弓美、鷺森家へ
「急な決定でご迷惑をお掛けしますが、よろしくお願いします」
弓美は荷物を持ったまま、束ねられた長い髪を揺らして律儀にお辞儀をした。立ち止まった鷺森家の三人もそれに合わせてお辞儀を返す。
お互いに頭をあげると、霰は憐れみの表情を僅かに浮かべて弓美に優しく語りかけた。
「そんなにかたくならなくて大丈夫。部屋数はあるから、我が家だと思って過ごしな」
「はい。お世話になります」
弓美が再び恭しくお辞儀をしてから、四人は本家を後にした。弓美を見送らなかった楔と梓に対して、零は「冷たいな」と思ったが、本家からしたらこれが普通なのだろう。弓美を含め、零以外は何事もなかったかのような顔をしていた。
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流石の本家・鷺守であっても他人が予約した新幹線の指定席を横取りするようなことは出来なかった。弓美の分家行きは急遽決まったことなので、指定席を予約しようにも空いているところを取ることしかできず、三人から離れた座席になってしまうということだ。
そのことに対して弓美は「私は一人で大丈夫です」と断りを入れたが、霰が「それではあまりに不憫だ」と言って聞かないので、零が弓美と一緒に自由席へ向かう形となった。
新幹線のホームで零は祖父母と別れ、自由席の車両が止まる乗り口に弓美と向かう。他の乗客と同じように並び、零と弓美は新幹線が到着するのを待った。
「ごめん、零」
「え?」
弓美に突然謝罪された零は思わず聞き返してしまった。といっても、ちゃんと謝罪は聞こえている。零が咄嗟に気になったのは謝罪の意図だ。
「ごめん」
「いや、えっと。どうして謝るの?」
「それは、急にお邪魔することになるし、新幹線は自由席になるし……」
「ああ、そういうこと。でも弓美さんだって被害者みたいなもんじゃない?」
「被害者?」
「うん。だって、弓美さんだって本家での生活があったわけでしょ? 友達とかだっていただろうに、ちゃんと挨拶も出来ずに遠く離れる。それってなんか嫌じゃん? あ、でも学校とかどうするんだろ?」
「───」
零が弓美の顔を見ると、弓美はポカンとした顔をしていた。弓美にとって零の発言は思っても口にしない感情そのものだった。
「零って、あんまり鷺森家って感じしないね」
「え? そう?」
「うん。なんか感じ方が一般の人と一緒」
弓美が小さく笑いながらそう言うので、少しばかり零は馬鹿にされたような気がした。しかし悪い気はしないので特に反論もない。
「でもだって、弓美さんだって嫌でしょ?」
「嫌というか、何と言うか……。そもそも生きることさえ許されないはずの私に生きる価値を与えてくれたのだから」
「生きることが許されない?」
それは弓美が歴代で言うところの「忌み子」に当てはまるからだ。しかし、零はそんな風習など気にする価値がないと思っていた。むしろ「悪き風習」と言えるほどであるのに、撤廃しようとせず拘るほうが理解できない。
「うん。でもこれで……私が鷺森家に入ることで私に生きている価値が出来るのだから、母や姉さんも喜んでいるはず」
「…………」
それが、本当に弓美の生きるモチベーションとなる理由であるなら零にそれを否定する権利はない。無論、弓美と結婚するかどうかは別としてだ。
それでも───。
「生きる意味とか価値ってさ、誰かに決められなきゃならないものなのかな?」
「え?」
「弓美さんは今日から実家を離れるわけだけど、本家に定められた理由じゃなくて、弓美さんが自分で決められる生きる意味みたいなのを見つけるべきだよ」
弓美には零の言っていることが理解できなかった。むしろ、自分の考え……今回の急な決定を受け入れるための建前を否定されたようでムッとなったほどである。
それからは特に話すこともなく、新幹線に乗り込んだ。幸い京都で降りる人が多く、二人並んでではあるが座ることが出来た。
