5.びしょ濡れになりました
活気のある声が、窓越しに響き渡っている。
王都ほどではないが、このツェルンの城下町も城の雰囲気とは違いずいぶんと栄えているように感じられた。
中心部と思しき広場には噴水があり、周囲を囲むようにして店が立ち並んでいる。
ケーキ屋や、小物屋。雑貨屋と並んだその次がテーラーだ。店の飾り窓には紳士服が、その隣の建物のガラスの内側には絢爛たるドレスがしつらえられている。
行き交う人々で大通りは混雑しているが、皆一様に楽しそうだ。
私たちは馬車で店の前まで乗り付けて、それからアルノルト様に手を貸してもらいながら石畳に降り立った。
瞬間、ざわりと周囲の空気が変わる。
「辺境伯様だ!」
どこかで、子供が声を上げた。
しかし声の方を向いても、子供は母親に口を抑えられていてそれ以上何も言えないようだった。
あれほど騒がしかった雑踏が、無音になる。
私達が乗っていた馬車の馬だけが、ヒンと微かに鳴いた。
一歩、アルノルト様が前へ踏み出すと、今度は領民たちが一歩後退り、下手な笑みを浮かべる者や、ゆっくりとこの場を逃げ出す者さえいた。
「やはり……ついて来るべきではなかったか」
ぽつりと、アルノルト様がこぼす。
しかし私には怯えやおそれといった感情よりも、可哀想なものを見る同情のような眼差しが多かったように感じた。
街を見ても、みなが息苦しい生活をしているとは思えない。
領民の誤解は、きっといつか解消される。
私にはそんな気がしてならない。
「堂々としていれば良いのですよ」
「エリーゼ……」
「歩きやすくて良いではないですか」
私は下手な笑みでも、可愛そうなものを見る同情の眼差しでもなく、心からの晴れやかな感情でもって答えた。
***
目的地でもある仕立屋は、先程馬車から見えたテーラーの隣にある店で間違いなかった。ダニエラ曰く、ここの女店主はこの街一番の腕利きらしい。
噴水の周囲で遠巻きに出来上がった人だかりから視線を外し、店のドアを開く。
カランカラン、とドアベルが鳴った。
「いらっしゃいま――」
せ、と続けようとした店主が振り返り、手に持っていたハサミを取り落としそうになった。
「これはこれは辺境伯様……こんなところまでどんなご要件で」
「エリーゼの……私の婚約者の服を仕立ててもらおうと思って来た」
「お噂通りお綺麗な方。是非、私共にお任せください」
最初こそうろたえていた店主だが、すぐにキリッと表情を変えて頷く。
それから私は、奥のカーテンで仕切られた小部屋へと案内された。
ダニエラには一度簡単な採寸をしてもらったが、今度は肩や手首足首にいたるまで隅々まで細かな数字を測っていった。
「正直に申し上げて……今着ていらっしゃるこのドレスはいただけませんね」
「でしょう!? 私もそう思っていたんです」
店主の言葉に、ダニエラがうんうんと頷く。
「エリーゼ様の、せっかくの細いウエストが緩くぼやけてしまっていますし胸元の生地も足りていません。透き通った美しい肌にも、こういった原色は似合いませんわ」
「本当、もったいないですよね。きちんと着飾れば社交界に咲く大輪の花になれますのに」
そんなものにはならなくていいのだけど、と思いながらも、くるくると回され、また採寸され、布を当てられ、を繰り返してようやく長い長い下準備が終わった。
***
「うう……目が回りそうです」
私が這々の体で出てくると、文句ひとつ言わず待ってくれていたアルノルト様が少し可笑しそうに出迎えてくれた。
「ど、どうして笑っているのですか?」
「いや、こういうものは……女性は慣れているものだと聞いていたのでな」
「私は……あまり仕立てをしてもらったことがないので」
そうつぶやいた後、わずかに憐れみの視線を感じたので、私は慌てて背筋を伸ばし首を振った。
「もともと、興味がないのです。どんなに着飾ったところで、私のところにはよい婚約のあてはないだろうと言われていました。なにせ、蕾ですから」
ふっと微笑んで、右の人差し指を撫でる。
「だから……最初の婚約を破棄されたときに、きっと一人で生きていくことになるんだって……そう、思ったんです。だからこれまで以上に呪文や魔法陣について調べて、勉強して、困りごとも一人で解決していける人間にならなければって……」
実際にはその魔法陣の起動だって一人ではできない。
誰か助けてくれなければ、私には何もできないのだ。
「俺は敵を……魔物を倒して、倒して、この辺境伯という地位に収まった」
私はアルノルト様の声に、そっと耳を傾ける。
