浮気症なカノジョは魔法使い
女はベッドの上で泣きじゃくっている。
愛しい人に向けて、てめえの罪を何とか弁明しようとしている。
女は別れ話に耐えきれず、めそめそ、べそべそ、エーンエーンと泣いていた。
女の前に低い、男性のように低い声で、しかも割かしイケボの部類に入るダンディズム溢れる姿が佇んでいる。
「別れよう」
男性らしき声、彼と呼べるであろう気配、彼が彼女に提案をしていた。
女は答える。
「いや!」
泣きじゃくる声で、もつれる舌は上手く言葉を発せられず音程が上ずってしまっている。
女は延々と泣きじゃくりながら彼に縋り付いている。このまま靴でも地面でも、あるいはアスファルトの下の暗く湿った土でさえ舐めそうな勢いである。
「別れたくない、別れたくないもん」
駄々っ子そのものといった様子で女は彼にごねている。
彼は酷く困惑した様子であった。
悲しんでいるようにさえ見えてくる。
「そんなこと言っても、君が別の奴と浮気して一晩俺を寒空の下に放置したじゃないか」
どうやら愛しの彼との待ち合わせの約束を、女側が自らの浮気によって破ってしまったらしい。
「ちょっとした浮気心だったの!」
あまりにもテンプレートな言い訳だが、しかしそれでも彼は彼女の言葉に真剣に耳を傾けている。
まるで、今生の別れがもうすぐ、あるいは今すぐ、この瞬間にでも訪れようとしているかのように。
「君には失望した。
君は僕を捨てた。
君は僕を裏切った、もう、一緒にいられない」
彼のふわふわの柔らかい唇から紡がれる失望の言葉。
だが表情に絶望は一欠片も存在していない。
彼は、何故か彼はとても悲しそうに、しかし喜ぶように美しい涙をポロリ、と流している。
彼は彼女に語る、別れ話を語る。
「君はもう僕から離れるべきなんだ。
君はもう大人だ。少なくとも僕と出会った時の、本当に何も出来なかったはずの、でも同時にどんなものだって救えたはずの君とは、もう違う、もう戻れない」
彼は彼女の、まだまだ柔らかさや薄紅色が消えてはくれない頬にそっと、自らの優しい質感の手を触れ合わせている。
彼女が甘えるように頬を寄せる、彼は手のひらにそれを受け止めている。
「君はいつか捨てられることを覚えるだろう。それはとても悲しいこと。
誰かのせい、自分のせい、誰のせいでもない。
理由は沢山あって、一度だって誰にだって理解できやしないんだ。
ただ、抱いたはずの愛情さえも忘れてしまうこと。
これだけは、本当に悲しいことだって、僕は確信を持って言えるよ」
だって、と彼は彼女にほほ笑みかける。
「だから僕は信じる、信じるしかない。
君が僕に見いだした愛を忘れないよう、願うことしか出来ない」
悲しそうにする。
勇気を振り絞って未来に希望を見出すことしか出来ないでいる。
「もう一緒にベッドでおねむはできない。
もう二度と君は僕にキスをしなくたっていい、それに唾液でベドベドにしたり、おしっこでビシャビシャにしたりしないでもいい。
君は大人になった。
君が生まれてきて僕がプレゼントされた時、嗚呼、君に出逢えたあの日あの瞬間! どんなに素晴らしかったか」
思い出を話す。
「?」
彼の感動について、彼女は何も覚えていない。
まだ、感情さえも生まれていなかった。
なのに。
「なのにどうしてだろう、君は言葉を知る前に愛を与える方法を知っていたんだ。
まるで魔法みたいだ」
彼は彼女の頬を、まだまだ丸くてぷにぷにで、簡単に壊れてしまいそうな、ほっぺたを撫でる。
「さようなら、透明で小さな魔法使いさん。
君は君自身の魔法に気づけない。
でも僕も、そして誰かが、君の魔法でうっかりちゃっかり、救われちゃったりするんだ」
目が覚める。
夢が終わる。
夜が終わって朝が来る。
母親の声。
「あらこの子ったら、昨日は新しいおもちゃにワクワクしてたのに。
こんな古いぬいぐるみを抱いて眠っちゃうなんて。
古くて破れて、汚いからもう捨てようと思ってるのに」
小さな手、子供の手。
眠る彼女の腕の中、小さな猫のぬいぐるみが抱きしめられていた。
いつの間にか消えていた、やたらツルツルした豚のぬいぐるみを思い出してました。