零のトラウマ
「お前も知っているかもしれないが……『寵愛』の寵児が目撃されたという情報だ。実際、監視カメラにも奴の姿が確認されている」
「その話なら聞いてはいるけれど……。別に、愛の伝道師が現れるくらいならどうということもないじゃない。確か、寵児の能力は自分が好き好んだ相手を一人だけ自在に操れるというものでしょう? それなら、鷺森君と二人で何とか出来るわ」
「そこだ。そこに俺がお前を呼んだ理由がある」
潤は虚空を指さしてそう言った。彼の表情はこれまでにないくらい険しい顔をしている。
流石に詩穂も只事ではないと思い、黙って潤の話に耳を傾けた。
「零が中学時代、俺たちと同じように活動をしていてある女子と組んでいたことは知っているだろう?」
「ええ。その人に裏切られたから、今はもう誰かと組む気がないのでしょう?」
「そうだ。零を裏切ったそいつは秋津千佳というが、寵児が今、その『寵愛』を向けている相手が千佳なんだ」
「……それで?」
「わからないのか? 千佳は零にとってトラウマそのものだ。今までも俺は零に黒山の手助けはやめろと言ってきたが、今回ばかりは本気で巻き込むのをやめてほしい」
「昔は昔、今は今。鷺森君にとっても一歩踏みだせるチャンスだと私は思うけど? もし千佳に勝つことが出来ればトラウマを克服して、かつてのように重度の中二病患者と戦える。私としては、巻き込む理由の方があるのだけれど」
「それが失敗して心の傷がもっと深くなったらどうする? お前はその責任が取れるのか?」
潤の脳裏には千佳に裏切られた零の絶望し切った顔が思い起こされていた。完全に塞ぎ込んだ零がここまで回復したのは時間の経過もあるが、一生懸命励ましてきたこともある。
前回は立ち直れた。でも今回は立ち直れなくなるかもしれない。幼馴染である潤はどうしてもそれを回避したかった。
潤は嫌いな人間を前に頭を下げる。
「この通りだ、どうか零を巻き込まないでくれ」
「…………!」
詩穂はまさか潤が頭を下げてくるとは思っていなかったので目を見開いて驚いた。
とはいえ、だからといって詩穂の考えは変わらない。
「私はやはり、しっかり立ち向かってトラウマを克服していくべきだと思うわ。でも、鷺森君の心が再び傷付いて落ち込んでしまわないよう、出来るだけの配慮をするわ」
「それでは駄目だ! 黒山!!」
「話は終わりね。私は失礼するわ」
「黒山!」
詩穂は漆黒の帯を使って空に浮かび上がる。こうなってしまえば潤にも追うことが出来ない。
しかし、彼女は自身の言った言葉に自己嫌悪を感じていた。零にはトラウマの克服を促そうとしているくせに自分は父親に対して歩み寄る勇気がない。それも全ては母である詩織の父や親友である真悠が透夜のことを目の敵にしているということが大きい。きっと、詩穂が自ら両親の仲を取り持とうとすれば、様々な人から怒られることに違いはないだろう。
だからといって、今回の件に零を巻き込まないという選択肢はない。早速この話を零に共有することとした。
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善は急げという言葉があるが、今の詩穂は少しばかりせっかちだったかもしれない。潤と別れてすぐに零を呼び出したのだから。
集合したのは警察署の一室。この話は長瀬にも共有する必要があったからだ。詩穂が到着した時には既に零と長瀬がいた。
「遅かったね、黒山さん。一体、何処から僕を呼び出したのかな?」
「───そんなことより本題に入りましょう。実は愛の伝道師が目撃されたという情報が入ったわ」
零の少しばかり嫌味が込められた質問をスルーしつつすぐに本題を話し出した。それから続きを話そうと思った矢先に間髪入れず、長瀬が口を開いた。
「もしかして、寵児のことかな? それなら監視カメラに写っているのが確認されたよ」
