追憶「ある母の後悔」
親は子の幸せを願う。
しかしそれは、ただ子の選択を肯定すればいいという意味でない。また否定して自分の考え通りに導けばいいというわけでもない。
所詮、幸福の答えは選んだ先でしかわからない。
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零の祖母、霰は自室で座布団の上に座り、目を瞑って考え事をしていた。
孫や夫の前では鷺森家の当主として振る舞う彼女ではあるが、自室で一人になった時は常に後悔をしている。
霰の娘であり、零にとって母である澪。彼女は夫と息子の家族三人で移動している最中、トラックに跳ねられて命を落としてしまった。
現場は見通しが悪いわけではない横断歩道だった。当日は雨が降っていたことを考えても、大人二人が傘を刺して歩いていたのだから気付けないわけではない。
まるで故意とも思えるような事故ではあったが、運転手はブレーキの誤作動を主張。年齢も40代であったから踏み間違いは考えにくい。しかし、トラックを調べてみても異常は何も見つからなかった。結局、業務上過失致死傷罪が適用された。
当時、物心がついていた少年を残して両親が死んでしまった悲惨な事故として報道されたこともある。霰は周りからお悔やみの言葉を沢山頂いたが、結局のところ行き着く先は一つである。
思い返せばあの時、我が娘を止めていれば……と、追憶した。
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鷺森家の当主は代々女性が継いでいる。それは本家である鷺守家も同じことだが、霰もその例外ではなかった。当主としての責務を全うしながらも彼女が妊娠した際、女の子だとわかった時には本家や他の分家も大変喜んでいた。
しかし、霰の本音としては「無理に継がせても良いのだろうか」というところだ。何代か前であれば、そんな考えを口に出そうものなら頬を引っ叩かれること間違いないだろうが、霰の父親である露は霰を渋々当主にさせたという節がある。
その考えは霰本人にも受け継がれており、心のどこかでは継承を拒否する権利があってもいいのではないかと思っているが、いざ自分が当主としての責務を全うする中では「継承すべき」という考えもある。
もし仮に、澪の妹が生まれたとしたならその子に継がせる選択肢もあったのかもしれない。ただ残念なことに、霰には澪以外の子宝に恵まれることはなかった。
こうなってしまえば、鷺森家としては澪に継いでもらうしかない。娘の自由を尊重したい霰ではあるが、いずれ「この世ならざるもの」と戦うに身体が限界を迎えるであろうことは若い時分から既にわかっている。戦う者がいなくなってしまっては、この辺りが霊障でいっぱいとなり、とても人が住めるような地域ではなくなってしまうだろう。
それを思えば……鷺森家に与えられた社会的責務を考えれば澪の継承は必須。歴代よりも教育に揺らぎがありながらも、澪は鷺森家の当主になれるだけの力を身につけていった。
さて、澪が誕生してから鷺森の教育を施す上で霰は心底驚いたことがあった。
それは澪の霊力である。彼女の能力はもしかすると鷺森家史上最強ともいうべき霊力が強かった。鷺森家は代々伝わる霊刀《夢切離》を用いてこの世ならざるものと戦うが、澪の場合は霊力を右手に集中させて手刀だけで葬る姿さえ見られた。それは前代未聞の力であり、母である霰は勿論のこと、本家である鷺守家の次代当主(現在は当主)である鷺守梓でさえ、羨望した程である。澪が本家で披露したその力は梓の記憶にずっと残っている。
誰もが澪の鷺森家継承は必然だと思っていた。鷺森家の力そのものは澪に継承されている。あとは正式に当主となるだけだったのだが、それよりも早く、澪は自身の両親に大して宣言したのである。
「お母さん。私、この家は継がないから」
「……は?」
それは当主の部屋で起こったことだ。霰はいつも通りに座り、夫は端に座って控えている。「大事な話がある」と言ってこの場を設けさせ、霰の正面に座った澪ははっきりと告げた。
殆ど寝耳に水であった霰は思わずそんな反応をしてしまった。澪は自分の才覚と責務を自覚していると思い込んでいたからだ。
「私は結婚してこの家を出ていく。嫁に行くつもりだから」
「待ちなさい澪。お前、何を言ってるんだ? お前程の才覚を持った者が鷺森を継ぐのは必然。それがなくても、この家の子供はお前だけだ。お前がいなくなってしまえば誰が鷺森を守る?」
