3.来てくれました
計画は、すぐに実行された。
私は夜毎部屋を抜け出して、いそいそと魔法陣作りに励んだのだ。
目的があれば、仮に虐げられた生活が待っていたとしても乗り越えることができる。
その間、やはりあの美しい模様をもう一度見たいと思った私は、アルノルト様の部屋の周りをうろちょろしてみたり、お気に入りだと聞いた回廊の側で待ち伏せをしてみたりした。
結果として出会うことは叶わなかったが、私の怪しい行動を咎める者が誰もいなくなったという点では良いことのように思う。
あまりに不審な行動が多すぎて、皆が慣れてしまったというべきかもしれないが。
「それにしても、ここまで会えないものなのかしら」
つぶやきながら一階の廊下を歩いていたとき、ちょうど背後のドアが開いた。
出てきたのは、アルノルト様と黒目の部下、ユストゥスだ。
私はまだ入ったことがないが、隙間からの雰囲気では執務室といったところか。
彼は相変わらず、ローブで顔のほとんどを隠してしまっている。
今更のように目の前にいるのが婚約者の私であると気づいた様子のアルノルト様は、わずかに半歩ほど後ずさって、それから体勢を整え、コホンとひとつ咳払いをした。
「あー……エリーゼ嬢」
「エリーゼで構いません。アルノルト様」
「では……エリーゼ」
「はい。なんなりとおっしゃってください」
婚約者なのですから。
そう続けると、アルノルト様はまた一瞬だけたじろいだ。
「俺の近辺を、探っているそうだな」
私はちらりとユストゥスを見遣る。
彼がアルノルト様に私のここ最近の動向を報告したのだろう。
アルノルト様は小さくため息を吐いて、もうやめてくれないかと微かに零した。
「俺からは何もしない。だから、君もなにもしないでくれ」
「それはできません」
瞬間、ユストゥスとアルノルト様がほとんど同時にハッと口を開けた。おそらく、呆気にとられているのだろう。
家族にも、魔法の才能と同じくらいに煙たがられていた。
淑女らしからぬ、この物怖じしない性格を。
「だいたい私は……探っているのではなく、捜しているのです。だって、ちっともお会いになってくださらないから」
私はしっかりと姿勢を正し、アルノルト様と目を合わせるつもりで顔を持ち上げた。
彼は背が高い。ユストゥスよりも、さらに頭一つ分大きく感じた。
「夕食は、ひとりで摂っているのですか?」
「ああ……そうだ。ずっと、そうだった」
「では、これからはご一緒にどうですか。ひとりでの夕食は、とっても味気ないものです」
叱られ煙たがられるばかりだったが、それでも実家暮らしの頃は家族揃っての夕食が当たり前だった。
七つの鐘を聞いて、温かいスープが注がれる瞬間に誰もいないのではやはり物寂しい。
執事も侍女も頼んだって隣には座ってくれないし、どうせなら婚約した相手と楽しく会話を弾ませたいものだと、私は素直に考えた。
それに――。
「ローブの中は、以前少しだけ見てしまいました。今更隠し立てをされても、意味がありませんもの」
私は自分の人差し指が白手袋に隠されていることを棚に上げて、少し澄まし顔でそんなことを言ってみた。
なぜならこの人は、周りが騒ぎ立てるほどに怖くはないからだ。
先程からじっと、私の一挙手一投足に注意を払っている。
婚約者というよりも客人として、彼なりに気を遣っているというのが嫌というほどわかった。
「では、お願いしますね」
私は反論が返ってくる前に、急いで踵を返して回廊の方へと歩いていった。
しばらくした後、待ってくれないかと声がかかる。もちろん、アルノルト様だ。
私は聞こえないふりで、中庭の方まで駆けていく。
もう追いかけてこないだろうというところまで来たとき、全く、という呆れた声がすぐ後ろから届いた。
振り返ってみると、いつのまにか目の前にアルノルト様がいるではないか。
バタバタと駆けてくる足音さえ聞こえなかったことに、私は驚く。
そうして視線を落としたままの私は、思わず両手で口を覆った。
「どうかしたのか」
「いえ……な、なんでも……」
昨夜、草も土もないところに描いてみたらどうだろうと実験的に記した魔法陣が、石畳の上で、というよりもアルノルト様の靴の下で仄かに光り、浮かび上がっていたのだ。
「なんだ。これのことか」
今度は変わった種類だな。
そう続けてしゃがみ込んだアルノルト様が、茨の蔦模様がびっしりと刻まれた手のひらを地面に押し付けた。
瞬間、ふわりと暖かな風が吹き、石畳の隙間からしゅるしゅると蔓草が伸びてきて、ぽぽん、と三つほどの花を咲かせた。
「わぁ……!! 素敵!!」
真っ白なクレマチスは、私の暮らしていた王都近郊ではもっとも人気がある品種のひとつだった。
街を歩けば、どこへ行ってもこの白い花を見かけるほどには思い出深い。
こんな国境近くで、懐かしのクレマチスが本当に見られるだなんて思いもしなかった私は、思わず涙ぐむ。
「あなた、だったんですね。アルノルト様」
顔を上げたアルノルト様の隣にしゃがみ込むと、間近で目が合った。
細やかで美しい刻印。その模様に匹敵するほどの、まばゆい琥珀色の瞳。
