北見家の沙菜
「兄貴にはしばらく会ってないけど、元気かな?」
「あ、はい。杖なしでは歩けませんが、病気もないので元気にしています」
「そうか、それは良かった。北見家は長男以外にとても冷たい家だったが、兄貴だけは優しくしてくれた。長生きしてもらいたいって思うよ」
祖父は沙菜からもらった土産物を自身の横に置くと、沙菜に座るよう促してから自分より腰を下ろした。
沙菜はペコリと一礼してから、促されたまま座布団の上に正座した。
「足、痺れちゃうでしょう? 楽にしたら?」
「いえ、大丈夫です。剣道をやってますし、北見家なので」
「ああ、それもそうか!」
祖父が声を出して笑うと、沙菜も釣られるように小さく笑った。零は道場で一緒に稽古する沙菜を何度も見てきたが、こんな柔らかい表情で笑う姿を見るのは初めてのことだった。
道場での沙菜は「優等生過ぎる」のが零を含めた皆の印象だ。未だに稽古後の清掃などは下っ端である零の仕事だが、それをやっているうちに他の女子達から沙菜に対する悪印象を何度も聞いたことがある。
本人が気にしていないだけなのか、それとも気付いていないだけなのかはわからないが、はっきり言って沙菜は他の女子から好かれていない。委員長気質なところから矢面に立たされることが多々あるが、それは所詮、性格を利用されているだけのことに過ぎない。
そういった実態を知ってしまっているからこそ、零は今この場で沙菜が笑ってくれているのが嬉しかった。
「ところで、北見家の娘が鷺森家当主ではなく、俺に用があるのはどういったことかな?」
「零君のお祖父さんは属性呪符が得意だと祖父から聞きました。ぜひ、属性呪符についてご教授いただきたく」
「属性呪符か。……得手不得手はあっても、使えないわけではないだろう? 今更俺が教えてることでもないと思うが……」
「それがそうでもないんです」
沙菜はそう言って、自身の小さい鞄から一通の手紙を取り出した。そこには宛名に祖父の名前が書かれており、その筆跡を見ただけで祖父は差出人が沙菜の祖父であると把握した。
「この字は兄さんの字だな。相変わらず、癖のある字だ。沙菜ちゃんも読むのに苦労するだろう?」
「ええ、まあ」
お互いが苦笑いでやりとりするのだから、それほどまでに癖のある字だということである。それはさておき、祖父はその手紙を開けてから老眼鏡を掛け、文面に目を通した。
「……成程。つまり、兄さんが属性呪符を苦手としていたばかりに基本しか伝授できていない……それはつまり、ご先祖様方が編み出してきた技達を失うことに繋がる、というわけか」
「はい。お恥ずかしながら」
「うーん……。他ならない兄さんの頼みだし、応えてあげたい気持ちはあるんだけど、呪符の使用は禁止されているし、北見家にはもう足も踏み入れられないからな……」
「北見家としては、お招きしたいと思ってます。それが叶わなければ、お邪魔させていただければと」
「どちらでも構わないけど、一つだけ気になることがある」
「なんでしょうか?」
「北見家は女性当主を許したのかな?」
祖父がその発言をした瞬間、穏やかだった空気が一変した。そもそも祖父の声色が先程までとは異なる。それほどまでに重要な案件のようだ。
「これは、孫の世代である沙菜ちゃんに言っても仕方のないことだけれど、北見家も女性当主である鷺森家を侮辱した家の一つなんだ。沙菜ちゃんがどれだけ優れていたとしても、北見家が女性を当主にするとは思えなくってね」
「……残念ながら仰る通りです。祖父も父も私の努力を評価してくれてはいますが、当主になるのは私の弟になるでしょう」
「弟? 沙菜ちゃんには弟がいたのか!?」
「ええ、腹違いではありますが」
「…………」
零にはそこにどんな意図があったのかは全くわからず、純粋に「複雑な家庭」だという認識しかなかった。しかし、鷺森家に婿入りするという形で北見家から追い出された祖父には、それが何を意味しているのか察しがついた。
