視野が広がったということで
ジェラール様の顔をそのまま直視できなくて、私は思わず俯いた。
心臓がバクバクいってる。顔がとても熱い。まるでパンを焼く竈の前に立っている時みたいに。
「あ、の。その。でも、私、は……」
言葉がうまく紡げなくて、声が震える。
そんな私をジェラール様は焦らせるでもなくただじっと待ってくれていた。
ああ、優しい人だな。わかってる。わかってたよ。
この人が、あの元カレとは違うってことくらい。でも。
「やっぱり、簡単には人を、信じられなくて」
「……うん」
「特に、顔の良い人は」
「あー……これまでもちょっと嫌になることはあったけど、これほどまでに自分の顔が嫌になったのは初めてだなぁ」
それはなんだかごめんなさい。ジェラール様だって好きで良い顔に生まれたわけではないでしょうしね。
いや、普通だったら羨ましがられるスペックだろうけど。余所で言ったらただの嫌味だ。
「でも、ごめん。僕も貴女を諦められない」
「……このままじゃ、平行線ですよ?」
私がいくら断ってもジェラール様は求愛をやめない。
そして私はいくら求愛されても、受け入れることができない。
埒が明かないよ、どうしたらいいの。
「僕はアネットさんのためならなんだってできるよ」
「爵位を返上したり?」
「もちろん」
「重すぎます、抱えきれません」
「貴女が抱える必要は……」
「ないわけないでしょう!? ここまでされて、自分のせいじゃないなんて思えるほど図太くないですよっ!」
それが重いんだってわからないのかなぁ? やっぱり力のある人は感覚も平民とは違うのだろう。
きっとお付き合いしたとしても、こういう価値観の違いで私たちは何度となく躓くんだよ。目に浮かぶ。
「いつか貴族になりたいと思ったなら、男爵位くらいいつでももらえるよ」
「そういう意味ではありませんし、そんなセリフが言えるのは貴方くらいでしょうね……」
やっぱり感覚が絶望的に違う。
感情的になってはダメだ。でもどうしてもため息は吐いてしまう。
「何もしないでください。私のためになんて、なっていません。それは押し付けですよ」
私が疲れたようにそう言うと、ジェラール様はようやく納得したように神妙に頷いてくれた。
「押し付け、か……確かにそうだ。ごめん、アネットさん。一番大事な貴女の気持ちをないがしろにしていた」
「わかってもらえたのなら、それで」
ふぅ、これで彼が平民になるとか騎士団を辞めるとかいう話はなくなったかな。ほっ。
リックさんや他の人たちもこれでひと安心だろう。ごめんね、私のせいで。
「どうしたら、貴女は振り向いてくれるのだろうか」
「それを私に聞くんですか……」
あ、なんだか急にジェラール様がしおれちゃった。
ものすごく落ち込んでる。まるで大型犬がくぅんと鳴いているみたいだ。
え、これって私が悪いの? いや、原因は私だけど、悪くはないよね?
はぁ〜、人を振るのって疲れるんだな。初めて知った。
こういう経験をジェラール様は何度もしているのだとしたら、自分の顔が嫌になることがあるのもわかる。
いやいや、それより今だ。
とりあえず今の私は、言っていることおかしくないよね? 悪くもないはず!
……と、割り切れる性格だったらよかったんだけど。
さすがにこのまま「はい、さようなら」といって立ち去ることもできない。
これだから私はいつも中途半端なのだ。無慈悲になりきれない。
「だっ、大体、好きな人ができたからって相手に自分を合わせるっていうのがわかりません。自分そのものを好きになってもらわないと意味がなくないですか?」
「自分、そのものを」
えらそうに持論を語ってしまった。
うわぁ、なんだか恥ずかしい。私だって人に説教できるほど恋愛なんてしてきていないのに。むしろ酷い目にしか遭ってない私の言葉に説得力なんて……。
「そうだ、その通りだね。本気で君を思うなら、ありのままの僕を受け入れてもらわないと」
え、あれ? 元気になってる? 目が輝き出して、憑き物が落ちたみたいなスッキリ感が漂っている。
……い、嫌な予感!
「ガリオス伯爵家の貴族で、騎士団長で、女性に声をかけられてしまう僕を好きになってもらう。この努力から僕は逃げていたみたいだ」
待って? 諦めるどころかむしろやる気が溢れて……これ、私やらかしたのでは。
「貴女しか目に入らないってことを、周囲に知らしめるのが先決だね」
こ、この人の辞書に「諦める」って単語はないんですかねぇ!?
ジェラール様は私の両肩に手を置き、蕩けるような笑顔で告げた。やめてください、顔が良いんだから。
「待っていて、アネットさん。ここからの僕は、もっと本気を出すから」
「今まで以上に!? なんでそうなっちゃうの!?」
やっぱり私が火を点けてしまったようだ。どうしてこうなった!
