちが見失わないように歩幅を合わせている。危ない場所ではしっかり忠告も発してくれるため、ユーリカ一行も躓きなく前に進むことができた。
森に出てからは大体一時間半ほどが経過していた。しかし未だ湖に出ることはなく、カイトの歩く速度が遅くなることもなかった。
「おいバンダナ。随分と歩いているんだが、まだ釣り場とやらには着かないのか? お前ん家から見えた湖なら、もう着いていないとおかしいくらいの時間帯だと思うがな」
小高い丘の上にあるブルネンの家からは、周囲の森を一望することができる。そこからは二つの小さな湖も確認できた。アルビオが話すのは、二つの湖の内、ブルネンの家から近い方の湖のことだ。
「夏の湖のことか……」
カイトはそう言って小さく息をこぼす。
馬車を運ぶ最中にブルネンが言っていた。丘の上から見える二つの湖は、それぞれ夏の湖と冬の湖という名前を冠していると。カイトの口ぶりからして、いま話題にあがっている方が夏の湖なのだろう。つまり二つの内で家から近い方だ。
アルビオの指摘と、ユーリカたちの視線を受けてカイトは小さく息を吐く。それから面倒くさそうに口を開いた。
「まず、丘の上から見えるあの二つの水が、それぞれ夏の湖と冬の湖と呼ばれているのは知っているか?」
「はい。アンタの父親が教えてくれましたから」
カイトの質問にルカが答える。周囲の虫の気配に怯えてユーリカにくっつきながら、しかし凛々しく。実に器用なものである。
「……。では、何故二つの湖がそう呼ばれるようになったのかは知っているか?」
ルカの様子に困惑しながら、カイトは更なる問いを投げかける。何故二つの湖がそう呼ばれるようになったのか。当然理由など知らないユーリカたちは、互いの顔を見合い、それから首を傾げた。
カイトは「そうか」とだけ相槌を打つと、二つの湖に関する説明を始めた。
「二つの湖にはそれぞれ王と呼ばれる危険な怪物がいるんだ。夏の湖には夏の王、冬の湖には冬の王がな」
怪物。それは即ち人に危害を加える危険な存在の中で、とりわけ対処が難しく強力なものたちのことだ。満月の夜に変貌する巨大狼に、牛二頭を軽々掴んで連れ去る怪鳥、島一つを丸呑みにする大鯨などがこれに該当する。兎にも角にも恐ろしい存在が、二つの湖にそれぞれ生息しているということだ。
「怪物っ!? そんなところに釣りに行って大丈夫なの?」
「最後まで話を聞け」
小さく悲鳴をあげるユーリカに、カイトが呆れた様子を示す。その態度は相変わらず刺々しいが、それでも説明を続けてくれる気はあるらしい。一つ息を吸うと、再びカイトは話を続けた。
「ただその王たちもずっと活動しているわけじゃない。夏の王は夏以外、冬の王は冬以外の期間は長期の休眠状態に入るんだ」
「それで夏の王のいる湖を避けてわざわざ冬の湖に向かってるってわけか」
アルビオの言葉にカイトは小さく頷く。
今の季節は夏。つまり夏の湖では現在恐ろしい怪物が活動をしていることになる。アルビオほどの実力者であれば退治することも視野に入るが、そうではないカイトにとっては避ける選択肢を取るのは当然だろう。仮にも客人であるユーリカたちを連れているのだから尚のことである。
「分かったのなら行くぞ。冬の湖もそう遠くはない」
話を終えたカイトが踵を返して先に進む。慌ててユーリカたちもその背中を追った。
その後、ルカが巨大な芋虫を見つけて気絶しかけたり、ユーリカがアルビオにツツジの花の蜜の吸い方を教えようとして拒まれたり、迂闊なことを言ったアルビオがカイトに睨まれたり、様々なことがあった。そして冬の湖に着いたのは歩くのを再開して三十分後、家を出てからだとニ時間近く経った頃だった。
ーーー
水面を漂うウキが沈むと、その大きな掌が釣り竿を覆い、力強くも洗練された動きで水中の獲物を釣り上げた。飛び跳ねる水飛沫と共に鈍色の鱗が陽光にギラつき、白日の元に大型のトラウトが晒される。
