『星に願いを』
主に私、桐原悠里のせいで一波乱あった文化祭も、次第に終わりの時を迎えようとしていた。
衣装の返却をしたり、演劇で使った小道具や喫茶店の後片付けをしたりしている最中、私はご丁寧にも校内放送で呼び出される。聴覚障害者である私を、放送で呼び出すことに矛盾を感じなかったんだろうか、と思う。ともあれ、『なんか、名前呼ばれているみたいよ』と渡辺さんが、肩を叩いて知らせてくれたので気づけた。
たぶん、叱られるんだろうな、と演劇を中断させた首謀者である私は、がっくり肩を落として職員室に向かう。校則違反である髪色の件を除けば、これまで職員室に呼び出された経験なんてない。それなのに、髪の色を黒く戻してから呼ばれるのだからなんとも皮肉な話だ。
そんな感じに、くだらないことを考えながら職員室に入る。担任教師の前で頭を下げると、彼は開口一番──といっても筆談なのだが、苦笑交じりにこう告げた。
『やってくれたもんだ』
『すみません』
弁解の余地もない、と殊勝な態度で頭を下げる。脳裏に浮かんだ、『ほんの、出来心でした』という皮肉は、自重して秘めたままにしておく。
『いま、こうして呼び出したのも、マニュアルに従った対応みたいなものでな』と担任教師が二の句を継いだ。マニュアル通りの対応が好きな先生だな、とまた別の皮肉を思い付いた。でも。
『どういう、意味でしょう?』
私の問いに、先生は少し考えた上でこう答えた。
『文化祭という舞台を利用しての告白を、快く思わない者たちも少なからずいる、ということだ』
なるほど、それは確かに頷ける。
『不純異性交遊を助長させる行為、と取られる向きもあるからね。”一応は”叱っておかねばならない空気になった。簡単にいえばそんな話だ』
『事情はわかりました。では、実質お咎めなしなんですか?』
私が首を傾げると、『これでも叱っているつもりなんだがな』と告げて先生が笑う。聞こえないけど、たぶん大声だ。
なんだか恥ずかしいな、と周囲を見渡すも、こちらに向いている視線は特になかった。
『本音を言うと、先生は大人しすぎる桐原のことを少し心配していた。だから、むしろ良く勇気を出したな、と褒めてやりたいくらいだ』
改めて指摘されると、勢いで口走った恥ずかしい台詞の数々を思い出して顔が熱くなってくる。『ありがとうございます』といまいち要領を得ない返答を残して、私は職員室を後にした。
なんだろう、これ。気持ちの整理がつかないまま、教室を目指して歩き始める。途中ですれ違った福浦君が、『かっこよかった』と私を褒め、彼の隣にいた恭子は、『元気出して』と私を励ました。
不思議な感覚だった。悪いことをした、という自覚があるのに、誰も私のことを咎めようとしない。それどころか、褒め讃えてすらくれる。正しいとか過ちだとか、好きだとか苦手だとか、自分のなかで作っていた判断基準が、いま大いに揺らいでいた。考えすぎ、だったのだろうか。
わからないのは、広瀬君に対する私の気持ちもだ。
全校生徒の前で告白をし、そして、完膚なきまでにフラれた。辛くて、悲しくて、ずっと涙を流してきたはずなのに、それがどうだ? 心中で澱んでいた暗い感情全てが雲散霧消したかのように、気持ちが晴々としている。
……よくわからない。どうしてここまで吹っ切れているんだろう、私。
迷宮の中に迷い込んだ思考に一応の着地点すら見つけられぬまま、教室に着いた。
帰りのホームルームが終了した後の教室。「このまま帰るのは惜しい、打ち上げをしようぜ」という話が誰からともなく持ち上がる。彼らの声は私の耳に届かないけれど、みんなが笑顔を浮かべ、今日の成果を称えあっている姿を見ているだけで、穏やかな気持ちになってくる。
クラスメイト全員が一つになっていた。今日ばかりは、私も輪の中の一員だと自惚れても罰は当たらないだろうか?
