勝ちしか見えない
亜梨沙の名前を呼ぶ声は放課後の喧騒に勝る声量だった。あまりにも大きな声に周囲は驚き、会話や帰り支度などの手を止め、大声を出した零に注目した。
亜梨沙は特に返事することなく零をじっと見る。後に続いて教室から出てくる亜梨沙の友人達は、何が起こっているのかよくわかっておらず、やや困惑した顔で零の方を見た。
亜梨沙と行動を共にしている男子が口を開く。
「なになに? 何かあった?」
「いや、何でもない。行こ」
亜梨沙は即答して歩き出す。亜梨沙に続いて男女グループも歩き出すが、零を一瞥して横を通り過ぎる中、亜梨沙は一瞥すらもしなかった。
つまり、零は亜梨沙に無視されたのである。想定外の反応に零の心は折れかけていた。
しかし、だからといって諦めるわけにはいかない。彼女がいなければ今回の戦いが厳しくなるというだけでなく、零自身がこれから先も亜梨沙と仲良くしていきたいという気持ちがある。
「待って、亜梨沙さん!」
「…………!」
亜梨沙の動きがピタリと止まる。ここで零と向き合うか、それとも意地悪な心に従って零の本気を試すのか、彼女の心は今揺れていた。
「亜梨沙、行かないのかー?」
グループの男子が亜梨沙に問いかけるが、亜梨沙はまだ答えを出さない。彼等にとって零の存在などどうでもいい。むしろ楽しく過ごせるこの限られた時間を邪魔する存在なのだから、予定通りいつものメンバーで遊ぶのであれば零を無視して行くべきだ。
しかし、亜梨沙と普段から仲良くしている女子二人の意見は全く異なっていた。彼女らは亜梨沙が零に対して恋心を抱いているのをよく知っている。そして先日、二人が喧嘩したことも知っている。一方的に零が悪いのであれば無理矢理にでも亜梨沙を連れて行くところだが、実際のところは亜梨沙が一方的に不満を爆発させた節があるというのが客観的な判断だ。亜梨沙の幸せを考えるのであれば、ここでちゃんと話をさせるのが良いと考えた。
亜梨沙の女友達二人は互いに顔を見合わせて頷くと、片方が男子達の背中を強めに叩いた。
「ほら、行くよ! 亜梨沙は今、大事な話があるから!」
「えっ……え?」
男子三人は状況がよくわかっていないまま、渋々と歩き出す。そんな彼等を見てから、もう片方が小声で亜梨沙の背中を押す。
「亜梨沙、せっかく鷺森君が会いに来てくれたんだから、このチャンスを逃すなよ!」
「でも……」
その「でも」が何に対するものなのかは流石に友人でもわからなかった。だが、零と何を話したらいいのかわからなかろうが、遊ぶ約束に対して破っていいのかというものだろうが、いずれにしても関係ない。
今しかできないことをさせる。悔いのないように支えてあげる。それが友達としてすべきことなのだと、彼女らは思ったのだ。
「でもじゃない。ちゃんとやりなさいよ! また明日ね」
そう言って友人は去っていく。少しばかり静かになっていた廊下は徐々に喧騒を取り戻していき、亜梨沙はゆっくり零の方を見た。
「…………」
「亜梨沙さん、この前はごめんなさい」
「え?」
亜梨沙は零が真っ先に謝ってくるとは思わなかった。何故なら、彼は何も悪くないからだ。悪くないとわかっていたが許せなかった。そんな我儘のような感情で零を振り回してしまった自分の方が余程謝らなくてはならないはずなのだ。
「えっと、どうして零君が謝るの?」
「君は僕を助けてくれるって言った。でも僕は亜梨沙さんを頼らず、相談することさえせずに今回の件に当たっていた。僕は君の優しさを無碍にしてしまったんだ」
「そんなことは……」
言い返そうとした瞬間、亜梨沙はふと冷静さを取り戻した。それは周りがこちらに注目しているという視線を察知したからだ。
今の零は緊張のあまりそれどころではないようだが、いずれ後になって思い出し羞恥心に襲われるだろう。それは亜梨沙も同じなので、まずは場所の移動を提案することにした。