釣り竿の主は綺麗に並んだ白い歯を大きく見せて、哀れなトラウトをバケツへと放り込んだ。
「凄いよアルビオ! もう釣り始めて三匹目だよ!」
「騒ぐんじゃねぇよ素人が。魚が逃げる……」
歓喜の声を上げるユーリカを、アルビオが神経質に咎める。
強欲の悪魔として古今東西で略奪の限りを尽くしてきたアルビオだが、その対象は金銀財宝の類だけではなかった。釣りや狩りなどで捕らえた獲物は数知れず、時には森の生態系を変えるほどの影響を与えたとすら言われている。
悪魔の持つ無限に近い寿命によって、彼の釣りの腕はいまや達人の域に達していた。
神妙な面持ちで水面に視線を落とすアルビオ。ウキのいかなる動きさえも見逃さないという信念がそこにはあった。
今この場にいるのはユーリカとアルビオの二人のみだ。カイトは湖に着くなり、ユーリカたちを置いて湖畔の反対側に向かってしまった。ルカもその後カイトを追って行ってしまった。湖は向こう岸がぼんやりとしか見えない程広大であり、カイトとルカの姿も既に見えない。
ユーリカは暇そうにウキとアルビオを交互に見る。どちらもぶっきらぼうに沈黙を保っている。ユーリカはたまらずにグイッとアルビオの方へと近づく。彼女は沈黙に強くなかった。
「アルビオってさ、結構アウトドア好きだよね?」
釣り竿を何となく揺らしながらユーリカはアルビオの方を見る。
アルビオからの返答はない。無視だ。
「昨日もクマ鍋の時イキイキしてたしさ。こういうの好きだよね? そうでしょう?」
ユーリカは無視を無視して話を続ける。
アルビオは眉間の皺を深めて、それでも尚水面を見つめる。そしてその目はウキの微かな揺れを捉えた。
「でも何か意外。アルビオって外出て汚れるのって嫌いそうだと思ってたし」
パシャっ。
ユーリカの言葉を遮るようにアルビオが魚を釣り上げる。本日四匹目、これもまたイキのいいトラウトだ。
アルビオはトラウトを乱暴にバケツへ放った。
「まあ……釣りは暇つぶしに良かったんだよ。ずっと城で宝石やら絵画やら眺めてても飽きるしな」
ため息混じりに釣り竿を落とすアルビオ。ユーリカのあまりのしつこさに折れたらしい。
ユーリカは未だに魚の食いつかない竿をじれったげに揺らしながら、アルビオの言葉に頷く。
「暇かぁ……。強欲の悪魔なんて呼ばれてるから、そんなのとは無縁にお宝をかき集めてるもんだと思ってたよ」
「若い頃はそうしてたんだがな……。宝ってのは奪うと枯渇するもんらしい。段々と身の回りに奪えるものも無くなってきたのさ。それに……」
「それに?」
「思ってたより満たされなかったんだよ。金銀財宝に囲まれてもな。んで、家にいても退屈だったんで釣りだの狩りだのに手を出したってわけだな」
パシャっ。
言い終わると同時に、アルビオはまたも魚を釣り上げる。
本日五匹目、今回は少し小柄なトラウトだ。
アルビオはもう慣れた手つきで魚をバケツへと放った。
アルビオのバケツの中は五匹のトラウトでミチミチに詰まっている。ユーリカは未だに空の自分のバケツと見比べて、ムムムと唸る。
ユーリカとて国中を旅するアウトドア系聖職者だ。食料調達のために釣りをすることも多く、その腕にはかなりの自信があった。カイトの釣りに無理やりついていく程には。
そのため今日の釣果は彼女にとって不服の極みであった。
パシャっ。
悩めるユーリカの横でアルビオが六匹目のトラウトを釣り上げた。力強く暴れるそいつは、本日最大の大物である。
「凄い、どうしてそんなに魚が食いつくの?」
「……教えてやろうか?」
ユーリカが首をブンブンと縦に振ると、アルビオは満足そうに笑みを浮かべた。勝ち誇ったような笑み。ドヤ顔ならぬドヤ笑いだ。
「魔力を水中に流して魚の動きを探知するんだ。そうして魚の向かう方向にウキを動かせばいい。簡単だろう?」
「魔力なんて言われても分からないよ……」
