2 ハチワレは彼に可能性を見いだした
◆ ◆ ◆
──北歴三五〇年一二月上旬・魔王直轄領パル アリシア=ラ・セルダ邸
この異世界では今は一二月だそうである。
つまり、冬だ。
冬ということは皆が皆縮こまって生活をしていくということで、つまり魔族と人類サイドの戦争も休戦状態という次第で。
俺は昨日から魔族側の人間として、生きていくことにした。
早朝。
なぜか俺のベッドに潜り込んでいたアリシアを起こすことなく抜け出すことに成功した俺は、屋敷の外周を延延と走っていた。
走り込みである。
体力作りである。
俺は日本にいるときは吹奏楽部に所属していた。
シンバルと木琴を担当していた。
俺の通っていた高校はそれなりの強豪校で、インターハイにも二年に一度は出場できるレベルの強さだった。
今年は行けなかったのだけれども、来年の俺たちが二年生になった頃にはいけるように、かなりハイレベルな練習を行っていた。
だから、下手な運動部よりも体力があると自負している。
だが、そんな努力も無駄になってしまったのだけれども。
俺は異世界に来たのだから──。
ちなみにもとの世界に戻れるあては一切ない。
いや、体力作りはしていて良かった。
決して無駄ではなかった、はずだ。
ともあれ、もとの世界に戻れるあてが一切ないという事実に俺はへこまされる。
昨日のアリシアの話を聞く限り、地球に戻る方法はまったく皆目見当がつかないとのことだった。
要は片道切符の一方通行というわけで。
文句を言おうにも、勇者召喚の儀式を行った西方連合軍、もっと正確に言えばジュスティス王国は俺が今いる魔王直轄領パルからは数百キロメートル離れている。
どんなに怒っていたとしても、気軽に抗議しにいける距離ではない。
それに、と俺は自嘲の笑みを浮かべた。
俺は、裏切り者の勇者、元・勇者だしな。
いつの間にか走るのをやめて、立ち止まっていた。
体が冷えてきているのを感じる。
俺は気を取り直して、またランニングを始めるのだった。
しばらく走り続けていると。
(サトルさま、おはようございます)
脳内でユイの声が聞こえる。
ユイとはピアス式の魔導具で通話ができるように、昨日から便宜を図ってもらっていた。
俺は心の中で挨拶を返す。
(おはようユイ)
(どちらにいらっしゃるのですか?)
(屋敷の外周を延延と走っているよ。体力作りの一環だよ)
(然様でございますか。そろそろ朝食の準備が整う時間でございます。
食堂までお戻りくださいませ)
(ああ、ありがとう)
食堂に向かうと、アリシア、ユイ、それにアリシアの専属メイドのアリス(彼女にさん付けをやめるように、今朝方言われたので呼称はアリスである)らがすでに俺が来るのを待っていた。
「おはようですわ、サトルさま」
アリシアは何が嬉しいのかわからないが、ニコニコして俺に声をかける。
メイドさん二人はお辞儀をして、俺を迎えた。
「おはようございます、アリシア。それに皆さま方も」
俺も幾分、にこやかさ成分をまし、挨拶を交わす。
すると三人がまぶしいものでも見るかのように俺の顔を見やった。
?