「けれど花を咲かせたり、皿を直したりすることはできない。魔法陣自体を読んで、起動することはできるが、あれほど見事に描いてみせることは、きっと今を生きる貴族の誰にもできないことだろう」
「エリーゼ。君は、もっと誇っていい」
「アルノルト様……」
わずかに、アルノルト様が私の右手の人差し指にふれる。
手袋越しにでも熱が伝わってくるような気がして、私は不意に背を向けた。
「用意ができましたよ! エリーゼ様! アルノルト様!」
店主とともに出てきたダニエラが、ドレスに良さそうな生地がたくさん貼り付けられた冊子を持ってくる。
絵本のような見た目だが、中はすべてが生地だ。
私の顔の側や胸元にひとつひとつ持ってこられ、どれがいい、何がいい、と二人はとても真剣な表情だ。
時折意見を求められるアルノルト様だが、これは派手すぎるな、くらいの言葉しか出てこず、私にいたっては寒そう、くらいの感想しか抱くことがなかったのですぐに議論から外されてしまった。
退屈だ。ぼんやりとページを見ていると、気になる数字が目についた。
「あの……ところで、これって」
「値段ですが」
ひいっと私は悲鳴に近い声を上げる。
たった一枚の薄い布で、こんな値段がするのか。
それを何枚も重ね合わせ、ときには宝石やなんかを散りばめて、ドレスはようやく仕上がるらしい。
最高級とも言える注文をどんどんしていくダニエラが恐ろしくなって、ちらりとアルノルト様の方を見る。
「あの……高すぎませんか?」
「ん?」
「たった一着の服に……こんな」
「一着ではないぞ。今回はクローゼットに入るだけ揃えるのだろう?」
ひぇ、とまた変な声が漏れる。
「アルノルト様も、そのくらい仕立ててもらっておいでなのですか?」
「俺は数着ほどだ。必要最低限あれば、それでいい」
「それはいけません!」
私の言葉に、振り返ったダニエラと店主もぶんぶんと首を振って頷いている。
「ちょうど良い機会です。アルノルト様の服も仕立ててもらってはどうですか?」
私の提案に、面倒そうな表情で顔を背けるアルノルト様。しかし立ち上がった店主が、となりの亭主に聞いてきますと言って出ていってしまった。
どうやらテーラーのご主人とこの仕立屋の店主は夫婦らしい。
「もう逃げられませんね」
私の言葉に、アルノルト様もしぶしぶ頷いている。
ダニエラは目を輝かせながら、やってきたご主人にどういった生地がいいか、などを早速提案していた。店主も、先程のドレスの生地はこうだったから、揃いで設えた方がいいなどと身を乗り出して冊子を指さしている。
私はふっと微笑んで、静かに窓の外へと視線を移した。
「あら?」
気づいたのは、その時だ。
窓の外にある広場の、噴水を支える彫刻の像。その表面が、つるりと乾ききっていて水の一滴さえこぼれてはいないことに。
「あの噴水ですか?」
隣に店を構えるテーラーのご主人が、私の様子に気づいて声をかけてくる。
「あれは、もう長いこと枯れてしまっているんですよ」
ひどく残念そうな声だった。
昔はもっと広場自体に活気があり、出店が立ち並んでいたり、サーカスのテントが張られていたこともあったという。
今も人通りはあるが、みな噴水を素通りしているし、もちろん出店もテントもない。
「エリーゼ?」
私はたまらなくなって、アルノルト様が呼びかけている声にも答えず仕立屋を飛び出した。
それから広場を通り、中心部にある噴水の縁をまたいで、枯れ葉なんかで汚れた囲いの中にしゃがみ込む。
白手袋を脱ぐと、すぐに指先が暖かくなってきた。
まずは緩やかな曲線から始まり、円を描き、模様へと仕立てていく。
「こんなに大きな魔法陣が載っている書物もあるのか?」
あとから追いかけてきたのだろう。アルノルト様が、邪魔にならないような位置から声をかけてくる。
私は首を横に振った。
水が吹き出す魔法陣はいくつか知っていたが、この大きさのものをどうにかしようとすればそれなりに無理が生じてくる。
小さいものをいくつも刻んだところで、成果は得られないだろう。
「今、考えながら描いています」
「今、だと?」
「ええ。例えば噴水を元通りにする方法、なんていう具体的な魔法陣が載っている本はありません。お花の魔法陣と同じく、独学でやっていくしかないのです」
一瞬驚くアルノルト様だが、私は夢中になって指先を動かしていたので振り返ることはできなかった。
数分もしないうちに、魔法陣は出来上がった。
初夏の風に吹かれながら、私は滲み出す額の汗をそのままに両手を魔法陣に押し付ける。
お願い、起動して!
