お絵描き令嬢と溺愛演技
迎えの馬車に揺られ再び王城へと足を踏み入れたネリーは、侍従に案内されイアンの部屋に通された。
イアンは昨日の王子様然とした格好とは違い、シンプルな服を着て窓際に立っている。何か考え事をしているかもしれないと、ネリーは声をかけるのをちょっと躊躇い立ち止まる。
ガラス越しに木漏れ日を浴びる物憂げな表情のイアンは、描いて残さないのは何かの損失である様に感じる素晴らしさだ。
「ああ、君かネリー」
気配に気付きイアンが振り返る。ネリーはすぐに礼をすると、ゆっくりと顔を上げた。
「今日から君は名目上、俺の秘書官見習いという事になる」
「秘書官……ですか? 父の手伝いはしていたので、書類整理くらいはなんとかできると思いますが……」
「大丈夫だ。実際の仕事はここから向かいの部屋を見張る事だから」
イアンがガラス越しに向かいの窓を指で示す。ネリーは彼の横に立ち、指差す先を確認する。
「あの窓があるのがモーリスの執務室だ。本当はできるだけ近くに居て様子をみたいんだが、公平性を保つために試練の間は王子同士の交流は極力絶たれる。何とか交渉してこの部屋を得たんだが、ここから魔法の色は見えるだろうか?」
ネリーはじっと目を凝らし、答える。
「ここから確認できる魔法は、相当に強い物だけになるのではないかと思います」
「それでいい。小規模な物なら、あちらにいる護衛で十分対処できるだろう。俺たちが警戒するのは昨日の様な『呪い』だ」
ネリーはその言葉に昨夜見た人喰いの大蛇のようなあの黒い靄を思い出す。ぞっとするようなあの姿を。抵抗できず呑まれていたらどうなっていたのだろうか……。想像するだけでも震えが出そうだ。でも、あの『呪い』に抗えるのが自分だけなのだとしたら。
「……私、頑張ります」
「そうか、助かるよ」
イアンはネリーに笑顔を向け、窓際に置いてある長椅子に彼女を導く。そのまま自然に隣へ腰を下ろした。
「さて、向こうからもこちらの様子は見えるから、君があの窓をじっと見ているというのは不審がられるだろう。なので俺が一目惚れしたご令嬢を部屋に連れ込んで愛を語らっている、という風に見せたいんだが」
するりと肩を回り背を温かく包む腕を感じながら、ネリーはなんとか口を開く。
「今は誰もおりませんから、このような事までなさらなくても」
努めて平静を装い紡いだネリーの言葉に、青年は肩に手を回したまま少しだけ体を離した。
「誰もいないからといって、誰も見ていないとは限らない」
ネリーが顔を上げると、青年は眉根を寄せ視線だけで辺りの様子を探りながら小さな声で答える。
「それはそうなのですが、殿下」
「イアン、そう呼んでくれ」
「それは……」
難しい事だと口にする前に、殿下と呼ばれた青年、イアンがネリーの言葉を押しとどめた。
「君には、そう呼んでほしい」
やわらかな笑み、だが目の奥が笑っていない。
「イアン……様」
なんとか名を呼ぶと、イアンはやっと本当に微笑んだ。その微笑み一つでどれだけの女性が眠れぬ夜を過ごすだろうかとネリーはぼんやり考える。
「ネリー」
イアンは名を呼ぶだけで心まで絡め取るような甘い声を落とし、そのままネリーの銀に輝く髪を一房掬い上げて口付ける。
夜闇をそのまま映し取ったような瞳がネリーを射抜く。
「俺には君が必要なんだ」
「わかって……います」
歯切れは悪いがなんとか答え、ネリーはそれからそっとイアンへ顔を寄せ、小さな声を落とした。
「ですから、きっと描かせてくださいね。イアン様」
「ああ、約束だからな」
遠目から見れば睦言を交わしているように見えるだろうか。ネリーは努めて笑顔を保ったまま口を開いた。
「昨日の事は何か進展がありましたか?」
「残念ながら、ほとんど無いな」
