9.予習しました
パタパタと、通いと思しき知らない顔のメイドたちが行き交っている廊下の端で、私はぽつんと佇んでいる。
その中心では、侍女のダニエラも何やら忙しそうに次々と指示を出していた。
「あの……ダニエラ、ダニエラ?」
「エリーゼ様。どうなさいました? お部屋で読書をなさるとおっしゃっていましたのに」
「ドアの外が騒がしいから気になって」
「すみません! もっと静かに準備するよう伝えておきますね」
いいの、いいの、と私は首を振る。
「それより……どうしたの? お客様でもいらっしゃるのかしら」
え、とダニエラが驚いた顔で振り返る。
「まさかエリーゼ様、ご存知ないのですか?」
「何のこと?」
「大変! 私はてっきり、アルノルト様から伺っているものだとばかり……」
その時、メイドたちの間隙を縫うようにしてユストゥスがやってくる。
「エリーゼ様、良かったお部屋の前においでだったのですね」
急ぎ渡されたのは、招待客と思しき貴族たちの名簿だった。
「これを明日の昼までに覚えておいてください。ご挨拶の際に、失礼のないよう……」
ものすごい量の紙の束に、私はめまいを覚える。それからほどなくしてなにかを察し、すぐに後ずさった。
「この騒ぎ……そしてこの名簿。もももしかして、社交の場が開かれるのかしら」
嫌ー! と思わず叫びそうになり、慌てて口をつぐんだ。
それでも、青ざめているであろう顔色は戻らない。
私は貴族のくせに蕾の刻印しか持たないことや、魔法陣ばかり取り憑かれたように描き続けてしまうということで基本的には社交の場から遠いところで生きてきた。
それが両親の望みだったからだ。作法なんかは鬼のように叩き込まれたが、使う機会はほとんどなかった。
だからといって、それで不満を持ったことはない。この性格が、何よりも社交界に不向きだったからだ。
「そういえば、アルノルト様のお噂もご存知なかったんですよね」
「噂が流れるようなところに行かなかったから」
そもそも興味のない人との付き合いも苦手だし、女性特有の上辺の会話というものも得意ではない。流行りの服も宝石も、殿方の自慢話もお遊びも、正直に言えば何も好きではなかった。
「どうしましょう。ダニエラ……」
私の性分をある程度把握しつつあるダニエラが、大丈夫ですと力強く頷く。
どうやら今回は、王都で開かれる茶会や夜会ほどの規模ではないらしい。
何より、貴族らしさを問われる社交の場でもないというのだ。
「先日の襲撃を、人的被害無しで収めた祝勝会と、少し遅くなりましたが婚約者のお披露目を兼ねたパーティーなので、騎士団の方々やその関係者が主な参加者なのです。ですからご安心ください」
「ああ……そういう」
「とはいえエリーゼ様、今回の主役はあなた様とアルノルト様です。やることは多いですよ」
間に入ってきたユストゥスに、先程渡された紙の束を指差され、私はやっぱりげんなりする。
人の顔を覚えるのはそもそも苦手だ。
特に貴族や騎士には整った顔立ちの人が多いので例の"印象の薄い人"というくくりに収まってしまう。
これが魔法陣の束であれば一目見ただけで次々と覚えられてしまうのに不思議な話だ。
「大変です。エリーゼ様! そろそろ仕立屋が来る時間ですよ」
「え、この間のドレス、もうできたの?」
「それはまた別です。今回のお披露目会用に、新しく仕立てることになったんですよ」
アルノルト様の指示です。と、こそっと教えてくれるダニエラに、私は思わず俯いてしまう。緩んでしまった口元を、見られたくなかったからだ。
前回の訪問から、まださほど日数が経っていないというのに、やってきた店主はまた私をほぼ丸裸にして隅々まで採寸していった。
お披露目用のドレスには、もっと細かな数字が必要ということらしいが、繕い物などやったこともない私にはその違いさえわからない。
一時はぐったりしてしまったが、私はどうにかこうにか再び廊下に出て騒がしい回廊を抜け、一階にある執務室に向かった。
アルノルト様に、仕立てのお礼を言いたかったからだ。
「あ、アルノルト様!」
私がお部屋の前にくると、すぐに扉が開いた。
どうやらユストゥスを連れ立って出かけるようだ。
「先程、仕立屋が……」
「すまないエリーゼ。その話ならまた後で」
「え、ええ」
目も合わせず、まるで私を避けるように立ち去っていったアルノルト様の背中は冷たく、何か思いつめている様子だった。
「何かあったの? ユストゥス」
「お忙しいですからね。お疲れなのかもしれません」
「だったらいいのだけれど……」
「強いて言えば、襲撃の件でしょうか。被害がなくて良かったのは事実ですが、このまま敵国、リューベッセルが大人しく引き下がるとも思えない」
「たしかに」
「また新たな策を練ってくるのではないかと、気を揉まれているのでしょう」
「わかったわ。私もなにか変わったことがあったらすぐに報告するわね」
「お願いいたします」
それでは、とアルノルト様の後を追いかけるユストゥスに私はどこか腑に落ちない気持ちで視線だけを送るのだった。
***
豪奢、というよりは、どこか無骨なデザインの調度品が並ぶホールには今、私とアルノルト様の二人っきりだ。
夕食のあと、ダンスの練習をしないかと誘われたときには柄にもなく舞い上がってしまった。
やっぱり、数日前に感じた懸念はただの思い込みに過ぎなかったのかもしれない。
「緊張しているな、エリーゼ」
「ふふっ、アルノルト様こそ」
私は少しだけ砕けた口調で、アルノルト様が差し出す手を握る。
「上手く踊れるかしら」
ダンスなんて、作法のひとつとして学ぶばかりで実践したことはほとんどなかった。こんなことならば、社交界に行きたいともっとねだっておけばよかったと今更ながらに後悔する。
「ワントゥースリー、ワントゥースリー、そうだ。なかなかうまいぞ」
ダンスの基本はおだやかな三拍子。
私はヒールでアルノルト様を踏んでしまわないよう、それだけを気をつけていた。
「もっと遠くを見たほうがいいぞ」
「アルノルト様ではなく?」
私の言葉に、アルノルト様がかすかに動揺し、少し表情を曇らせたのがわかった。何か失礼なことを言ってしまっただろうか。ちょっとした駆け引きのつもりだったのに、と、私の方が慌ててしまう。
その時、心配していた事態が起こった。
私のかかとが、アルノルト様の裾を踏んでしまったのだ。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
「気にするな」
「……はい」
「どうした、急に大人しくなって……」
「アルノルト様の方こそ、どうなさったのですか?」
「……俺は、どうもしない」
「ですが、最近……何か考え事をなさっているようです。先程も――」
「何もないと言っているだろう。君が来てから、上手く行くことばかりだよ。心配事など……」
そのとき、ローブの中の口元が微かに歪む。
「君は……」
「え?」
「君は、それでいいのか?」
「私、ですか?」
それから一呼吸あけて、もちろん、と頷いた。
「心配事などありませんわ」
この城に来てからは、明らかに以前よりものびのびとした暮らしができている。
魔法陣を描いても叱られないし、むしろ喜ばれることばかりでありがたい、というのが本音だ。
それからは三十分という短い時間だが、基本的なダンスを何度か踊って部屋に戻った。
アルノルト様はまた執務室に向かっていたので、何か仕事が残っていたのだろう。
次話は明日投稿します。
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