分家の受験生・鷺盛焔
「皆様、あけましておめでとうございます」
本家の現当主である梓の凛とした声が響く。いや、響くという表現でさえ無骨かもしれない。それはまるで、雲ひとつない青空のように澄み渡った声だったという方が正しいとさえ思える美しさだったのだ。
しかし、その美しさはすぐに破られる。何故なら挨拶を返さない分家は誰一人としていなかったからだ。8つの分家が全て一斉に挨拶を返すものだから、ここに初めて参加する零は驚き、少しばかり返すタイミングが遅くなってしまった。
「今年もこうして、皆さんのお顔を拝見することが出来て嬉しく思います。ご不幸のお便りもなく、顔を合わせられるのはとても幸福なことです。今宵は新年を無事に迎えられたことをお祝いしつつ、今年一年皆さんと頑張っていけるよう一族の結束を深められる会に出来たらと存じます。それでは皆様、お手元にお飲み物のご用意を」
梓の言葉が終わった直後、給仕の女性達が懐石料理の近くに瓶ビールと瓶の烏龍茶。そして瓶のオレンジジュースを手際よく置いていく。当主である女性達には分家間の威厳があるのか積極的には動かず、むしろ飲み会好きのオヤジと化した伴侶達が飲み物を注ぎあっていた。
一方、零も気を利かせて飲み物を注ごうと目の前に座る女子中学生に話しかけた。
「えっと、お茶とジュース、どっちがいい?」
「お茶で」
「あ、うん。はい」
零は立ち上がって瓶を手に取り、女子中学生のグラスに烏龍茶を注ぐ。ちょうど良いところで注ぐのをやめると、半ば強引に零の手から烏龍茶の瓶を奪い取って、瓶の口を零に向けた。
「あ、どうも」
零は若干恐縮しながらグラスを手に取って烏龍茶を注いでもらう。彼女の所作は教育の賜物なのか慎ましさを感じさせる上品さではあったが、いかんせん愛想は良くなかった。
何だか嫌われているように感じた零ではあるが、そんな零の感情など他所に頃合いを見て、再び梓の声が聞こえた。
「それでは……皆さんのご活躍を期待して、乾杯」
分家の者たちも「乾杯」と言って、グラスを掲げる。しかし、打ち合うことはせず、皆同じような高さでグラスを掲げた後、一口飲んでから拍手をした。
その乾杯は零の知っている乾杯と少し異なっていた。心の中で首を傾けていると、祖父が横から零に声を掛けた。
「コップを打ち合わない乾杯は初めてか?」
「うん。これは何か特別な理由があるの?」
時代と共に少しずつ簡素化しているとはいえ、この家はしきたりやら掟やらが色々あって、現代の一般的な家庭と比較してみるとかなり異質である。この家における一挙手一投足が何かしら意味があるように思えて仕方がない。
しかし、そんな零を見て祖父は笑った。
「いやいや、そんなことはない。実はこれが正しい乾杯の仕方なんだ。お前の想像している乾杯は、もっと気軽に参加できる集まりでやるもので、こういった格式の高い場ではやらないのがマナーだな」
「へえ」
「ふっ、これだけでもお前を連れてきた甲斐はあったと思う。できるだけ側に居てやりたいと思うが、使命を果たさなくちゃならん。お前も気苦労は絶えない夜だと思うが、他の分家とも交流を持つといい」
「ああ、うん。頑張るよ」
祖父は笑顔でそう言ったが、直後に霰と立ち上がって注ぎに回り出した。まずは本家の方から注ぎにいくようで、零は一人取り残されてしまった。
すると、目の前に座っている女子中学生から声を掛けられた。
「一緒には行かないんですか?」
「え?」
零が質問の意図を理解せずにキョトンとしていると、女子中学生は小さく笑って謝罪した。
「いえ、すみません。少し意地悪でしたね。大抵は現当主の夫婦と次期当主が一緒になって本家にお酌するものなんです。特に初めて参加される場合は、次期当主のお披露目という意味で各分家へお酌しに行くものなんですよ」