指先でネリーの髪を弄びながら、こちらも笑顔のまま返す。
「報告書を見たが、神官達も『呪い』の対抗策については全くわからない、しかもモーリスが連れてきたはずの者については誰も記憶がないというんだ」
ネリーも、モーリス王子が連れてきたはずの『誰か』については気になっていた。イアンより先に居たのだから、装身具の確認に連れてきた『誰か』がいたはずなのに、あの場にはモーリス王子と神官達しか居ないように見えたから。
「認識を阻害する様な魔道具を使ったんだろうと思う。ただ、王城には簡単に持ち込めないはずなんだが」
ノックの音と共に、外から声がかかる。
「殿下、キュルキュマ伯爵家より使者が参りました。次の試練についての事かと思われます」
それを聞き、名残惜しげにイアンがネリーから身を離し立ち上がる。
「入れ」
イアンの声に応え、騎士が姿を現す。
部屋に入るなり彼はネリーに不快そうな目線を飛ばしてきた。
気持ちはわかる、城全体に緊張が張り詰めている様なこの時に女を連れ込んで何をしているのかという気持ちは。
なので、ネリーはいつもの曖昧な笑みを返したが、案の定無視された。
「キュルキュマ伯爵閣下より次の試練について、書状を預かってまいりました」
騎士は跪き書状を掲げる。それを片手で受け取り広げると、イアンは眉根を寄せた。
「何を考えているのか」
「試練はその時々で内容が変わりますが、キュルキュマ伯爵家の試練だけは代々同じだと聞いております」
「それは俺も知っているが、あんな事があった後なんだから変えるべきだろう?」
怒りが滲むイアンの声に騎士は顔を上げることも出来ない。ネリーは恐る恐る、イアンを見上げ問いかけた。
「どんな内容か、お聞きしてもよろしいですか?」
「王城の北部、少し離れたところに『太陽の洞窟』というものがあるのは、知っているだろうか?」
ネリーは頷く。『太陽の洞窟』と言えば、建国の英雄、初代王が魔獣が蔓延る地を人間の手に取り戻す為、神に祈りを捧げ、力を授かったと言われている洞窟だ。この国に暮らす者なら知らないはずがない。
「王族の方しか入る事が出来ない神聖な場所だと聞いています」
「そう、その奥にある祭壇に供物を持っていくのが次の試練だ。洞窟には複数の入り口があり、どの入り口を選ぶかによって祭壇までの道のりの難易度は上がると聞く。……そして王族のみが入れると言う事は、護衛はつかないと言う事だ。更に言うならば、目的の『祭壇の間』は乱れた地脈の上にある為か魔法も魔道具も使えないんだ」
苦々しく吐き捨てるように言うイアン。増していく圧にますます騎士が深く顔を下げる。
ネリーは彼の手にそっと触れ目線で騎士の事を示した。イアンはやっと気づいた様に彼に言葉を投げる。
「書状は確かに受け取った。退出を許可する」
「はっ」
騎士は跳ねる様に立ち上がるとあっという間に姿を消した。それを確認してからイアンは長い長いため息をつき、書状を睨み付けた。
「キュルキュマ伯爵も今回の『呪い』の件は知っているはずだ。なのに、そんな場所でモーリスを一人にする気だとは」
「一人になるのは、イアン様も同じ事です」
「俺はいい」
「全然、良く無いです!」
思わずネリーは立ち上がると、イアンの頬に両手を添え、真っ直ぐに目を見つめて強く言う。
「昔話の魔女は『一族の苦悶を描こう』と言い残したと伝わっています。それなら、イアン様だって危険なんです!」
驚きにイアンの切長の目が丸く見開かれる。失礼な事をしているというのは分かっていた。でも止められなかった。
「何かあったらどうするのですか……い、いくらでも描かせてくださると約束したのに!」
「ふっ、はははははは!」
思わずと言ったようにイアンは笑い出す。
「そうだな、そう約束した」
