咲枝の決着
椅子に座り膝掛けを膝にかけた老婆、旧姓・長谷川咲枝は静かに昔のことを語り出す。今さっきまで敵対していたはずだが、亜梨沙は咲枝が日が落ちた寒空の下で無理をしていないか心配になっていた。
しかし、そんな心配を他所に老婆は語る。
「その昔、中学生だった私は同じ学年にいた地嶋に恋をした。地嶋は私のことを思ってくれていたようで、他の学生に隠れて一緒にいた時間はとても幸せだった」
「………」
「いや、確か向こうから私に声を掛けてきたんだ。地嶋は恋をしている相手を前にしても緊張しない肝が据わる男子だった。それまで私は恋なんて知らなくて、男子を意識することなかったのに、地嶋が声をかけてきてから、どうも気になってしまってな。気付けばお付き合いする間柄となっていた」
老婆は語り続ける。亜梨沙は純粋にその話が気になって耳や意識が傾いているが、一方で詩穂は予期せぬ襲撃がないか警戒してきた。零の仕事を疑うわけではないが、最悪の場合は失敗して落武者がここに戻ってくる可能性もある。それらを含めて警戒していると、父である透夜と長瀬が静かにこちらへやってきた。
長瀬の目的は咲枝の逮捕だが、話の邪魔をする気はないらしい。二人は咲枝の話を遮ることなく、まずは耳を傾けた。
「中学も卒業になる頃だった。私は進学できなかったが、地嶋は東京の学校に行くと言った。確か、親の紹介だったはずだ。一度別れることとなるが、地嶋は私に必ず迎えに行くと言ってくれた」
「………」
「でも、時代は待ってくれなかった。私は意を決して父に地嶋を待ち続けると言ったが、聞き入れてくれなかった。それもそうだ、あまりに身分が違い過ぎる。結局私は好きでもない男と結婚した」
「…………」
老婆の話は一度止まる。誰かが何かをコメントするべきなのだろうが何も出てこない。黒山親子はそもそもそういったことができるような気を遣える人種ではないし、長瀬も場違いなことを言いかねない。ともなれば、ここでまともな発言が出来るであろう人物は亜梨沙しかいなかった。
しかし、その亜梨沙も正直なところ反応に困った。初恋の相手と最後まで添い遂げられないのは悲しいことではあるが、そこで何故、地嶋グループが恨まれるのか理解できない。
「えっと……。それって、お婆さんにとって不幸だったんですか? お孫さんもいるくらいだし……」
「うん……」
それは肯定というより相槌に近かった。鼻から息を吐くようにして出た相槌は肯定とも否定とも捉えられない微妙な反応ではあったが、それについては咲枝がすぐに答えた。
「子を育て、孫の顔まで見れたことは幸せよ。今思えば楽しかったことも多かった。でも私は待っていたんだ、地嶋が迎えに来てくれるのを。全てを捨てて一緒に生きていく覚悟もあった」
咲枝は思い出す。若かった頃、嫁ぎ先でかなり気を遣って生きたことや、家族を支えていく苦しさを。それでも泣くことは許されず弱音を吐くことさえ出来ない。そんな時、どれだけ恋した男のことを思い出したか。
「必ず迎えにいく」と言った地嶋の若かりし顔を今も忘れていない。続く苦しみの闇を照らさんとする小さな光。それを掴もうと手を伸ばすが、いつも掴むことが出来ない。いつしかその光は見えなくなっていき、やがて見上げることすらしなくなってしまった。
「地嶋の結婚はすぐに知ったよ。大企業の跡取りが結婚するんだ、そりゃもう話題にならないわけがない」
「でも、それでもお婆さんは不幸ばかりじゃなかったでしょ? その地嶋さんだって、もしかしたらお婆さんが結婚したって知ってたから身を引いたんじゃないの?」
「ふふふ」
咲枝の小さな笑いは亜梨沙を小馬鹿にするようなものにも思えたが、それはその時代背景を知らない若者に対する「微笑ましい」という意味での笑いだった。昔話に対して真剣に向き合う亜梨沙の優しさは咲枝を「一人の老齢女性」にしていた。