どうやら二階堂君の提案により、カラオケボックスに行こうぜ、という方向で話は纏まったようだ。『桐原さんはどうする?』と広瀬君が私を気遣う。彼が気を揉んでくれている理由はわかる。耳が聞こえない私にとって、カラオケは無縁の場所だからだ。
歌えるはずもないのだし、とお断りしたのだが、「歌わなくてもいいから行こうよ」と渡辺さんや相楽さんが食い下がってくる。それもたまにはいいかな、と心が傾き始めるなか、誰かが私の手を引いた。
『わ。阿久津君!?』
わりーな、オレもカラオケパス。んで、ちょっくら桐原借りるわ。たぶん、そんな感じに言ったのだろうか。
『荷物持って、このまま逃げよう』
戸惑っているうちに強く手を引かれ、二人で教室を飛び出した。背中から、誰かの声が追いかけてくる気配がしたけれど、振り返ることなく走り続けた。
私の手を、しっかりと握り締めるちょっとだけ大きな手のひら。流石は元運動部。ごつごつしているけど、温かくて頼もしい手のひら。
昇降口を出たあとも、暫く二人で走り続けた。次第に息が上がってくるのを自覚しながら、どこに向かっているんだろう、と思う。ところが、予想より大したことなかった。彼が向っているのは私の自宅がある方角だ。なんだ、とわずかに気落ちするなか、走り疲れたのか彼が一度大きく息を吐いた。そこから、ゆったりとした歩調に変わる。
繋いでいた手を一旦解き、『なあ、桐原』と照れくさそうに阿久津君が訊ねてくる。
『あれから、親父さんと話できた?』
『うん、話したよ。感動したってそう褒められた。でも、改めてそんな指摘をされると、ちょっとだけ恥ずかしかった』
うん、と彼は頷いて、一拍置いたあとで次の手話を刻んだ。
『母親の交際相手の一件も、ちゃんと相談できた?』
それは、どこか気後れしたような表情で。忘れようと思っても、たとえ何年経ったとしても、あの日負った心の傷は、瘡蓋に変わることなくたびたび痛むのかもしれない。それがわかっていてなお、いや、わかっているからこそ、彼はこうしてちゃんと訊ねてくれる。ならば私も、ちゃんと答えなくてはいけない。一番親身になって、相談に乗ってくれたのは間違いなく阿久津君なのだから。
『ママには話したよ。もちろんパパにも。というか、パパはとっくに知っていたみたい。ママは「気が付かなくてごめんね」と私に謝った上で、「あの男との関係は解消する」と約束してくれた。パパは、私の心のケアが第一なのだが、と前置きをした上で、「時間も労力も必要だけれど、暴行罪、もしくは強制わいせつ罪として訴えを起こそう」と言ってくれた』
私の説明を受け取ると、ようやく彼が強張った肩の力を抜いた。
『そっか。じゃあ、一先ずは問題なさそうだな』
『うん――』
本当はね、凄く驚いたんだよ。パパが文化祭に来てくれたこともだけど、ママと一緒にいたことにはもっと。「私が乱暴されていた件について、ママと相談しに来ただけだ」とパパは言い、「辛かったな。よく我慢した」「暫く見ないうちに、随分大きくなったな」と涙ながらに抱きしめてくれた。ごく自然に私は泣くことができて、何年かぶりにパパの胸に顔を埋めて甘えることができた。パパが、私の事情を知っていたのにも驚いたけど、誰が伝えてくれたのか、直ぐにわかったよ。
一連の不幸な出来事において、原因の一つが私の心の弱さだった。障害を持っていることを自身の弱さと捉え、弱いから相応に我慢をしなければならないという、悪循環の思考に陥っていた。広瀬君が、障害だって個性の一つ、とまで言い切ってくれたのにね。それなのに、自殺まで仄めかすとか短絡的過ぎるでしょ、と私は思う。それでも、と私は隣の顔を見上げた。心の奥底に降り積もっていた涙の海の真ん中で、膝を抱え蹲っていた私に手を差し伸べてくれたのは、紛れもなくあなただから。
阿久津君の顔を見つめていると、不意に彼がこちらを向いた。私は逃げるように、顔を正面に戻した。
家の近所にある児童公園の前を通りがかったとき、あのトラ毛の猫がいた。誰かの家の塀の上。視線を配りながら伝い歩く猫に、そっと手を差し伸べてみる。ところが猫は、こちらに一瞥をくれただけで、塀の裏側に飛び降りるとそのまま姿が見えなくなった。
なにやら冷たい反応に、あれ、と私は思う。けど、直ぐに理由がわかった。少し遅れて白い猫が現れると、追いかけるように塀の向こう側に消えていったから。