「そうです約束です」
こうやって無理矢理にでも理由をつけておかないと、なんとなく彼は自分自身を軽んじるような気がして、それがネリーにはどうにも納得いかなかった。
イアンは頬に触れるネリーの手にそっと手を重ねて笑う。
「では、約束を守る為に頑張る俺には、何かご褒美を与えてくれてもいいと思うんだが?」
「……それも、演技のうちですか?」
「さあ、どうだろう?」
笑みの滲んだ声、イアンは目を細めてネリーを見る。見つめられると空気が甘やかに変わって行く様で怖い。
この笑顔に流されるのはいけないと頭の中で警鐘が鳴り響いている。これだけ身分の違う方を相手に、勘違いはいけないと、そう……。なのに体は動かない。
イアンの顔が段々と近づいて……。
「ちょっといいかな?」
不意にかかったその声にネリーは飛び上がりイアンから離れた。そのまま急いで身を屈めようとするのを声の主が手で制する。
「モーリス?」
「話し中にごめん、次の試練について話があって来たんだ」
王子モーリスがゆっくりと部屋に入ってくる。ネリーは静かに部屋を辞そうとするが、それもまた止められる。
「イアンの大事な人なんだろう? 君も居てくれてかまわないよ」
「ありがとうございます」
ネリーは邪魔にならぬ様に一歩下がると、イアンの後方に立つ。
「試練の間は、極力会わぬ様にという事だっただろう?」
「うん、だから避けていた。でも今回は非常事態だから仕方ないよ」
何かを悟った様な、モーリスの苦い笑み。
「何か聞いたのか?」
「最初の試練の時のアレが『絵画の魔女』の呪いかも、って話と、イアンが本当は僕を守る為にここに居るって話なら聞いた」
平素から自分の為に人が動くことも、自分が狙われることにも慣れている様な軽い返し。
この間の様子を見るに、相当苦しい思いをしたはずだというのに。
「お前はこの試練について拒否すべきだ」
「それでも、『太陽の洞窟』での試練は王族にとって特別な物。初代王の遺志を継ぐための大事な儀式でもあるからね。やらないわけにはいかないよ」
イアンの肩に手を置いて、モーリスは言い聞かせる様に穏やかに告げる。だが、彼はまったく納得がいかないといわんばかりの渋面のまま。
モーリスはそれでも構わずに言葉を続ける。
「洞窟にある複数の入り口の内どれかを選んで入り、祭壇に置いてある『聖符』を相手よりも先に持って帰って来るのが『太陽の洞窟』の試練なんだけど」
「ああ知っている」
「思ったんだよね、競ってるわけじゃないんだし、僕ら二人で一緒に入ればいいんじゃないかなって」
モーリスの明るい物言いにイアンは動きを止め、手の中の書状をじっくりと読み直す。
「確かに、一緒に入ってはならないという条件はない……な」
盲点を突かれた、そんな顔でイアンは書状を掲げた。
「ところで、君。僕はあの時の事をうっすらと覚えているんだけど」
「何の、事でしょうか?」
いきなり話題が自分に飛んできて思わず目を逸らすネリー。モーリスは、ふふ、と笑いそれ以上を追求しない。
「あの洞窟に入る事ができるのは『王族またはそれに準ずる者』でね」
また話が飛んだ、嫌な予感がネリーの背をぞくぞくと這い上がる。
「ここに婚約の許可書があります」
嫌な予感は的中する。
モーリスの笑顔がキラキラと輝くほど、ネリーの顔色が段々と悪くなっていく。
「サインさえしてくれれば、王の代理である僕が許可して二人は婚約者同士になれる。そうすると君は王族に準ずると無理矢理言えないこともない」
次の言葉を聞きたくない、ネリーはそう思う。……当然、次期王を敵に回す様な事できはしないが。
「でね、君にはイアンと、ひとときも離れていたく無いと派手に駄々を捏ねてほしいんだ」
王子様は輝く笑顔で、全力で無茶を振った。