その後、ご機嫌な様子のジェラール様と私は揃ってパン屋に戻り、その日はそこで別れた。きっと今頃はあれこれとリックさんにかなり問い詰められていることだろう。嬉々として答えていそうだけど。
……はぁ、どっと疲れた。
「で、お姉ちゃん? どういうことなの?」
「あ、あはは……そうなるよねー……」
閉店作業後、マノンに迫られた私は思わず目を泳がせてしまう。
妹の恋愛話を聞くのは大好きだけど、自分のことを妹に話すのはなんだか抵抗がある……!
「もちろん、ぜーんぶ教えてくれるよね? お姉ちゃんがいない間、大騒ぎだったお客様を宥めるのに私とリック様がどれほど大変だったか……」
「わー! それは本当にごめん!」
「それに、お店を閉めるまでなんにも聞かずに我慢していたのよ? あの場で聞いてしまってもよかったけど……」
「わー! わーっ! わかったよ、話すからっ!」
完全敗北です。
観念した私はマノンに一から説明することとなった。マノンってば、怒ると怖いんだよなぁ。
「つまり、これからも騎士団長様がお姉ちゃんに求愛を続けるってこと? わぁ、あの人への印象が今日だけで変わっちゃったよ! すごく一途なんだね!」
「受け入れる気がないこちらとしては迷惑でしかないよ……」
話す前からなんとなく反応はわかっていたけど、今の私にとってこれは疲労感が増してしまう。
「どうして? あんなに良い人、他にいないと思うけど」
「まぁ、そうだろうけど……」
「あっ、お姉ちゃんの気持ちが一番大事なのは変わらないよ? でも、でもね」
マノンがあまりにも一生懸命なので、私は思わず口籠ってしまう。
こんなに必死になっているの、珍しいな。前に見たのはいつだっけ。……ああ、確か私が無理をしすぎて倒れた時だ。
まだマノンは七歳だったのに自分にも手伝わせてって必死になっていたっけ。
「お姉ちゃんの恋人へのイメージって、あの酷い人のままでしょ? だから私ね、ずっと心配していたの。このままずーっと、お姉ちゃんが恋を怖がるんじゃないかって。いつも元気だから大丈夫かなって、私……軽く考えてた」
「マノン……」
「ごめんね、お姉ちゃん。気づいてあげられなくて」
「そんなこと! マノンに気にしてほしくなくて、隠していたのは私だから」
本当に、このことはマノンが気にすることじゃない。あの男の酷い噂に振り回されて大変だったのはマノンも一緒だけど、恋愛に関しては完全に個人的な問題でしかないんだから!
でも、マノンはどこまでも真剣な眼差しで真っ直ぐ私を見てくる。
「お姉ちゃん、私はもう大丈夫だよ。昔みたいにお姉ちゃんに頼らなきゃ生きていけないような幼い子どもじゃないもの。だからね、自分のために生きてほしい。パン屋のことだって一緒に考えればいいんだから」
ああ、いつの間にこんなに大きくなっていたんだろう。マノンも立派な、一人の女性なんだ。
ふふ、リックさんの影響かな? そう考えるとやっぱりちょっと寂しい。
「えーっと、つまり何が言いたいかと言うとね? 試しにお付き合いしてみるのもいいんじゃないかなって思うの」
「えっ」
「それでもダメなら、改めてお断りするの。きっと騎士団長様はわかってくれると思う!」
妹の成長を感じてしみじみしている間に、おかしな流れになってる!
試しにお付き合いってそんな、なんだか不誠実じゃない? こんな提案をマノンがするってことに驚いた。
「みんながみんな酷い人じゃないよ。それはお姉ちゃんだってわかっているでしょ? 騎士団長様はすごく誠実な人だって思ったよ。あれだけ言ってくれているんだもん。お姉ちゃんがどうしても嫌ってわけじゃないなら、一度ちゃんと向き合ったほうがいいと思う!」
ぐさっときた。一度ちゃんと向き合ったほうがいい、ってところが特に。
私は、たぶんジェラール様のことを雲の上の存在とした見ていなかった。実際にそうだし、彼の行動は一つ一つ影響力が高くて、恋人になんかなったら私もそれに振り回されるんじゃないかって、そればっかりで。
結局、私は自分が一番かわいいんだ。傷つきたくなくて、ただそれだけで断り続けていた。
それが悪いこととは思わないけど、少なくとも誠実ではない。
誰よりも真っ直ぐ思いをぶつけ続けてくれるジェラール様に対して取る行動じゃなかったかもしれない。
「マノン、ありがとう」
「お姉ちゃん……」
「リックさんに私の背中を押してって言われた?」
「どっ!? ど、どどどどうして」
「ふふっ、やっぱり」
いつも以上に積極的だと思ったんだ。心の奥の方にそういう熱いところがあるのは知っていたけど、あまりにもあからさまだもん。
「私はマノンのお姉ちゃんなんだから、わかるよ」
「ご、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ」
まったく、とんでもなく姉思いの妹に、騎士団長思いの部下だよね。
「今度リックさんにお礼を言っておいて。ちゃんと考えるから」
「! うん!」
そんな嬉しそうな顔しないでよ。期待に沿えるような答えはまだ出てないんだから。