「零君、みんなが見ているから場所を変えよ?」
「あっ、うん」
零は不意な提案に少し戸惑いながら、先に歩き出した亜梨沙に続いて歩き出す。まだ隣に立って歩くような気にはなれず、亜梨沙の後ろをついていく形を続けた。
そんな二人は昇降口で靴を履き替え、そして中庭へと行った。昼休みには誰もいないこの場所だが、流石の放課後ともなればカップルが集まっている。
生憎と椅子のある屋根付きのスペースは埋まってしまっているようだ。しかし、長居するつもりのない二人は立ったままでいいと思った。
「流石に埋まってるね。どうする? 私は立ったままでもいいけど」
「僕も平気だよ」
「そっか」
場所を移動したのはいいが、結果として話の腰を折ったような形となってしまった。どう元の話題に戻るかわからず困った二人の間には少しばかり沈黙が流れる。
先に口を開いたのは亜梨沙だった。
「あの、私の方こそごめん。一方的に怒っちゃったこと、すごく後悔してた」
「いや、僕が亜梨沙さんの立場でもきっと怒っていたと思うよ。むしろ、今になって結局亜梨沙さんを頼ってしまう自分が情けなく思うよ」
「え? 私を頼る?」
「うん」
頼られること。それ自体はとても嬉しいことだ。零の力になれるのなら、今の亜梨沙にとってそれ以上に嬉しいことはない。
しかし、この状況ではそれも複雑な気持ちになる話だ。亜梨沙の力が必要で仲直りを持ち掛けているのであれば、都合の良い存在に思われてしまっているようで納得できない。
「私を頼りたいから、私に会いに来たってこと?」
「うーん……」
零にとってはそうだとも言えるし、そうでもないと言える。そうだと言ってしまえば目的が半分違うし、そうでないと言ってしまえば嘘になる。
「亜梨沙さんの力が必要だってのは本当なんだけど、そればっかりじゃないんだ。君を頼りたいってのはきっかけで、僕は亜梨沙さんと仲良くしたいって思ってる」
「…………」
「あ……」
ただ思い浮かんだ言葉を丁寧に紡いだだけだが、亜梨沙の反応を見た後、自分がとても恥ずかしいことを言っていると自覚して顔が赤くなった。零は能力を使う代償として季節に関係なく寒さを感じでしまうのだが、今は冬だというのにも関わらず、顔から汗が噴き出るほどに恥ずかしく感じた。
「そうなんだ……そうなんだぁ、ふふ」
亜梨沙は可笑しくなって笑い出してしまった。それが余計に零を恥ずかしくさせた。誤魔化すように頬を掻いているが、先程までの気不味さがどうでもよくなってしまった。
「わかったよ、零君。私も仲直りしたいと思っていたから。だから、聞かせてよ。私の力がどう必要なの?」
「ありがとう……!」
零は感極まって頭を深々と下げてお礼を言った。これもまた亜梨沙にとって想定外の反応であり、思わず亜梨沙は慌ててしまった。
そうして二人で少し笑い合った後、零はこれからやろうとしていることも合わせて今の状況を亜梨沙に話した。
零の考えを聞き、亜梨沙は以前のように得意げな頼もしい笑みを浮かべる。
「なるほど! それは普通なら不可能なことだね」
「かなり無理を言っていると思ってるけど、出来そうかな?」
「ふふ、勿論! 何といっても私は魔法少女の娣子、ミラクル・アリサだからね! 『奇跡』を起こすよ!」
「……うん!」
側から見れば、とても恥ずかしい名乗りではある。だがこの場では誰も亜梨沙に注目はしないし、零にとってこれ以上に頼もしい名乗りはない。亜梨沙が仲間に加わってくれたことで、今の零には負の感情など一つもない。
「亜梨沙さん」
「ん?」
「僕、勝ちしか見えないよ!」
「当然!」
互いに見つめ合い、二人は再度笑いを交わした。
しかしこの直後、学校を出ようとしたところで零が鞄を持っていないことに気付き、帰り支度も後回しで自分に会いに来たと知った亜梨沙は呆れつつも心の底ではとても嬉しく感じ、いつもの笑顔を取り戻した。
これで全ての準備が整った。