沙菜の実母は男子を妊娠できなかった。北見家を残していくために沙菜の父は再婚せざるを得なかった。北見家としては、沙菜に次期当主の指南役を命じるつもりだろう。
「事情はわかった。北見家のためと言われると少し引っかかるが、沙菜ちゃんのために一肌脱ぐとしようか」
「……! ありがとうございます!」
沙菜は心底嬉しそうだった。今後、剣道の稽古がない休みの日に鷺森家で訓練を行なうこととなった。
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祖父と沙菜の会話が終わり、沙菜が鷺森家を後にしようと廊下を歩いていたら、たまたま廊下を歩きていた弓美と鉢合わせた。
「えっ?」
沙菜は弓美を前にして鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。彼女は零が一人っ子であることを知っているから、同年代の女子がここにいるということに驚いたのだ。
「こんにちは」
「あ、ええ、こんにちは」
何事もなかったかのように弓美が挨拶をする。それがとても上品なので思わず挨拶を返した。
「えっと、鷺森。どういうこと?」
「ん? ああ、この人は弓美さんといって、本家からうちに来たんだ。一応、うちの次期当主って感じかな?」
「……確かに、鷺森家は代々女性当主だって祖父から聞いてるけど、鷺森は結婚するってこと?」
「いや、僕はそこまで考えていないよ。弓美さんがうちを継ぐことに反対はしないけど、結婚する気もないんだ」
「…………」
結婚することを真っ向から否定されるのは、それが例え家に決められたものだといえども心が傷付かないわけではない。沙菜からすれば、零はかなり無神経なことを口にしたと言える。弓美の反応を見てからコメントしようと思ったが、彼女は何を思っているのかわからないほどに無表情だった。
「鷺森。少し発言が無神経だと思うけど。……すみません、お邪魔しました」
沙菜は弓美に向かってぺこりとお辞儀した後、横を通り抜けて玄関へと向かった。沙菜もいずれは親が決めた相手と結婚しなければならないだろう。全く一緒だとは言えないが、境遇が似通った弓美に対して沙菜は少しばかり同情を覚えた。
沙菜は鷺森家を後にし、帰ろうとするがそこに零が一緒にいる。一応、駅までは送っていくつもりなのだ。
「鷺森。一応確認なんだけど、本家はどうなるの?」
「本家は弓美さんの姉である梓さんが既に当主となってるよ。梓さんは弓美さんと双子で、僕達の同い年なんだ」
「同い年? 16歳で当主をやってるってこと?」
「うん」
口にはしなかったものの、沙菜は十分に伝わるほど顔で「やば……」と訴えていた。それほどまでに梓の力が強いということでもあるが、16歳の少女に重い役をやらせることに対しても異常性を感じる。
「けど、それがどうして双子の妹を追い出すことに繋がる?」
「双子の妹は忌み子として殺される運命にあるんだって。本家に行った時、原初の忌み子が以降の忌み子が抱えた負の感情を糧にして襲ってきたんだ。それも何とか撃退したけど……」
思えば、原初の忌み子は零に危険が迫っていることを教えてくれた。おそらく、弓美が鷺森家に来る未来が無ければ、下手すると零はここに戻ってこれなかったかもしれない。
「なんか、壮絶ね。それに比べたら北見家はまだマシな気がしてきたわ」
沙菜自身、北見家にうんざりすることも少なくはない。たまたま鍛錬が好きで、たまたま使命感の強い性格だったというだけで、そうでなければ北見の呪符術を極めようと微塵も思わず見せかけの努力になっていたことだろう。
駅に着くと、珍しく沙菜は深々と頭を下げて零にお礼を言った。零が仲介してくれたからこそ、北見の術が衰退せずに済む未来が見えた。それは北見家にとって、大きな収穫だったのだ。
それからすぐに沙菜は改札に吸い込まれていき、零の視界から消えてしまった。