ぐぐぐっと力を込めて、精一杯魔力を注ぎ込んでみる。
しかし仄かに光る魔法陣の表面が、艷やかに湿った程度で私の魔力は尽きてしまった。
後はどんなに手のひらを押し付けても、指先が温かくなることはない。
「……ふう」
私はため息をついて、立ち上がる。
「すみません。少しくらいは水が出るかと思ったんですけど……」
恥ずかしいような、情けないような気持ちで振り返ると、いつの間にかすぐ側に控えていたアルノルト様が、片膝を突いてしゃがみ込んだ。
「なぜ、俺に頼まない?」
「え……でも、アルノルト様の手を、そんなに煩わせるわけには」
「俺は、君の婚約者である前に、この領地を任されている辺境伯だ。領民の困りごとは、俺自身解決する必要がある」
なんだかもったいぶった言い訳をしながら、アルノルト様がふっと微笑んで見せる。
それから刻印まみれの片手を地面に着けて、一秒、いや、0.5秒ほどだっただろうか。
彫刻の頭上の吹き出し口から、水がすごい勢いで溢れてくる。
噴水の縁の中にいた私は呆然とその様子を眺めていたが、すぐに影が差した。
温かい呼気が間近にある。それによって、アルノルト様の外套にくるまれているのだということがすぐにわかった。
ドキドキと、壊れてしまったみたいに唸る心臓が、私の中から飛び出してしまいそうだ。
「あ……」
その時、仮面の紐が濡れて、するりと滑るように落ちてしまう。
私は外套の暗がりの中で、刻印の一本一本が輝きを見せる美しい横顔を見た。伝い落ちる水滴が、仔細な頬の模様を濡らしている。
そのまま横向きに抱きかかえられた私は、アルノルト様によって噴水の外へと連れ出された。
「……すごい、すごいです! アルノルト様!」
「それはこっちのセリフだ」
「え?」
私の前で、濡れに濡れて張り付いた前髪をわずかに横に流すアルノルト様。それから水面に裏返しに浮かんでいた仮面を拾い上げ、すぐに付けて耳もとの紐を結んでいる。濡れた仮面で顔は見えないけれど、その耳は微かに赤く染まっていた。
「魔法陣を描いたら、俺を呼べ」
え、と私もわずかに濡れた横髪を耳にかけながら顔を上げる。
「迷惑だなんて思うな。俺も……色々と興味が湧いてきたんだ。別に嫌なら、無理強いはしないが」
「そんな、とんでもない! 嬉しいです。私の魔法陣はいつも描くばかりで、起動するまでは行かなかったので」
ありがとうございますと言って笑みを浮かべると、いや、まあ、などと言いながらアルノルト様が後頭部を掻く。
今さらのように、周囲の歓声が耳に届き始めた。
そうだ、ここは二人っきりの空間では決してなかった。城下町の広場にある、大きな噴水の前なのだ。
「噴水が蘇ったぞ!!」
「嘘みたい……!」
以前よりよほど水量が多いのだろう。豪華になったぞ、なんて言いながら、みんなが喜んでいる。
私たち二人の様子を見守っていた人もいたのだろう。辺境伯様と、ご婚約者様の偉業だぞ、だなんて称えている人もいる。
「お二人とも! こちらへ!」
そのとき、ダニエラが慌てた様子で大きな布を抱えて出てきた。
店主たちも、オロオロしながら私たちを待っている。
「怖いと思ってたけど……案外悪いお人じゃないのかもしれないねぇ」
仕立屋へと戻る途中で、ふとそんな声を聞く。
実際、その通りだと思った。
アルノルト様は、ちっとも怖くない。むしろ、優しくて誠実な方だ。
「結局濡らしてしまったな」
すまない、と謝ってくるアルノルト様に、私は小さく首を振る。
「みんな喜んでいますよ」
アルノルト様のおかげです。と言って微笑むと、アルノルト様の口角がわずかに持ち上がり、笑みを浮かべたのがわかった。
思わず見惚れていると、ダニエラがぼふっと布をかぶせてくる。
「濡れてもいい服も、仕立ててもらわないといけないようですね」
ダニエラは、少し呆れているようだった。
私だけが、まだあの外套の中にいるかのように、頬が熱かった。
次話は明日投稿します。
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