人命第一
「そ、そんな……」
鷺森夫妻ですら弓美が倒れた原因を突き止められないと知り、楔は項垂れた。彼女は当主になって以来、周りからは「性格がきつくなった」と陰で言われていたが、それでも娘たちの前では一人の母親。当主である梓だけでなく、もう一人の娘である弓美も平等に深く愛しているのだ。
一方、零は少し不思議に思っていた。原因不明に倒れたのであれば、普通は救急車と場合によっては警察を呼ぶはずだ。それにも関わらず、この家は誰一人として外部に助けを求めようとしない。
だから零は祖母へ提案するように「救急車……」と呟いた。その瞬間、楔が血相を変えて零を睨みつけて怒鳴った。
「救急車ですって? 歴史あるこの鷺守家がそんな情けないこと出来るものですか!」
「情けない? 弓美さんがこんな状態になってるんですよ!?」
思わず零もカッとなって言い返した。言い返してしまったと自覚したのは、既に言い返した直後のことでこの行動には流石の梓も驚いていた。
「黙りなさい! 次期当主の座を投げ捨てた者の子に、鷺守の気高さがわかるものですか! 病気であるのならともかく、このような得体の知れない状況で呼ぶなど、家の恥です!」
「弓美さんの命より、家の立場が大事ですか!」
「この家の当主は梓です。先代として……母として、梓の顔に泥を塗るようなことなど出来ません! それがたとえ、弓美の命が犠牲になるとしても……」
楔は怒り狂って言葉を発していたが、それでも弓美に対する心配が無くなったわけではない。梓の母である立場と、弓美の母である立場がジレンマとなり、頭が混乱してきた楔は涙を流していた。
彼女の涙が弓美の頬に落ちても目覚めることはない。母の涙だけで全てが解決する程、世の中は甘くない。
零はこれ以上、楔に言葉を返すようなことはしなかった。彼女が迷いながらも自分の使命を全うすべく零に怒ったのだと気付いたからだ。それが本心であって本心でないと悟った零は深く溜め息を吐いた。
「婆ちゃん」
「ん?」
「ごめん。やっぱり、人命第一だと思う」
「……そうだな。それでこそ、我が家の孫だ」
祖母は零が何かしら力を使うのだと気付いた。この行動は今まで何とか隠し通してきた努力を水の泡にする行為となるが、それでも人命には代えられない。霰はむしろ、自分の都合より他者の命を優先した孫の決断を誇らしく思った。
零は祖母と場所を入れ替え、弓美の隣にしゃがんだ。そしてズボンのポケットからピンク色の携帯電話を取り出した。
「何です、それ。何をするつもり?」
普通に考えて、零の行動は意図が読めない奇怪なものだ。それで救急車や警察を呼ぶ可能性だって無きにしも非ずだが、楔から見ても「今どき、高校生なのにガラケーで電話をする」なんて考えられなかった。
零は楔の質問に答えることなく、携帯電話を操作して「ある能力」を呼び出した。それはストックして読み込む能力とは少し異なり、消費されないタイプの能力だった。
読み込みを終えると、ピンク色の携帯電話は白く光を放ち、そして虫眼鏡へと姿を変えた。目の前で起こった信じがたい現象に誰もが言葉を失い、零の行動をただ見ていることしかできなかった。
虫眼鏡を通して弓美の状態を見る。この虫眼鏡は本来「過去の行動を盗み見る」という能力だった。それを零が吸収したところ姿が変わってしまい「人体に起こった変化の履歴を見る」という能力となって零に定着した。これはある意味、重度の中二病による被害を見透かすことの出来る能力ではあるが、詩穂と一緒にいる間は使わなくてもいい能力となっていた。
「…………!」
零は弓美の直近に起こった変化履歴を見て驚いた。彼女は間違いなく呪われている。しかしそれは、祖父母でも見透かさなかったように霊的な力によるものではない。重度の中二病による能力で「彼女の精神が蝕まれていた」のである。このままでは、弓美の命に別状はなくとも、心は失われてしまうだろう。