『恋人同士かな?』
塀の向こう側に顔を向け、彼がそう告げた。
『たぶんね』と私は答える。『恋人がいるなんて、なんか羨ましいな』
『桐原は、失恋をしたばっかりだもんな』
『うん』
『桐原はさ、例えば他に…………。あ、いや、なんでもない』
刻んでた手話を中断した阿久津君の顔を、驚いて見上げる。でも、彼の視線はこちらに向いてはいなかった。
──途中で止めたら気になるよ。
言えない台詞は、心の中で空回り。とたんに会話も途切れてしまう。
無言で歩き続けるなか、私は隣の顔をそっと盗み見る。頭一個ぶんくらい高い場所にある、阿久津君の顔。
このまま私の家まで送り届けて、ハイ、おしまい。なのかな。みんながカラオケで盛り上がってるときに、なんだかつまんない。そう思った私の心に魔が差した。彼の袖口を握ってくいくいと引っ張る。
『ん、どうした?』と彼は、ごく自然な体で振り返る。
もう、鈍感。不満なのをアピールするため、下唇を突き出した。
『ねえ、どこか行こうよ? まだ帰りたくない。みんなが楽しんでいるのに、私たちだけ優等生とかつまんない。私ね、悪いことがしてみたいの』
『悪いこと?』
『そう、悪いこと。阿久津君、そういうの得意でしょ?』
『お前さ、オレのことなんだと思ってんの?』
拗ねたような表情に変わり、軽く睨んでくる彼。
それから「ん~……」という感じに暫く考え込んでいたけれど、突然私の手を握って歩き出した。自宅とは逆方向に。『どこに、行くの?』と困惑しながら訊ねてみると、彼は眉一つ動かさずにこう告げた。
『そこにあるラブホテル』
えええ!? 私の足が驚きで止まってしまう。阿久津君の手をぐいと引く格好になってしまい、彼も同様に立ち止まる。
『ラブホテルなんて、私たちにはまだ早すぎるよ』
『まだ?』
ああ、なんということでしょう。完全に失言だ。
『ち、違う。そういう意味じゃなくて』
『大丈夫だよ。勘違いだから、それ。そんなことしない』
笑顔になってそう告げて、彼は再び歩き出す。
ああ、どうしよう。マラソン競技を走り終えたあとのように、喉がカラカラに乾いている。心臓もバクバクいっている。
そんなことってどんなことよ。さっきは鈍感って思ったけれど、今度は敏感過ぎるよ。そもそも彼は、どうしてラブホなんて言い出したんだろう。何段飛ばしかわからない勢いで、大人の階段を上ろうとしている自分に戸惑いはあるのに、意外と心は冷静だった。捨て鉢になったつもりはないが、思っていたより怖くなかった。なんだろうこれ。自分の気持ちが、よくわからない。
そうして、常夜灯の明かりしかない薄暗い路地を歩き続けること十数分。彼は舗装路から脇に逸れると、薄暗い斜面を下り始める。視界の先には、外壁を蔦で覆われ廃墟と化したラブホテルがあった。
十数年ほど前に、営業を停止したホテルだ。
私の足元が、覚束ないと思ったのだろうか。彼は一旦立ち止まると、『怖い?』と訊ねてきた。私は怯える心を奮い立たせて気丈に振る舞う。『ううん、大丈夫』
建物の風化が進み廃れた館内は、薄暗くて物悲しい。所々抜けそうになっている床を避け、朽ち果てた壁に手を触れながら、慎重に進んで行く。『足元に気をつけてね』と彼に手を引かれて辿り着いたのは、天井が完全に崩れて抜け落ち、吹き抜けとなっているホテルの一室。
阿久津君は、元の色がよくわからないくらい薄汚れたベッドの上に腰を下ろすと、足を伸ばしてくつろいだ。私もスカートの裾を直しながら座ると、彼と同じく両足を投げ出してみる。
そのとき、彼の視線が私の太腿に下りるのがわかった。視線が這い回る場所が自然と熱を帯びてくる。でも、全然嫌じゃない。今日の私、なんだかおかしい。
私の身体が熱量を上げ始めた頃合に視線が剥がれると、彼はすっと頭上を指差した。
見上げてごらん、とでも言いたげだ。彼の視線の先を目で追って、「わあ」と思わず感嘆の声が漏れた。
崩れ落ちた天井の代わりに見えたのは、抜けるような満天の星空だ。視界を遮る木々や電線の類もなく、光害の心配もない夜空を、幾百の星々が埋め尽くしていた。室内なのに、星の瞬きが見える光景。それはさながら、できの良いプラネタリウムのようだ。
『凄い。こんなの見たことない』