「うちには他の分家だっているし、本家だってある。別にここの鷺森家が無くなったからといって問題はないでしょ? この世ならざるものとの戦いは続けるわけだし」
「それは愚かな考えだ。鷺森の名前と才覚は慎重に選ばれた遺伝子との交わりで継承されていく。その力を後世に残していくには、結婚相手が誰でもいいというわけではないんだ」
実際のところ、代々霊能力のある家から婿養子をもらっているのが鷺森家のやり方だ。時に露のような例外もあるが、それでも結婚相手は霊能力がある一族から嫁をもらっている。霰の夫も、呪符による祓で名高いとある家から婿養子で鷺森家にやってきた。鷺森家の名前と力を残していくために澪の自由恋愛を否定しなくてはならなかった。
「しかし、お前が結婚相手に選んだ者が霊能力者であれば別だ。それはどうなんだ?」
「普通の人に決まってるでしょ。私は好きな人と結婚する。お見合いで結婚なんて出来ない」
「ならん」
「お母さん!」
「ならんと言ったらならん。それほどまでの力がありながら、何故役目を自覚出来ない? それに結婚は決められていようが自由であろうが行き着く先は変わらん。家族となってしまえば、そんなに悪いものではない」
「古臭い考えね。お爺ちゃんだって、大叔母さんを当主にしたこと後悔してたじゃん。それを見てたお母さんだって思うところがあったでしょ?」
「…………」
確かに澪の言う通りではある。露は妹であり当主となった雫を失って激しく後悔していた。本音を言えば、霰を当主にすることだって避けたかったが、露の母がそれを許さない。だから霰が継承したわけなのだが、露はこの世を去る前に雫の生き写しである澪に「後悔していた」という話をこっそりしていたのだ。
露がいよいよこの世を去る際、澪を雫と誤認識したことによって出てきた懺悔の言葉は、聞いたものの耳にずっと残っている。それ故に澪の考えを否定する霰の言葉は少しばかり弱かったのだ。
それでも、霰は当主としての責務を全うしなければならない。
「澪。何度も言うが、お前はここで当主となって婿を取れ。この家と力を後世に残すんだ。婿のことはこちらで考える。今はこの世ならざるものを葬ることだけを考えろ」
「残念ね、お母さん。どうやら相容れないみたい」
澪はそう言って立ち上がった。一応、家の決まりに従って当主に一礼してから踵を返し、当主の部屋を後にする。
「待ちなさい、澪。話はまだ終わっとらん」
「…………」
澪は立ち止まることなく、当主の部屋を後にした。両親に絶望した澪はこの後すぐに家から出ていき、交際相手と同居する中でやがて結婚した。
反対はしたものの、霰は澪の結婚を素直に祝福した。澪はその力を存分に発揮し、この世ならざるものをしっかりと葬って責務を全うしたからだ。澪はただ「好きな人と結婚して嫁に行くことを許してほしい」と言っていただけで、鷺森家の責務を否定することはなかったのだ。
しかし、その裏で霰は本家や他の分家からは非難されていた。いくら時代が自由恋愛を許したからといって由緒ある家までそれを許してはならない。澪が嫁に行くことをはっきり止めなかった鷺森家は「弛んでいる」と言われても何も言い返せなかった。
そんな中、澪が子を授かり生まれてきたのが零だった。鷺森家を出て行った澪が子を産んだとて、最早外の人間となってしまった澪を鷺森家が表立って祝福するわけにはいかない。結局、霰と澪の確執は解消されることなく、ついにあの事故が起こってしまった。
零の引き取りは実際のところそこまで揉めることはなかった。下手すると施設に入れる選択肢もあったぐらいだったが、鷺森家にとって零を引き取ることはむしろ都合が良いまである。零がいずれ結婚して嫁を貰い、女の子を誕生させれば鷺森家の継承者が復活するからだ。
ただ一つ、霰にとって想定外のことがあったとすれば、それは零が残留思念との親和性を持ち合わせていたことだ。最終的にそれは「鷺森家の模倣」とまでしかいかなかったが、霰の中で「男子が当主となれる可能性」が生まれたきっかけでもあった。
ただいずれにしても、澪を失ってしまったことに変わりはない。澪が「嫁に行く」と言った時、強く止めてさえいれば澪の命が失われることはなく、鷺森家は安泰だっただろう。
ただそれは、同時に零が生まれてこない選択肢を支持するということでもある。それはつまり、零の前でこの後悔を口にすれば零という存在を否定してしまうということになってしまいかねない。
だから霰は自室で一人きりである時のみ「あの時こうしてれば良かった」と後悔し続けるのだ。