だが、零にはこれに対処する能力を持ち合わせていた。零は虫眼鏡の姿から刀の姿へと変化させ、それを弓美に向けた。
「それは……《夢切離》……? いや、似てるけれど違う?」
そう呟いたのはやはり楔だった。彼女は鷺森家に伝わる刀の存在を知っており、見たことすらあるのだ。そのことに零は少し感心したが、あくまでもこれは模倣した劣化品とも言える《現「うつつ」》。しかし、この刀には《夢切離》にはない能力を持っている。
零は優しくその刀を振り下ろし、弓美の精神を蝕む虫のような呪いを切り捨てた。蝕む呪いは断末魔すらあげることなく消え去り、同時に弓美が目を開けた。
「あ……れ、お母……さん?」
弓美は自分に何が起こったのか全くわかっていないようだ。母の只事ではない表情に驚きつつも、石のように重くなった自分の身体が思うように動かなくて困惑した。
「ああ、弓美……! 良かった……!」
楔は思わず弓美を抱き上げた。零からは楔がどんな表情をしていたのかわからなかったが、少なくとも久々に母に抱擁された弓美は優しい微笑みで目を瞑っていた。
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弓美は大事を見て、そのまま自室で休むこととなった。このようなことがあったのだから、流石に楔もその間は弓美に付き添うつもりならしい。梓の指示で使用人や分家は弓美の部屋から離れていき、一同は大広間で待機していた。
その間、零は少しばかり他の分家から功績を讃えられていたが、そこには謎もある。これもまた梓の命令により零は隔離され、零の部屋で昨晩のように梓と二人きりになっていた。
しかし、その雰囲気は昨晩の艶やかさがない。今の彼女は本家当主の顔をしていた。
「零さん、聞きたいことがあります」
「……答えられる範囲なら」
いくら梓が相手とはいえ、零は鷺森の後継ではないので梓の言うことを聞く義務はない。どんなに色々聞かれようと、能力の根本になる部分を話すつもりは毛頭なかった。
「ではまず、弓美の異変を見破ったあれは何ですか? 私達も大概常識から外れた一族ではありますが、ガラケーが姿を変えるような非物理的なことは知りません」
「…………」
この質問は答えられないもの。零は何も言うことなく、ただ射抜くように梓の目を見ている。
一向に答えが返ってこないので、梓は質問を変えた。
「では次に、弓美を襲った力の正体は何ですか?」
「人が描いた理想を叶えるべく、少しばかり形を変えてめざめる能力によるもの。僕達はそれを重度の中二病と呼んでる」
「重度の中二病……? 私には詳細がわかりませんが、少なくとも中二病は病気ではなかったはずですが?」
「普通の中二病……ならね。それが悪化して、まるで超能力のような力が使えちゃうから重度。今や精神病のように扱われているし、治療法だってちゃんとあるよ」
「俄かには信じがたい話ですが……。それによって、弓美の精神が蝕まれていたと?」
「うん。あのままでは、弓美さんの心が失われていただろうね」
梓にとって、重度の中二病という話はかなりショックだった。彼女も鷺守の当主として普通の人とは異なる能力を持つことに誇りを抱いていた。
しかし、零の話ではその病気に罹ってしまうだけで、特別側の人間になれてしまうということだ。それはつまり、自分の特異性を脅かす事実だ。
梓は静かに視線を下へと移した。それは少し、項垂れているようにも見える。
「それで、誰なんですか?」
「ん?」
「誰が弓美に呪いを掛けたのですか?」
「流石にそこまでは、今の段階だとわからない。だけど、少なくとも弓美さんの精神を狙った犯行だ。相手は間違いなく、弓美さんに何かしら憎悪に近い感情を持っているのだろうね」
「そんな……そんなわけ!」
双子の姉である梓は妹である弓美の優しさと可憐さを一番知っている。梓からすれば、妹は自分よりもっと清楚で美しい存在だ。そんな弓美が憎悪を向けられるなどあり得ないと思った。彼女は珍しく、犯人に対して怒りを募らせていた。