何か変なものでもついてるかな、ゴミでも。
そんなことを思っていると。
「変わりましたわね、サトルさま」
そんなようなことをアリシアは言う。首をかしげて続きを促すと。
「雰囲気がというか、オーラというか、顔立ちがとでも申しましょうか。……とにかく憑き物が落ちたような晴れやかな顔をしてらっしゃいますわ、サトルさま」
そう言って、彼女は俺の手を取り、にっこり微笑む。
「そうで、しょうか」
「ええ。ともあれ、食事が冷めますわ。さあ、いただきましょう」
◇ ◇ ◇
食事を終えティータイムの時間となる。
今日のお茶はなんというか、ちょっといつもよりか大分変わっていた。
「……これってホットミルク、ですか?」
「はい、そうですわ」
俺は牛乳が嫌いではないが、そんな朝っぱらからホットミルクを飲みたいと欲するほどには牛乳を好きではなかった。
なので、別の飲み物をだしてもらおうとした。
「あの、すみません……」
「飲まないのかね?」
「ええ、俺はどちらかというと、普通の紅茶の方が好みで……って、誰?」
俺は見知らぬ誰かと会話していたことに気づく。
いつの間にか見知らぬ生き物、なんというか巨大な猫ちゃんが俺のティーカップを優雅にあつかい、お上品にホットミルクを口にし始めた。
手は人間のようにすらりと親指から小指まであるようだ。
二足歩行で立っている。上下のつなぎの服を着込んでいる。
見るからに謎の生き物である。
それが目の前で。
こく、こく、こく。
飲んでいる、飲んでいる、飲んでいる。
美味しそうにホットミルクを飲み干した。
俺がその生き物を、飲みっぷりいいなぁとやや呆然として観察していると。
その視線を受けてのことか、ややあって、かしこまった口調でしゃべり出した。
「やつがれはハチワレと申します。プロフェッサー・ハチワレとお呼びくだされ、勇者さま」
やたら渋いおっさんの声が返ってきた。
俺がいろいろな意味で衝撃を受けていると。
アリシアはしれっとその生き物の紹介をはじめた。
「紹介が遅れましたわ。本日よりサトルさまの家庭教師を務めさせていただくケット・シー族のハチワレ=シャ・ディオ侯爵でございましてよ。サトルさまにおかれましては、知識欲が大いに盛んであるようですので、卿からおおいにお学びくださいませ」
そう言うと、彼女も美味しそうにホットミルクを飲み干した。
俺とプロフェッサー・ハチワレとの出会いは、そんな感じだった。
プロフェッサー・ハチワレ。巨大な猫ちゃん。
それはそうと。
俺は結局ティータイムにお茶を飲むことはできなかった。
解せぬ……。
◆ ◆ ◆
プロフェッサー・ハチワレにこの世界のあれこれを教授してもらうことになった。
早速自室で授業開始となった。
ハチワレ猫を大きくしたようだからハチワレなのだろうか。
ハチワレの顔を見やる。
模様が八の字のようにまだらがかっている。
うん、どうみてもハチワレだからハチワレなのだろう。
ふむ、勇者降臨の儀式がかつて行われたこの世界のことだ。
異文化の漢字や文化が混入したからこの名前につながったのだろうか。
ともあれ、興味深い。
………………。
…………。
……。
「勇者さまはどのようにして、今ここにおらせられるのか、簡略でいいのでやつがれにご教授くだされ」
「勇者さまという言い方はやめて欲しいのですが」
「されどあなたさまはどうあっても勇者であることからは逃れられませんぞ。ともあれ、事情がおありのようだ。ささ、この老いぼれにお話くだされ」
ハチワレは知識欲丸出しで、俺に顔を近づけてきた。
正直うっとうしかったが、しょうがないので、簡単にここ数日のことを語って聞かせた。
話し終えると、しばしの沈黙になる。
「サトル殿」
「なんでしょう」
「貴殿の話を伺う限り、貴殿にはなんら落ち度があったようには思えませぬ。ご自分を責めるのはやめたほうがいいのではないかと愚考する次第ですぞ」
そう言うと。
しばらく沈黙が場を支配した。
そうかもしれない、そう思いはする。
ハチワレの意見は確かにそうかもしれない。
俺の考えは狭隘に過ぎないのかもしれない。
だが。
けれど、と俺は言った。