「……話が早いですね。もう被害者が?」
「うん。ただ偶然なのか、奇妙なことに重度の中二病患者だけが狙われているんだけどね」
「え? それなら放っておいていいのでは?」
零がふと思ったことを口にする。重度の中二病患者だけが狙われているなら、それは潤や詩穂とやっていることが変わらない。重度の中二病患者による一般人への被害が少なくなるなら、それはそれで良いのではないかと零は考えたのだ。
しかし、長瀬が首を横に振った。
「いや、それがそうも言ってられないんだ。まず、被害に遭った重度の中二病患者は病気そのものの治療を始める前に怪我の治療から始めなければならない。それほどまでに大きな怪我を負わされているということ。そして狙っている相手に見境ないということだ。黒山さんや君の友達である神田川君も勿論のこと、鷺森君自身も狙われる可能性があるということだ」
「成程。それは今までの伝道師達と異なって、かなり厄介ですね」
恋悟や友香はまだ狙う対象が定まっていたので短期間での件数はそこまで多くなかった。しかし、今回の寵児は下手すると世間的にも大事件になりかねない。
「ところで、その寵児という人はそれ程までに強いんですか?」
零は長瀬に対して質問したつもりだったが、即座に答えたのは詩穂だった。
「いいえ。寵児そのものに戦闘力は無いわ。自分の好き好んだ相手を一人だけ自在に操ることが出来るというものよ」
「ということは、寵児と一緒にいる人がかなり強いということなんだね」
「ええ。私も能力の詳細は知らないけれど……」
詩穂はそこまでで一旦発言を止め、じっと零を見る。急に黙って見つめられた零は何だか居心地が悪く感じた。
「えっと、何かな。黒山さん?」
「……いいえ。長瀬さん、一緒にいる人の映像はあるかしら?」
長瀬は少し困った顔で頷いた。
「あることにはあるけど、流石に映像そのものは見せられないな。可能な限り解像度を上げた写真なら」
「それで大丈夫です。お願いできますか?」
「うん、わかった」
長瀬は一度部屋を後にして写真を取りにいく。その間、詩穂は一言も話すことなく黙っているので、零も黙ってSNSのメッセージを返すなどして待っていると、すぐに長瀬は帰ってきて机の上に2枚の写真を置いた。
「男の方が寵児だね。それから隣にいる人が実行犯」
寵児の見た目はお世辞にも好印象とは言えなかった。20代前半の若い男であり、一言でいえば「チンピラ」という表現がしっくりくるだろう。
一方、女の方は制服を着た女子高生だった。ブレザーとスカートだが、その足は黒いタイツを履いていて黒い。
「───長瀬さん。僕、この実行犯が誰なのか知っています」
「え、本当かい? 近隣の学校だから、身元はわかっているんだけど……」
「千佳ですよね。翡翠大学附属の」
「ああ、うん。秋津千佳……母子家庭で、しばらく家に帰っておらず行方不明のような状態だってことが判明した。こう言っちゃあれだけど、お母さんはあまり娘に関心がないな」
「そうですね。千佳は不満を言ってませんでしたが、そんな家庭環境が人格形成に影響しているのは否定できないと思います」
それを語る零は意外にも怒りではなく少し悲しみを感じるような表情だった。確かに千佳は零を裏切った張本人だが、最初の出会いは千佳が手を差し伸べてくれたのだから。
「黒山さん、千佳に辿り着くまでは協力してもいいけど、出来ることなら僕は二度と千佳と関わりたくない。今回ばかりは潤を連れていって協力した方がいい」
「鷺森君には申し訳ないけど、それは出来ないわ。だって神田川君は鷺森君を巻き込むことに反対だもの」
「……うん、そうだろうね。あの時、潤にかなり迷惑掛けちゃったし。だけど僕は千佳の前には立ちたくない」
「わかったわ、捜索だけ力を借りるわね」
詩穂は一応それで納得したように振る舞った。二人を発見してその後どうするかは、その時になってみたいとわからないからだ。