自主性
「うわっ、もうこんな時間!? 最悪……」
道場の壁に掛けられている時計を見て沙菜がそう言った。稽古終了の時間が迫っており、そろそろ片付けと清掃を始めなければならない。
「あんたに構ってたお陰で一日無駄になっちゃったじゃない!?」
「ご、ごめん」
「ぐぎぎ……」
沙菜はかなり悔しそうで、それであって恨めしげに零を睨んでいる。彼女はこの道場の中ではかなりの実力者ではあるが、だからといって常に余裕を持っているわけではない。彼女にとって、今日の時間は稽古をサボったのと同じだった。
零にはただ申し訳ない気持ちしかなかった。
だが、今日の時間をいつまでも悔やんでいるわけにはいかない。稽古をしたのであれば、感謝の意を込めて道場の清掃をしなくてはならないし、それはしっかり零に教えなくてはならない。
「取り敢えず、片付けを始めよう。清掃についてもきっちり教えるから」
「あ、うん」
沙菜にそう言われた零だが、片付けを含め何からやったらいいのかよくわかっていない。それ故のはっきりしない返事だったのだが、沙菜は自分の片付けを始めつつ、まごまごしている零を見て「仕方ないなぁ」と言わんばかりに指示を出した。
「まずは竹刀を片付けて。そしたら倉庫からモップを取り出してくまなく掛ける。いい?」
「わかった」
零は沙菜からの指示に従い、竹刀を片付けた後、そのままモップを取り出して道場の隅からモップ掛けを始めた。今日始めたばかりの零に比べてここで鍛錬を積んでいる女剣士達の方が片付けるものか多いようで、彼女らが合流したのは零が半分くらい掛けた後だった。
モップについた埃を払い、箒と塵取りを使って集める。気付けば何故か、零と沙菜の共同作業となっていた。
「さて、それじゃあ、埃を捨てたから清掃用具の片付けをお願い。あんたが使ったモップも忘れずに」
「りょーかい」
零が全ての片付けを終えて皆の方を見ると、奈月の前で整列していた。零が入る隙間は無さそうだが、取り敢えずは先頭列の横に立った。
零を含め、全員が揃ったところで奈月が話を始める。
「皆、お疲れ様! そこにいる男子はちょっと諸事情により今日から皆と一緒に稽古をつけることとなった鷺森零君」
奈月から紹介され、女剣士達が一斉に零を見る。誰に指摘されたというわけでもないが、ここは挨拶すべきだと零は思った。
「鷺森零です。よろしくお願いします!」
奈月の声量に合わせて大きな声で自己紹介をする。少しの間だけ静まりかえり、返礼として皆一斉に「よろしくお願いします」と零に言った。
しかし歓迎はされていない。彼女達が挨拶を返せたのは奈月の指導による恩恵だ。そして零は彼女達が本音でどう思っているか何となく察していた。
それは指導者である奈月にもわかっている。一人男が増えたくらいで拒絶反応を出している教え子達には少しばかり呆れたのが本音ではあるが、これもある意味では零にとって認められる為の試練となっている。しばらくは様子を見ることにした。
「それじゃあ、ボクからは以上!」
「「ありがとうございました!」」
奈月からの話が終わり、一斉に指導へのお礼を述べる。それは同時に解散の合図であり、ポツポツと更衣室に向かって歩き出した。
「あ、沙菜と零君は残って」
以上と言ったにも関わらず、奈月は零と沙菜を呼び止めた。沙菜は不本意であることを表情に出し、沙菜を置いて更衣室へ向かう女子達から一部であるが、クスクスと笑う声が聞こえた。
「……何でしょうか?」
沙菜は不満げに奈月へ問う。一方、奈月は少し誇らしげに笑みを浮かべていた。
「零君はどうだった? 指導してみて」
「聞くまでもないですね。素人ですから、指導に苦労しました」
「なるほど、なるほど。零君はどうだった?」
奈月は頷きながら零の方へと視線を移した。
「丁寧に教えてくれたお陰で、少しだけ基本的な動きが身に付いたと思います」
「そっか。じゃあ、ボクの見立ては間違っていなかったね」
二人の回答を聞いて、奈月は満足そうに笑った。それが少し沙菜にとって不快だった。
「笑い事でありません。あたしの稽古する時間が奪われているんですよ?」
「そうだね。だけど、他者に教えることによって、沙菜も得たものがあるんじゃないかな?」
「…………!」
沙菜にとってそれは図星だった。
口では零のことや指導することに対して悪く言っているものだが、実のところ教えていながら沙菜にとっても初心に帰るきっかけとなっていた。
「そ、それはともかくとして。話は終わりですか?」
「いやいや。成り行きで零君を沙菜に任せたけど、ちゃんと自己紹介できていなかったでしょ? 零君はさっき皆に向かってしたけど、沙菜はちゃんと零君に挨拶した方がいいと思うな」
「……必要ありますか? あたしとしては彼の無能性を証明して追い出すつもりですのに」
沙菜の冷たい返しに対して奈月は右手で後頭部を軽く掻く。厳しく言い聞かせるのは簡単だが、奈月としてはそれをしたくなかった。
「まあまあ、そう邪険にしないでよ。名乗るだけだったら別に減るもんじゃないでしょ?」
「…………」
稽古の時間は終わっていることだし、確かに自己紹介するくらいなら減るものではない。沙菜はあからさまに「仕方ないな」という顔をして名乗った。
「あたしの名前は北見沙菜。そういえば、あんたの苗字なんだっけ?」
「僕は鷺森。鷺森零」
「鷺森……珍しい苗字だよね。先祖がなんか特別な人だったり?」
「…………!」
苗字が珍しいというだけでなく、祖先のことまで言い当てられるのは零にとって驚きだった。だが、その理由はすぐに沙菜から明かされた。
「なんてね。あたしの家が少しおかしいからそう思っちゃうだけなんだけど」
「おかしい?」
「……あんたには関係のないことよ」
沙菜は家のことを話そうと思わなかった。
というのも、過去に話をしたら笑われて馬鹿にされた経験があったからだ。こんな話をしようものならたちまち「おかしな人」だと認識されてこの場に居づらくなることだろう。
零に嫌われておかしな人だと思われる分には構わないが、この話を他の女剣士達が聞き耳立てて聞く可能性だってある。だから話さなかった。
「ともあれ、自己紹介はしましたよ。もういいですか?」
師範に対しては少し失礼な態度かもしれないが、沙菜にとって「勝手に教育係にした」のだからおあいこのつもりだった。
「あ、もういいよ! 沙菜、これからも零君のことよろしくね!」
「はあ」
沙菜は最後まで「乗り気ではない」という意思表示しながら一礼をして更衣室へと向かっていった。
すみません、今回はちょっとこれが限界そうなのでここまでにさせていただきます。
次回もよろしくお願いいたします。