「そ、そうなんだ。知らなかったよ。まあ、僕は次期当主ってわけじゃないから、置いていかれてるんだろうけど」
「失礼ですが、お名前を伺っても?」
「ああ、僕は鷺森零。君は?」
「私は鷺盛焔。ちょうど受験生です」
最初こそ無愛想な印象があったが、どうやら人見知りしていただけらしい。少しずつ零と打ち解けてきた女子中学生……焔は僅かに笑顔を見せていた。
「えっ、じゃあ僕と一個しか変わらないんだね。僕は鷺守の一族についてよくわからないから、焔さんの苗字が僕と一緒なのかすらわからないんだけど」
「えっと、霰様のお孫さんでしたよね? でしたら、零さんはフォレストの森ですか」
「うん、そうだね」
「私は、盛るという字で鷺盛です。分家なので本家と字が異なるのは理解できますが、少しややこしいですよね」
「確かに。僕は本家でさえややこしいと思った」
零の本音を聞いて焔は思わず大声で笑ってしまっていた。無知故の失礼。自分がやっては必ず両親に怒られてしまうこと間違いなしなので、口が裂けても本家を侮辱するようなことは言えないが、だからこそ零の本音が面白かった。
今この場が本家の賀詞交歓会だということを思い出し、焔は急いで口元を隠した。
「ふふふ、ご、ごめんなさい」
「え? いや、なんかすごくお淑やかな感じがしてたから、こうして素を見せてくれると僕も緊張しないし、助かるよ」
「コホン。それでは私が怒られてしまいますので。最初は何故、男子がこの場にいるのか理解できずに警戒してしまいましたが、零さんは思っていたより気楽な方で安心しました」
「ぐっ……それは少し貶されているような」
「そういうつもりはありませんよ?」
焔という女子は、ある意味でイメージ通りに意地悪なのだと零は感じた。思えば別に珍しいタイプではないのだが、零をいじって楽しんでいるらしい。次期当主という立場上、歳が近くても同級生のように接するわけにはいかないので、零という異端の存在は焔にとってもやり易かった。
焔は何か閃いたかのようにひとつ提案をした。
「そうだ。零さん、折角ですから他の分家の次期当主ともお話をされてはどうでしょう? 私がご紹介しますから、ぜひ」
「ああ、うん。なんかちょっと怖いけど、焔さんが付いていてくれるなら、まだ安心かな」
「決まりですね。次期当主は大抵、後方の方に集まります。本家へのご挨拶は免れませんが、他の分家御当主様との腹の探り合いに巻き込まれるのはごめんですからね」
「へ、へえ……。大人達はそんなことをするんだね……」
「ではグラスを持って行きましょう。他の皆さんもソワソワしていますし」
「うん、わかった」
零は焔に言われるがまま、グラスを持って出入り口付近へと歩いていった。
すると、その行動に気付いた他の次期当主達もグラスを持って集まりだす。一見、この行動は大人達に注意されそうでもあるが、見方によっては賀詞交換会の目的である「一族の結束を深める」に合致している。立場役割を認識している大人達だからこそ、次世代を担う者達が仲良くする姿を止められるはずがなかった。
集まりだすと、皆口を揃えたかのように「明けましておめでとうございます」と言う。次期当主として振る舞いは正さなくてはならないが、心の底では、同世代が集まれるこの機会は嬉しいものだった。
「皆さん、ご紹介します。鷺森霰様のお孫さんである零さんです」
「あ、どうも。明けましておめでとうございます」
梓が挨拶した時のように、零の挨拶にも返してくれる。あまりに零が間抜けな雰囲気を出すので、他の次期当主達も焔と同じように毒気を抜かれた。
「零さんは、澪様の後継なのですか?」
やはり皆、気になるのはそこらしい。焔には説明したことだが、手間を惜しむことなく零は素直に否定をする。しかしその素直には少しばかり嘘をブレンドしており、彼女達に「自分は何の能力も持たない普通の高校生」であるということも付け足しておいてある。