「けれど、罪は罪。罪は罪なのです、プロフェッサー……。俺自身の思いはどうあれ、結果的には人類圏の連中を裏切ったのですよ、俺は。蘭世をも裏切ったのです……それは変えようのない事実なのです」
「果たして、それは貴殿がそうだと考えているだけで、他の方はそこまで考えてはいないように見受けられますが……」
またもや沈黙。
長い長い沈黙。
ハチワレはやがて降参したかのように、ため息をついた。
「その話はいずれ、またゆっくりと語り合いましょうぞ」
ハチワレが折れて、この話はおしまいとなる。
空気が重い。
いきなり師弟関係の危機に瀕した雰囲気である。
師の意見に従わない弟子だ。
それはまあ、空気も重くなるだろう。
それを嫌ったのか、ハチワレはこう提案した。
「サトル殿」
「なんでしょう」
「剣を握りましょう。剣の実技と参りましょうぞ」
そう言うと、ハチワレは椅子から立ち上がった。
俺は応じることにした。
中庭に出た。ハチワレと俺は軽く準備体操をした。
そこで、改めてハチワレという謎の生き物を見やる。
二足歩行の大型猫である。すらりとした印象を受ける。
そのまなじりは油断ならず、眼光は穏やかなれどそのなかに武人の猛々しさもうかがえた。
なんというか、ザ・剣豪という雰囲気である。
ハチワレは軽く修練用木剣の素振りを繰り返し、俺に語りかける。
「武道の経験は? 剣の経験は?」
「ありません。まったくの初体験です。ですが、なぜか【身体は覚えています】」
「ふむ、そうでありましょうな。勇者降臨の儀式はこれまでにも数度あったと聞き、召喚された該当者であるところの勇者さまにも同じような傾向があったと聞き及びます。すなわち、それまで剣の覚えがないにもかかわらず、その筋よく、最終的に剣豪を越えた存在にまで上り詰めた──との記録が残されておりますゆえ」
風が吹く。
修練用木剣をそれぞれもち、五メートルほどの距離をあけ、対峙し合った。
「では、模擬戦です。サトル殿の好きなタイミングで、やつがれに打ち込んできてくだされ」
礼を交わし合う。
両者構えて。
ハチワレの声に従い、自分から動き出す。
俺は力まず、ゆっくりと手と足を連動させ、ハチワレの間合いに入った。
そして。
「きえええええええ!」
するどく一閃。
剣先鋭く、ハチワレの頭に振り下ろす。
それを難なくはじき飛ばすハチワレ。
だが、俺はバランスを崩しのけぞったり、つんのめったりすることなく、重心を安定させる。
そして、再び相手との間合いを詰めるべく、手足を動き出した。
そして攻撃。
それを数度繰り返すも、やはり、すべてはじき返された。
「ふむ。初体験とは思えぬ安定した身体使いでありますな。これは剣豪の素質ありですな」
「それはどうも」
「では、こちらからも攻撃をいたします。寸止めで留めるようにはしますが、当たらぬように重心移動と間合いの安定を図ってくだされ」
「承知」
「籠手!」
俺の手に攻撃しようとするも、それを払う。
「胴!」
俺の胴体に攻撃を仕掛けられる、それも剣先で払った。
「ふむ、やりますな。では面!」
俺の頭めがけて木剣を振り落とす。なんとかかわした。
「では突きを数度」
木剣での突きが数度行われる。俺はそれを木剣ではらうか、避けるか、被弾することなく、躱しきった。
「力みがない。綺麗で隙のない動きをする。胸は常に張っている。姿勢は常に地面と垂直。手と足の連動もお見事。これは重畳。さすがさすが、勇者とはこういうものか。ふむ。鍛えれば大剣豪に。これぞ王者の器!」
ハチワレは嬉しそうに、一息でそう俺を評価した。
「ここまでにしましょう」
互いに礼を交わし合った。
俺はハチワレと初めての剣での戦いを、無事終えた。
「まずはサトル殿の素質を見させていただきました。今後、もう一人、我が門下の知己で活きのいいのを連れてきますわい。その者との手合わせにより、ぐんぐんと貴殿は伸びていきましょうぞ。切磋琢磨というやつですな」
そう言うとがはは、とハチワレは笑った。やたら渋いおっさんの声で。
どうやら少なくとも及第点以上の評価をなされたようなので、俺もほっと胸をなで下ろした。
「お疲れ様でした、サトルさま。それにハチワレさまも」
ユイが俺とハチワレの元に来て、タオルを渡してくれる。
どうやらいつの間にか、見ていてくれていたらしい。
