追憶「或る男の後悔と復讐の始まり」
───後悔先に立たず。
後悔とは人が生きる上で必ずと言っていい程出てくるものだ。
あの時、もっとしっかり考えられていたら? あの時、もっと勉強していたら? あの時、恐れず勇気を出して行動できていたら? あの時、ちゃんと気持ちを伝えていたのなら?
後から言ったって仕方ない「たられば」を言葉にしながら、人は後悔する。
もしも、未来がわかっていて、自分が望んだ未来を歩むことのできる絶対の方法を知ることができるのなら、後悔はないのかもしれない。
或いは、どのような結果になってしまったのだとしても常に自分の選択を受け入れられるのなら後悔そのものがないのかもしれない。
いずれにせよ、後悔というのは無駄な時間だ。そんなことよりも「次どうするか」を考えて行動した方が余程有益である。
だが、そんなことは誰もが頭ではわかっている。心がついていかないのだから人は悔やんでしまう。
───鷺森露。
この男もまた、無意味な後悔に苛まれていた。
鷺森家の人間として……鷺森家の当主を担う女の兄として……。彼は常に強くあろうとした。自分に厳しく、他人にも厳しい。だが、生まれながらして人生を決めつけられた妹だけには優しくした。鷺森家の使命から逃れられないのであれば、せめて妹らしく甘えられる場所を作ろう。それが彼の生き様だったのだ。
しかし、鷺森露の妹愛は少し行き過ぎたものだったと言える。兄妹とは一番身近な他人だ。鷺森露の場合、鷺森雫に向けていた愛は一番身近な他人に向けたものではない。生涯ずっと守ってゆく。そんな、人生のパートナーに向けるような愛を妹に向けていた。
だから鷺森露は後悔した。『はつ』との戦いは雫にしか出来ないことだが、鷺森家に代々継がれている力の一端でも持っていたのであれば、愛する妹を守れたのかもしれない。
最愛の妹を失ってしまった記憶は、鷺森露をこの世ならざるものとした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『はつ』との戦いで倒れた雫を抱き上げて露は走る。すでに雫の体温は冷たくなっており、つい1時間前まで感じることのできた温もりが失われていた。
だが、露は雫が死んだとは思っていなかった。この世ならざるものによる呪いは何も珍しいことではない。雫が対応してきた案件の中には呪われた者もおり、鷺森家の能力によって呪いを解いたこともあった。
つまり、雫自身では今の自分に掛けられた呪いを解くことが出来なくとも、先代を務めた母ならそれが可能だと考えたのだ。
抱き上げた雫はぐったりとしている。雫を持ち上げたのはいつ以来のことだろうか。最後に抱き上げたのはもっと彼女が幼い頃だった。その時に比べて大人になった今は当然重い。
しかし、そんな彼女の体重など露は気にならなかった。雫の用心棒を務めていたくらいだ。肉体的な鍛錬を欠かさずにやってきているので、力の強さには自信がある。
「はっ……はっ……。雫、もう少しだからな、頑張れ!」
「…………」
雫は何も答えない。
だが、彼女の答えなど期待はしていない。ただ無事であって欲しいという願いを一心に走り続けた。近隣の住民達は眠っているのだろうか。誰かとすれ違うこともなく、無駄に話しかけられるようなことがなかったのは露にとって救いだった。
やがて家に辿り着くと、玄関の前に立って大声で叫んだ。
「母さん! 母さん! 開けてください! 雫が……!」
家の灯りはまだついている。普段では出さないような大声を聞いて、ただことではないと思った両親が慌てて扉を開けた。
そこにぐったりしている我が娘の姿を見て、父は息を呑むが、母は驚きつつも冷静に指示を出した。
「露、そのまま雫を私の部屋に運びなさい。貴方はお医者様を」
「はい!」
「わ、わかった」
父は慌てて外に出てから医者が住まう近隣の家に走って向かった。そんな父の姿を見送る余裕などなく、露はすぐに雫を母の部屋へと連れて行った。
母はまだ当主の部屋を使っている。役割こそは雫が受け継いだものの、過ごす部屋はそう簡単に入れ替えることなどできない。鷺森家は先代当主がこの世を去った後に当主の部屋が受け継がれるのだ。
当主の部屋は一番広い。既に寝支度を整えていた母の布団に雫をゆっくりとおろした。
「母さん、雫の具合は?」
露はいつもの冷静さを欠いて動揺している。
先代当主である母はいつもなら、その動揺に喝を入れていることだろう。だが、母としても娘の状態を見て狼狽えずにはいられなかった。
「まさか、そんな……! そんなことが」
「母さん……?」
露は母の顔を覗き見る。だがその一方で母は横たわる雫をじっと見て、言葉の構成を考えることもなくあるがままを口にした。
「雫の命は既に失われている……。でも、これは死んだというより、肉体のみが現世に残っていると言った方が正しいか……?」
「は?」
露には母の言っていることが理解出来なかった。露も鷺森家の人間として親戚の葬儀に出た経験は一度や二度ではない。この世を去り、肉体のみが現世に残ることなど当たり前のことだ。魂だけでなく肉体もこの世を去れるのであれば、遺骨など存在しない。
死んでいないと言われるのなら絶対に信じる。今の雫が所謂仮死状態で、時間が掛かっても回復できる希望があるのであれば、すぐにでもやって欲しい。死んでいると明言できないのなら、また起き上がって話ができるようにして欲しい。