魔力を張り巡らせることで周囲を探知する、今朝の馬車騒動の時に話していたのと同じ要領なのだろう。だが魔術師たちが当然のように行うそれは、ユーリカからすれば想像すらできない未知の力である。
拗ねたように顔を背けるユーリカに、アルビオはますます笑みを深めた。
「だろうな」などと言って嫌味ったらしく笑うアルビオにユーリカは頬を膨らませる。
「更に魔力を広げれば湖中の魚を探ることだって出来るぜ? そうだ、折角だしあのオレンジ髪とバンダナの行方でも見つけてやろうか?」
大人気なく揶揄うアルビオ。そこにもはや大悪魔の貫禄はない。その笑みは小悪党のそれであった。
小悪党な大悪魔は魔力で探知した物を片っ端からユーリカに伝えていく。
100メートル先の茂みにルカの苦手な大芋虫、その300メートル左方の木にはリスが二匹、更に100メートル上空には鷹が一羽。
自慢げに逐一報告するアルビオのことは無視して、ユーリカは再び釣り竿と向き合った。
ぐぐっ。
その時である。ユーリカの釣り竿の糸がピンと張る。本日初ヒット。今まで沈黙を保ってきた釣り竿がついにその停滞を破った。
いつもの二割り増しでユーリカの掌に力が入る。この獲物は流さない。背後から聞こえるアルビオの声を聞き流しながら、ユーリカはそう決意した。
「おいユーリカ、聞いてんのか!?」
「んーん。今大事なところなの」
「いいから聞け! 今すぐここから離れるぞ! 急げ!」
テキパキと片付けを始めるアルビオに、ユーリカは目を白黒させる。折角初ヒットしたところなのに、この悪魔は何を言っているのだろうか。
「え、え、どうしたのアルビオ?」
「こっちに人が向かってきてる! 武装している様子だから恐らく伯爵の私兵だ」
「ええっ!? ……うん、わかった」
アルビオは低く鋭い声でそう告げる。彼の魔力による探知がこちらに迫る軍勢を捉えたのだ。
突然の情報に困惑するユーリカを尻目に、アルビオは更に荷物をまとめていく。もともと釣りをするためだけの軽装である。回収にそれほど時間はかからなかった。
名残惜しそうに獲物を逃したユーリカも撤収作業に合流し、そのまま二人は近くの藪へと身を潜める。
鼻をつくような青臭さと、耳元で聞こえる虫のさざめき。ここにルカがいようものなら大声を出して卒倒していただろう。だが幸か不幸かこの場にはユーリカとアルビオの二人だけだった。
口に手を当てがい息をころす。ユーリカは、虫の鳴き声に呼応するように高鳴る自身の心臓の音を聞いた。それはどんどんと加速していき、鼓動が最高潮に達したとき、彼らがその場に現れた。
現れた男たちはみな一様に同じ格好をしていた。硬く煮詰めたレザーアーマーの上に緑がかった青色のジャケット。その胸には伯爵家を表すエンブレム。それは紛うことなきユーリカたちへの追手であった。
ーーー
カイトは岸辺から湖面を見下ろすと、釣り竿を近くの岩へと立て掛け、背嚢を探り始める。
ユーリカたちとは湖につくと同時に別れた。
やっと訪れた一人の時間に、カイトは安堵混じりの吐息をこぼした。これでついに五月蝿く癪に触る聖職者たちとも別れることができた。ようやく自分の目的が果たせるというものだ。
頭の赤いバンダナをきつく結び直すと、カイトは背嚢から一本の棒切れを取り出す。先端に小ぶりのルビーがついた黒い木の棒。綺麗に削り出された杖だ。言わずと知れた魔術師の象徴である。
カイトはその杖をおもむろに水面へ向けると、ボソボソと何かを呟く。
『我が構えたるは番人の弓、我が番えたるは斥力の矢』
詠唱だ。
魔術とは基本、式と詠唱を通して事前に決められたアクションを起こすものである。ルカのように一部の魔術師は無詠唱による魔術を行使するが、大半の凡庸な魔術師は魔術の行使に詠唱を必要とする。
『放ちて砕けろ、ペネトレイトアーロン!』
詠唱が終わると共に魔術が完成する。
杖の矛先から強大な衝撃の矢が放出され、それは轟音を立てて水面を叩いた。それにより激しく湖が揺れ、水飛沫と幾匹かの魚が宙を舞い地面に落ちる。