「ありがとうございます」
タオルで汗を拭う。結構、疲れた。
俺は初めての実戦を終え、高揚していた。
その様子を満足そうに、ハチワレは見つめている。
実戦の余韻に浸かりながら、さらにユイが手渡ししてくれた水の入ったコップを口にしていると。
「頭でっかちでさらに血が上っていたのも、少しは身体に血が戻りましたかな、サトル殿」
そう言うと、にやりとしてみせるハチワレ。
「プロフェッサー……」
俺はハチワレの意図というか真意に気づき、ハッとした。
俺はハチワレに頭を下げた。
本当の意味で師弟関係が成立した瞬間だった。
その後、ハチワレはただちにアリシア邸をあとにした。
先ほどの言葉通り、俺に見合ったライバル筋の者を一人、見繕って連れてくるのだそうだ。
なんとも気の早いことだ。
◆ ◆ ◆
俺は一人椅子に腰掛けハチワレが置いていった武術指南書を読んでいた。
俺は、言葉だけでなく文字もこの世界のものを扱える。そう【身体が覚えている】。
勇者の力だ。
俺は護身のために剣を習うことにした。
自分を守れる力があるに越したことはないからだ。
心を鎮めるための瞑想 というものの項を読んでいると──。
アリスが俺に話しかけてきた。
──アリス。アリシアの専属メイドのお嬢さんだ。
ロングの茶色の髪を左右に結わえている。
主人と同じ髪型にしている。
小麦色の健康優良児でチャームポイントはとがった耳かな?
つまんでハムハムしたい欲求に駆られる。
快活そうな顔つきでコロコロとよく笑うのが印象的な、そんな【ダーク・エルフの女の子だ】。
「何を読んでらっしゃるんです、サトルさま?」
「ハチワレが置いていった武術指南書だよ。この本を読んで我が身を守るためのすべを学べ、とのことだ」
「サトルさまはハチワレさまに好かれましたね」
そう言ってアリスは俺に好意的なウィンクをしてくる。
「そ、そうなのかな」
はて、そんなものなのだろうか。
実感が湧かずぼんやりした顔をしていると、
「ええ。ええ。実は、私も以前ハチワレさまの指導を受けたことがあるのですが、私の素質は箸にも棒にもかからないレベルだと見切りをつけられました」
やや悔しそうにアリスは語る。
「そんな失礼な物言いを、したの? プロフェッサーは」
「いえ、それはハチワレさまは優しい方ですから、そうはっきりとは口にはしませんでした。けれど、私の方ではそうなのだろうなと推察いたしました」
そう言うとアリスは寂しそうに、笑った。
なんと答えていいものか、俺は言葉もでない。
「なので、サトルさまは私たちの希望なのです」
「希望?」
「ええ。私たち魔族軍の、希望です。このままでは私たち魔族が【滅ぶのがわかりきっている】のですから。──それを覆すことができる存在が、勇者であると思っている。そう、【私たちの勇者】として、あなたは必要なのです」
俺はいつの間にか彼女に手を握られていた。
「天が、配剤してくれた僥倖です。私はあなたがここに来てくれたことは、魔族軍側に来てくれたことは運命だと、思ってるんですよ?」
「運命?」
「はい、運命です♪」
にししっ、と俺に笑いかける。
言いたいことを言うと、アリスは仕事に戻っていった。
その後ろ姿を呆然と、俺は見ていた。
滅び、か。
俺はアリシア邸、すなわち魔王直轄領パルに来てから出会った人たちのことを思い起こす。
アリシア、ユイ、アリス、その他メイドさん数名、調理人さん、庭師さん、そしてハチワレ。
そうか。気づく。俺はこの人たちを失いたくない。
大切だ。
勇者の能力が伝承通りなら、確かに俺は【滅びつつある魔族を救える】だろう。俺にはたぶん、それだけの力が、ある。まあ、個人でやるには敵はあまりにも強大だが──。
巨人とか竜とかアンデッドとか邪神とか、まじで個人ではなんともならん。
だが、俺の能力、それに魔族の協力、そして、人類圏との──それらをあわせれば、なんとか……。
俺は覚悟を、決めた。
守ろう、彼らを。大切な彼らを。家族を。
世界を。
俺は、蘭世の顔を思い起こした。
元気にやっていてくれるといいのだが──。
◆ ◆ ◆
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