第2章
第2章
まだ空は暗くて、空気はひんやりと冷たかった。光がこぼれ落ちそうな半月のとなりに、明るい星が光っている。
兄と巫女たちに見送られて、わたしとロベルトは神殿をあとにした。
「思ったより荷物少ないな」
「そ、そうですか…?」
「うん」
「それにお嬢様のわりには服装が思ったより地味だ」
ボストンバッグの中身は、大好きな小説とレースのネグリジェ、手鏡、ヘアブラシにリボンと朝のパン、紅茶の入った入れ物だけだった。
できるだけ地味な服装をしようと、お気に入りの服の中から、紺色の服を着て、上から黒いガウンをはおった。
「ロベルトは……ヴァイオリンのケースだけなのですか?」
「まあな」
私たちは駅についた。
レンガづくりの駅舎のシンボルのように、ローマ数字の文字盤の大きな時計がかかっている。
そこには蒸気を吐く大きな黒い列車が待っていた。
「ロベルト、これが列車ですか?」
「何にも知らないんだな。乗るぞ」
列車のボックス席に乗り込み、
ボストンバッグを頭の上の棚に載せた。
ロベルトはヴァイオリンのケースは載せないみたいだ。
茶色い布製のケースには、誰だかわからないサインがたくさん書いてある。
大事なヴァイオリンなのだろう。
「あの」
「何?」
「ヴァイオリンに名前ってつけてるんですか?」
「ねぇよ」
「そうなんだ……」
「あの、いつも旅をしながら、ヴァイオリンを弾いてるんですよね」
「そうだけど?」
「すごいです!」
「すごかねぇよ」
「得意な曲とか、あるんですか?」
「………『花の精に捧ぐ』」
「へええ、有名な曲なんですか?」
「いや、誰も知らない」
「どうして?」
そんな話をしていると、おばあさんがボックス席の扉を開けた。
「ごめんなさい、相席、いいかしら?」
「どうぞ」
わたしは感じよく答えた。
汽笛が鳴り、列車が動き出し、加速する音が聞こえる。
「わぁぁぁぁ……!」
わたしは思わず声を上げた。
ロベルトはちょっと恥ずかしそうな顔をする。
「お嬢さん、列車の旅は初めて?」
「はい!初めてです」
「まぁ、よく見たらなんて美しいお嬢さんなんでしょう。神殿の絵のユリア様みたいね。ふふ。まさか噂の司祭の妹さんだったりして」
おばあさんは笑った。
わたしは嬉しくなって答えた。
「はい!実は」ぱちっ!
「痛ぁ……」
ロベルトがわたしのおでこを指で叩いた。
「冗談も大概にな、おでこ」
「お……おでこ?」
わたしのこと?わたしのことおでこって言った?わたしおでこそんなに広い??混乱していると、
「あら、ごめんなさいね。おしゃべりな老人の言うことですよ」
えっ!おばあさんも何?わたしは美人で女神様の生き写しじゃないの?!
「でも本当にお美しいわよ」
「ありがとうございます…….
あっあの!朝ごはん持ってきてて……バター付きのパンで、うちで焼いたパン、ふわふわでおいしいんです!!」
わたしはパンの包みと、紅茶を取り出した。
「一緒に食べませんか?ね、ロベルトも、はい!」
わたしはロベルトにパンを渡して、おばあさんに自分のパンを半分に裂いて渡した。
「優しい子だねぇ……あらっ。本当に美味しい」
「ロベルトはどう?美味しい?」
「うん。店出せる」
「なんか嬉しいな!」
すると景色がだんだん霧で覆われてきて、森が見えてきた。
「森だぁ」
「この森は死の森と呼ばれていて、しばらくは霧と灰色の森が続きますよ」
「死の森?」
「入ったら戻って来れないという昔からの言い伝えです」
「なるほど」
「おふたりさんはどこまで乗るの?」
「えっと……どこだっけ?」
「イースティンです」
ロベルトは言った。
「そうなのね。ヴァイオリンを持ってらっしゃるから、そうだと思ったわ」
「どうしてですか?」
私は言った。
「イースティンは音楽の都。それくらい知っとけ」
「ごめんなさい」
私はしおらしくなり、おばあさんは気を遣って黙ってしまった。
私は小説を読み始めた。
何度も何度も読んだ小説だ。
孤児として生まれた、かわいそうな女の子が、家庭教師としてお金持ちの家に嫁いで、屋敷の主人と恋に落ちる。
甘いロマンスを期待していないわけではなかった。
けれどロベルトは私よりも10歳も20歳も大人に見える。おでこ、って言われてしまったし、そんな雰囲気にはなれなさそうだ。
昨日はあまり眠れなかった。
わたしはこくん、こくんと頭を垂れて、
すやすやと眠ってしまった。
気がつけば列車がとまっていた。
イースティンに着いたのだろうか?
「お嬢さん、旅の方、わたしはこの村で降りるわ。お目にかかれて光栄だったわ。良い旅を」
おばあさんはそう言って行ってしまった。
やっぱりわたしの正体はばれていた。
「ふぁー、よく寝た……」
ロベルトはまるで人形のように
クールな表情で眠っていた。
「……何?」
彼の顔をじーっと見ていたのだろうか。
「ロベルト、わたしはおでこが広いですか?」
「……ふ」
ロベルトは笑った。
あれ……笑った顔がなんだか、かわいらしい。
「自分ではそう思わない?」
「はい。ちっとも。
ロベルトは笑った顔が素敵ですね」
「……」
それを聞いて、ロベルトは複雑な顔をして黙ってしまった。
「あっ、ごめんなさい、失礼でしたか?
あっあの、ヴァイオリンはいつからされているのですか?」
「覚えてねぇよ」
「あの、イースティンについたら、聞かせてくれませんか」
「いいけど」
「ほんとに楽器できる人って素敵です」
「まぁ……音楽に罪はねぇよ」
そう言ってロベルトはまた黙ってしまった。
森を抜けて、景色が街めいてきた。
朝日が街を明るく照らし、車窓は眩しくきらきらとしている。
「あのさ、司祭の妹ってこと、隠せよ」
「あ、そういえば、そうですね」
「……そのおでこの中身は空洞か?」
「えー!やっぱりおでこ大きいですか?!」
「……ふ」
ロベルトはわたしのおでこをつっついた。
「もうすぐ着くから、準備しなよ」
「わかりました」
茶色い建物が並ぶ、大きな街が見えてきた。
音楽の都イースティンで、
わたしはロベルトと次の冒険をする。
希望に満ちた思いで、わたしは小説に栞を挟んだ。