悪魔もびっくりのトンデモ漁業である。
ピチピチと大地を跳ねる魚を魚籠に入れると、カイトは満足げに自身の杖を見つめた。
「魔力増幅率を高めてみたが、その分指向性に問題が生じたか。大分魔力が分散してしまった。だが、それを差し置いてこの威力……希少なルビーを使っただけのことはある。これならアイツらも……」
「アイツらも……何ですか?」
木陰より聞こえた声に、カイトは振り返る。そこには聖職者の装いをしたオレンジ髪の少女がいた。ルカである。
湖に着くなり一人行動を始めたカイトを警戒して尾行していたのだ。
望まぬ客人の登場に、カイトは目を細める。
「お前に教える義理はない。盗み聞きが趣味の薄汚い聖職者には特にな」
「それは失礼しました。いそいそと私たちから離れるアンタを見て、少し心配になりましてね」
「心配? 警戒の間違いだろ?」
言葉の応酬を経て、両者間に火花が散り始める。
今まで差別する立場と差別される立場だった二人だ。幼少期より亜人は悪だと教えられてきたルカにとって、ゴブリンであるカイトは色眼鏡なしで見れぬ存在である。人間に差別されてきたカイトにとっても、人間であるルカは穏やかに話すことができない存在だ。
つまり、ハナからこの場に穏便という言葉は存在しないのである。
「安心しろ。お前たちに害なすつもりはない。今やってるのは試作品の試運転ってやつだ」
「見たところ随分と上物の杖ですが……」
杖を使用しないルカにとって、杖の優劣はあまり分からない。ただカイトの杖の持つ強大さについては一目瞭然であった。
元々カイトはルカの見立てでは大した魔力を有していない。甘めに見積もっても一般の魔術師に満たないくらいだ。
しかしそんな彼の放った魔術は、簡単な魔術でありながら一般魔術師の大技ほどの威力があった。
「アンタがこれを?」
「そう言っている。俺は偉大なる杖職人メアの一番弟子だからな。これくらい造作ないさ」
メアという名にルカは聞き覚えがなかった。
キョトンとした顔のルカを見て、カイトはため息を吐く。
「そりゃ知らないだろうな。いいさ、分かってる」
自嘲気味に笑うカイト。
その不気味な様子にルカは眉を顰める。困惑が益々深まったという表情だ。
「それで、俺の用が終わるまでそこにいるつもりか?」
「アンタが心配ですので」
「心配なのはお前の仲間の方だろ? 随分と警戒されたもんだな」
ルカを尻目にカイトは再び詠唱を始めて、魔術を湖へと撃ち込む。再び轟音が響き水が抉れる。凄まじい威力だ。ルカの火熊には及ばないが、それでも水を抉るほどの破壊力があった
数度それを繰り返すとカイトは首を傾げた。その視線は陸に打ち上げられた魚に向かっている。
「妙だな。魚がいつもよりずっと少ない」
普段ならば既にいっぱいになってるはずの魚籠はまだ半分ほども面積を残している。魔術に驚いて魚が逃げるため徐々に収獲量は減って行くものだが、今日は最初からずっと数が少ない。
まるで魚たちが既に何かに怯えて避難をしているようだ。
「ん?」
カイトはふと自身の視覚が暗くなったことに気がつく。日の入りにはまだ早いはずだが。
そう考えながら上を向くと、そこにはぽっかりと空いた暗闇があった。否、それは大きな口である。
「危ない!!」
ルカが叫ぶと共にカイトへと突貫し、そのまま二人で地面を転がる。その三秒後、大口がカイトのいた地面を削り取った。
土埃が周囲に立ち込め、その奥より燃えるような双眸が二人を睥睨する。
瞬間ルカとカイトは悟った。自分たちが獲物になっていることに。
「冬の王……この時期に何故!?」
土埃が晴れると共に、巨大な捕食者が姿を現す。
人を十人は丸呑みにできそうな大口に、先端が棘棍棒のように隆起した二本の髭。湿った潤黒の表皮に、煌々と炎に包まれた二つの眼。その姿はナマズに似ていた。規格外の大きさと刺すような威圧感を除いて。
眠りより目覚めた冬の王は、最初の贄をその目に捉えた。