それはまろやかな甘いはちみつのようで、私は思わずとろけるような心地に浸る。
「おかしいな、と思っていたのです」
独り言のように、ささやく。
「私だけでは、魔力が足りないんですもの。ただのらくがきだったはずの魔法陣が、毎朝毎朝きちんと起動している。それは誰かが……いいえ、あなたが、魔力を注いでくださっていたから」
違いますか、犯人さん。
私の言葉に、琥珀色の瞳が揺れる。
涙ぐみ微笑む私と、戸惑いながらも目を逸らさないアルノルト様は、しばらくの時間を見つめ合って過ごし、どちらかが照れくさくなって離れるまでそうしていた。
***
ボーンボーンと、七時の鐘が鳴る。
私がスープを注いでくれている執事のヨーゼフの手元を見ていると、唐突に扉が開いた。
「あ、アルノルト様!?」
私が呼びかけるよりも先に、執事のヨーゼフが驚いてスープを零しそうになっていた。
「落ち着いて。ヨーゼフ」
「ももも申し訳ありません!」
「約束、ちゃんと守ってくださったんですね」
私は視線を戻して、アルノルト様の方へと微笑んだ。
「気まぐれだ」
そんなことを言いながら、向かい側の席に腰掛けたアルノルト様。
少し気恥ずかしそうにしながら、頬杖をついている姿はどこか可愛らしかった。
慌てたのは侍女やメイド、執事たちだ。
アルノルト様がこの場所で食事を摂ることなどなかったから、食器の準備からはじめなければならない。
「俺はいい。とりあえず……ワインだけ用意してくれ」
ヨーゼフが急いでテーブルを回り込んでいる間、ぶつかるまいと大きく仰け反った侍女のダニエラが、すぐ側にあったサービスワゴンを強く押してしまう。
反射的にガタンと揺れたワゴンから落ちたのは、メインが載っていたと思しき大皿だ。パリン、とわかりやすい音を立てて真っ二つに割れた皿に、ダニエラの顔が真っ青になっていく。
「わ、私……なんてことを!!」
すぐに片付けます、とか本当に申し訳ありません、などとまくし立てるダニエラの三つ編みが首を振るたびに揺れている。
「メインはすぐに代わりのものを用意いたします。しかし……」
ヨーゼフの目が、大皿へと移される。
どうやらその皿は、この城で古くから用いられている貴重な品らしい。
割れた状態でも、珍しい金の細工が施されていることがわかる。
アルノルト様は少しも気にかけていない様子だが、使用人たちの間には絶望的な空気が漂っている。
クビで済めばいいが、という密やかな声が後ろから漏れ聞こえ、ダニエラは泣きそうになっていた。
私は急いで椅子から立ち上がって、自ら白手袋を外す。
「何だ?」
わずかに身を乗り出したアルノルト様が、興味深そうに尋ねてくる。
「あ、あんまり見ないでくださいね。蕾だなんて……子供みたいで恥ずかしいでしょう」
私は左手で自らの人差し指を隠すようにしながら自嘲する。
それから意を決して、皿の周りに指で円を描き始めた。
「割れ物がもとの形に戻る魔法陣です。昔……一度だけ成功したことがあって」
それから当時を思い出しながら、胸がちくりと傷むのを感じた。
「割れた箇所が濃い線として残ってしまうので、あまり意味はないのですが……」
それでも、と私は意識を集中する。
当時はやはり、恥ずかしいことだとお父様に叱責を受けた。割れた皿をもとに戻そうなどという発想自体が貴族らしくないとさえ嘆かれた。
けれど今は、少しでも彼女の――ダニエラの罪を軽くしたい。
描き上がった魔法陣に、アルノルト様がほう、と感心した声をあげる。
こんな古くさくて地味で使い勝手の悪いやり方を、いちいち覚えている方が珍しいのだから当たり前だ。
「少し待っていて、ダニエラ」
私の言葉に、ダニエラがこくこくと頷く。
私が手のひらを模様にかざすと、微かに空気が動いた。
しかし、それだけだ。わずかに光る人差し指の刻印も、魔力を放出してはくれない。
「貸してみろ」
その時、いつの間にか隣へとやってきていたアルノルト様が、片膝を突いて私の手のひらの上に、自らの手のひらを重ねた。
熱い。
輝くほどの緻密な彼の模様が、私の手のひらを包んでいる。
微かな風が吹き、魔法陣が浮かび上がった。
瞬間、割れた皿がカチャカチャと音を立てて集まり、一つの物体へと付着する。
私が以前成功したときには、砕けたときの細い線が残っていたのに、それすらも見当たらない。
「……う、うわぁぁん」
大皿が元通りに戻った瞬間、ダニエラが子供のようにわんわんと声を上げた。
私がほっと息を吐くと、アルノルト様も同じように安堵したようだ。
すぐに手を離し、立ち上がって部屋を出ていくのかと思いきや、ちゃんと向かいの席に着いた。
泣きじゃくるダニエラが、ぎゅっと強く抱きついてくる。
頬を伝う涙が、私の肩に落ちるのがわかった。
落ち着いたのは、ボーンボーンと八度目の鐘が鳴った頃。
メイン料理の味は、残念ながら覚えていない。
けれどあの人の――アルノルト様の刻印にまみれた肌がアルコールでほのかに赤くなっている様は、やはり可愛らしく思えたのだった。
次話は明日投稿します。
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