「仮に私が独身であったとしても、私は地嶋と結婚は出来なかった。あまりに身分が違い過ぎた。地嶋としても釣り合う相手でなければ、一族としての威厳……いや、何よりも後継となる子の資質に影響するだろうから」
「…………」
地嶋の結婚に関する真実を唯一知っている透夜としては、咲枝の意見に物申したい部分があった。実際は妻の実家である津田家による政略結婚だったので、相手の質だけを見ての結婚ではない。
しかし、そんなことを訂正したところで何の意味もない。咲枝が目を向けるべきは見聞きしていない過去よりも実際に歩んできた過去、今ある現実とこれからの未来なのだから。
「お婆さんは地嶋さんと結婚しなかった今が嫌なの?」
「ん?」
「さっき言ってたじゃん。子供を育て、今はお孫さんがいる。お孫さんはもう社会に出てる立派な人だし、そんな元気で活躍しているお孫さんが会いに来てくれる……それって、とても幸せなことなんでしょ?」
「そう……だね」
「じゃあ、その幸せを大切にしなきゃ。どれだけ願ったところで過去は戻らない。後悔してるばかりの時間で今手に入るべき幸せを逃しちゃったら、それこそ勿体無いよ」
「…………」
咲枝は亜梨沙に「諭された」と思った。過去ばかりを見て恨む自分の視野が狭かったと認めざるを得ない。
思い浮かぶ孫の笑顔は、孫が何歳になっても可愛い。色褪せることなく、孫の笑顔は更新されていく。今ある幸せに目を向けてみれば、とても温かい気持ちになる。
咲枝は必死に説教してくれた亜梨沙を見て微笑んだ。
「お前さんの言う通りかもしれんな」
「うん。昔の男なんて忘れて今を楽しまなきゃね!」
咲枝と亜梨沙は二人して笑った。それがこの場における決着なのだと誰もが思ったので、長瀬は長谷川咲枝を誘拐事件の重要参考人として連行し、咲枝はこれを拒むことなかった。
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零の元にきた長瀬からの着信は、長谷川咲枝を確保したことの報告だった。とはいえ、この事件を解決とするにはどうしても零の証言が必要になる。つまりは事情を知った鷺森零に対しても聴取をしなければならないので迎えに行く、という趣旨も含まれていた。
静かになったこの地では通話をスピーカーにしなくても聞こえてくる。どうやら零が警察に連行されるということを知った沙菜は零のことをジトっとした目で見た。
通話を終え、その視線に気付いた零はほんの少し驚く。
「えっ、な、何?」
「鷺森、警察に行くの? 犯罪に関わってる?」
心なしか沙菜が少しずつ離れていっていると零は感じた。
「いや、僕は犯罪に関わってないよ! 沙菜さんだって見たでしょう、御神鏡から女性が何人か出てきたのを」
「それこそ、関わってなきゃわかんないでしょ。犯罪者」
「ちょっと! 僕は犯罪者じゃないから!」
沙菜はその御神鏡の方を見る。再度封印は施したので開いていた扉は閉じているし、御神鏡も一般人では剥がすことさえ出来ないだろう。
しかし、この封印でさえ実は「問題の先延ばし」でしかない。呪符と御神鏡で封印しているが、その箱となっているのは地主のものだったと思しき日本屋敷だ。これも老朽化は進んでおり、いずれ壊すとなれば封印する場所に困る。
「全く、厄介なものだわ」
「…………?」
零は沙菜の言っていることの意味がわからなかった。沙菜としても別に理解してもらおうとは思わないし、本来であれば零が対処する案件でもないので説明しようとは思わない。
「じゃ、帰るわ。お疲れ」
「ああ、うん。お疲れ様」
零は帰っていく沙菜を見送ってから長瀬と合流する為、車が入って来れるところまで歩いていく。途中まで沙菜と同じ道を歩くはずであり、別にあの場で別れなくても良かったのだが、一緒に歩きたくないと思っているのであろう沙菜の意思を尊重した。
車が来れるところまで戻りながら、零は暗くなって星が見える寒空を見上げた。