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弓美が使う部屋は、かつて澪が使っていた部屋をあてがった。それは霰の未練とも言えるのか、澪の部屋は殆ど家を出て行った直後の状態になっている。ある程度は捨てていくことも必要になるのだろうが、特にこだわりを持たない弓美は、澪が使っていた家具をそのまま使うことにした。ちなみに零が使っている部屋は露が使っていた部屋である。
女子の部屋だということもあって、案内や打ち合わせをしたのは霰で零は全く関わっていない。もとより霰がこまめに掃除していたこともあって、特に零はやることがなかった。
零は今回の旅による疲れを癒すべく、二日ぶりとなる自分のベッドで仰向けになった。スマートフォンを取り出し、帰宅した旨と現在の状況を亜梨沙に送った。
正直なところ、弓美が同居することになったことを伝えるかどうかは悩んだ。しかし、後ろめたさがあると今後の関係にも影響するだろうと思い、隠すことなく送った。
どう返信が来るか零はヒヤヒヤしている。こんな気持ちを味わったのは高校受験の結果待ち以来だ。返信が来るにも時間が掛かるだろうから、その間に何かやってしまおうと思って立ち上がった。
その直後、ベッドに置いたスマートフォンが鳴ったので思わず零はビクッとした。画面に表示された名前は言うまでもなく古戸亜梨沙である。零は焦ってスマートフォンを手に取り通話に応じる。
「もしもし」
『零くん、一体どういうこと!?』
「どういうことも何も、文字で送った通りだよ」
『えっと、何!? 親戚!?』
どうやら亜梨沙は詳細を読んでいないらしい。それもそのはず、同い年の女の子が一緒に暮らすことになったという報告だけでも亜梨沙にとって……いや、年頃の男女にとっては衝撃的な報告だろう。
手間になってしまうが、仕方なく零は文字で送った内容を口頭でも亜梨沙に説明した。所々で亜梨沙は驚く反応を示していたが、最後まで説明を聞いていた。
『なんか……わかったようなわかってないような?』
「亜梨沙さんの気持ちはわかるよ。僕自身だって受け止めきれない部分はあるからね」
『それで、零くんはその子と結婚する気なの?』
「別に僕はその気があるわけじゃないよ。場合によっては、弓美さんを養女にすればいいだけだろうし」
『ともかく、休みが明けたら緊急会議! 一つ屋根の下で暮らす男女に何もないわけがないんだから、零くんは禁欲しなきゃだめだよ!?』
「き、禁欲!?」
話の方向性が随分とよくわからない方向へ向かってしまったようだ。亜梨沙としても「家庭の事情」であるならば、とやかく言う筋合いはないということを心得ている。しかし、同時に零が本家の言いなりになって弓美と関係性を構築していくのは嫌で、そこに対して色々言う権利はあるのだと思っている。
結局、零は亜梨沙と「休み明けに緊急会議を開くこと」と「弓美に対して発情しないこと」の二つを約束させられ、その通話はお開きとなった。
ようやく亜梨沙から解放されたかと思った直後、弓美が部屋に顔を出した。
「───零」
「わっ、えっ、どうしたの!?」
「霰さんが夕食だから呼んできてって」
「ああ、うん。そうなんだ? 今行くよ」
零はそのまま弓美と一緒に下へ降りて行き、一緒に夕飯を食べる。元々、鷺森家の食卓には机が一つに対して椅子が四つある。今までは零の隣が空席だったので、そこに弓美が座った。
弓美は食事を少しずつ、チマチマと食べる。その所作は美しく、淑女そのものであった。その姿を見て特に霰が感嘆していた。
「はー。当主を継ぐ者でなくとも所作の教育は大したもんだ。楔は弓美に対しても教育を施してたのか?」
霰の質問に対し、弓美は一度箸を置くと僅かに顔を赤らめて回答した。
「はい……。お母さんは、そういう育て方しか知らないと申していました……」
「なるほどな。楔はとても厳しい性格をしているから、自他ともに厳しくすることしか知らなかったんだな」
「はい。でも、お母さんは優しかったです」
顔を赤らめながら語る弓美は誰から見ても可愛く可憐であった。今まで日陰に立たされていたのが勿体無いくらいの華やかさである。楔と梓の急な判断も、強ち無理な内容ではなかったのかもしれないと霰は思った。