露は心の底から願った。
「母さん。肉体のみがここに残されていて、雫の魂と言えるような中身がないというだけなのなら、それを戻せばいいはずです。母さんにならそれが出来るのでは!?」
露の母は提案する息子の顔を見て失望した。それは最早、提案などではない。単なる現実逃避だ。あるがままを受け止めず、目の前の現象を自分の都合がいいように解釈しているだけだ。
母は立ち上がって露を見下ろし静かに言った。
「葬儀の準備を始めましょう。本家や他の分家に連絡をしなくては」
「なっ!」
母から想定外の言葉が出てきて露は目を丸くした。それと同時に怒りが込み上がって頭が真っ白になるのを感じた。
「母さん! 雫を諦めるのですか! 鷺森家に出来なくとも、雫の魂を呼び戻す能力を持った方がいるはずでは!?」
「露!」
母は大声で露を黙らせた。それどころか、母に大声で名前を呼ばれて露は背筋が凍った。
「愚かな現実逃避はやめなさい。一応はお医者様に診てもらいますが、蘇生は絶望的でしょう。怪我や病気がないだけで、雫の命は失われているのです」
「そんな……」
絶望が露を襲った。静かに眠っているような美しさを保って倒れる妹の姿を見て涙が溢れた。抱き合うことは愚か、言葉を交わすこと、声を聞くことすら叶わない。
最愛の妹と作り上げてきた思い出が一つひとつ蘇ってくる度に、露の目から涙が溢れる。
露が絶望で涙を溢すことしか出来ない一方で、母はすぐに電話のある廊下へと出て、本家や分家に電話を掛ける。父が呼んできた医者に雫を診てもらい、医師から見ても鷺森雫がこの世を去ったのだと告げられた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
葬儀は大きな問題が起きるようなこともなく進んでいく。雫の死を惜しむような声があっても、悲しむ者はいない。ただ慌しく時間が過ぎていき、この集まりが雫の死を悼む為のものではなく、ただ親戚が騒がしく酒を飲んでいるだけの集まりになってしまっていることを露は悟った。
それを否定して改めさせるだけの力を露は持っていない。雫を失った悲しみを本家や分家に対する憎しみに変えながら、通夜から親戚が解散するまでの間を過ごした。
葬儀が終わってひと段落した頃、露は当主の部屋に呼ばれた。そこには母が険しい顔付きで座っており、父は横に控えていた。
「母さん、何か用でしょうか」
「まずは座りなさい」
母の前に用意された座布団の上に座る。食事中くらいなら胡座で楽に座るところだが、重々しい空気を悟り、露は正座で座った。
「お前も知っての通り、本来であれば当主である雫が子を産み、鷺森の家を守っていくのが決まりです」
「はい」
「現当主が失われた今、私達はすぐにでも新しい当主を用意せねばなりません。ですが、残されたお前が当主になることはあり得ない。鷺森家は女が代々当主を務める慣わしだからです」
「はい」
「私が子を儲けようにも既に遅い。よって露、お前がすぐにでも結婚をし、娘を儲けなさい。娘が育つまでの間は私が当主代理となります」
「…………」
露は将来、鷺森家を出て行かなければならない立場だった。結婚した先で鷺森を名乗ることは許されない。婿養子に入るのが露の運命だった。
しかし、雫がこの世を去ったことで事情が変わってしまった。雫への未練が断ち切れない今、結婚の話を出されても首を縦に振れなかった。
「母さん。何故、女当主の風習にこだわるのですか。今現在はかつてと事情が異なる。今こそ、俺が修行をし直して当主の座に着くべきなのでは?」
露の真剣な問いに母が鼻で笑う。
「何を言い出すかと思えば世迷言を。お前がどれだけ鍛錬しようとも鷺森の力は得られない。無駄な時間を費やすよりも、鷺森の血を継ぐ新たな女の子を儲けるのが道理。そしてお前の結婚相手は既に決まっています」
「……そうですか」
露に拒否権はない。現代でこそ自由な恋愛が許されているものの、露の生きていた時代に自由な恋愛による結婚など駆け落ちでもしない限りは実現しない。
露はただ母の命ずるままに結婚をし、子を儲けた。第一子から女の子が生まれたことは鷺森家にとって幸福そのものだ。生まれた娘の名前を「霰」と名付け、次の当主として厳しく育てたのだった。
霰は自らに課せられた使命を受け入れ、当主となるべく鍛錬を積んだ。やがて霰が当主となる頃には、露の両親はこの世を去った。
露には生き甲斐となる程の目的意識はなかった。ただ鷺森家の傀儡となり、人生を全うする。
だが、鷺森露にとって霰から生まれた孫である澪の存在は衝撃だった。赤子の頃にはわからなかったものの、大きくなる澪を見ていくにつれてどういう遺伝子の働きをしたのか、最愛の妹である雫に似ていったのだ。
その時、露は悟った。
ここから自分の鷺森家に対する復讐が始まっていくのだと。
読んでくださりありがとうございます。夏風陽向です。
長かったこの章もようやく終わりました。
ここまで書き切れたのは、やはり読んでくださる皆様のお陰です。
ありがとうございます。
次の章はよりディープにする予定ですのでお楽しみに!
一話完結ならぬ一章完結で長くやるのもいいですが、ちゃんと大筋も進まないといけないと思っています。
それではまた次回。来週もよろしくお願いします!