『だろー? たとえ、どこにでもある夜空でも、場所を変えるとこんなに綺麗に見えるんだぜ』
彼はスマホのカメラで、夜空を撮影しながら告げた。
『このベッドの上にいるのは、俺と桐原の二人だけ。ここから見える夜空も、全部俺達で二人占めだ』
『二人占めって、なんか文法おかしくない?』
『こまけーことは、いいんだよ。今はここから見える夜空も、その他諸々も、全部オレが独り占めだ』
結局独り占めなんだ、と笑うと、彼は『そうだね』と喜色満面笑顔で応えた。
『ラブホテルって言われたときは驚いたけど、来て良かった』
彼は、星空に向けてた視線をこちらに向けると、少し気後れするように訊いてきた。
『ゴメンね。ちゃんとしたラブホテルの方が良かった?』
『ええっと……』
忘れかけていた事柄を指摘され、急速に頬が熱を帯びる。部屋が薄暗くてよかったかも。顔色の変化、気づかれないで済むから。
そのまま押し黙っていると、彼が後頭部をかきむしった。『そもそも、オレたち未成年だからラブホは入れねーし』
男の子にそんな事実を指摘されるなんて、と顔が火照りをうったえる。まるで、私の方が何かあるのを期待していたみたい。失念していた自分が恥ずかしくなって、俯いてしまう。
顔をあげられずそのまま固まっていると、話題を差し替えるように彼が頭上を指差した。『ほら』
釣られて空を見上げたそのとき、流れ星が一筋、紺色の夜空を引き裂いた。わ、と思う暇もなく、更に別の流れ星が空を駆ける。
『願い事をしよう』と彼が言った。私も頷いて手を合わせると、ゆっくりと目を閉じて、願い事を探してみる。
冷静になって考えると、私には欲しいものだらけだった。
聴力。
平穏な生活。
家族の幸せ。
気持ちを伝える手段と、ほんのちょっとの勇気。
『何をお願いしたの?』と彼が訊ねてくる。
『色々有り過ぎて、一つに絞れなかった。だから……この幸せな時間が、ずっと続きますように、と祈った』
『控え目だな。桐原らしいや』と彼が笑う。
『阿久津君こそ、なんてお願いしたの?』
すると彼、困惑の色が混じりあった、曖昧な笑みを頬に浮かべた。ゆっくり笑みを引き取ると、真顔になってこう告げた。
『素敵な恋人が欲しいですってね。子どもみたいでしょ?』
彼の茶褐色の瞳が、真っすぐこちらに向けられる。
『別に可笑しくなんてないよ。でも、阿久津君はモテそうだから、直ぐ素敵な恋人できるよ』
『そうでもないんだよ』と彼が空を見上げる。『オレ、誰とも付き合ったことない。誰かのことを好きになると、ソイツのことしか見えなくなる。オレってさ、意外と臆病で一途なんだぜ。イメージと違うでしょ?』
『うん、違う。色んな人に告白されて、色んな人と付き合ってそう。……告白されたこと、ないの?』
『あるよ。相手は、野球部のマネージャー』
『へえ、どんな返事をしたの?』
『返事、できなかった。そんで、彼女を泣かせちゃった』
『サイテー……』
『サイテーだろ?』
そのとき、また一つ流星が夜空を引き裂いた。
『そう言えば、もうすぐおうし座南流星群が極大になるんだって』
『そうなの?』
『うん。慎吾の奴が教えてくれた。アイツ、天体ショーとかそういうのに詳しいみたい』
親友の話を自慢げに、どこか熱を帯びたように話し続ける彼。
『でもね、まだ二週間ほど先の話なんだ。そのときになったら、もっと流星が流れると思うんだけど。……この場所もさ、慎吾が教えてくれたんだ。大切な人と見に来るといいよって』
『大切な人。誰か、特別な人がいるの?』
『う~ん……。素直に答えるのは、なんかつまんないし。よし! オレとジャンケンをしよう。そんで勝った方が、なんでも一個だけ質問できるの。負けた方は、はぐらかしたり嘘つかないで、ちゃんと答えること。それでどう?』
何それ、幼稚だなって思った。負けたら恥ずかしいこと訊かれそう。思考がまるで小学生みたい。でも、ようは勝てばいいんでしょ勝てば。
それじゃあ……とジャンケンをする私たち。最初は私の勝ちだ。でも、いきなり大切な人を訊いちゃったら、空気読めない奴って思われるよね?
『初恋の人は?』
『渡辺美也』
『……そうなんだ。なんか、訊かなきゃ良かった』
『なんで?』
『……別に』
なんだろう、渡辺さんばっかりモテるみたいでなんだか苛々する。
手話では伝えきれないと判断し、スマホでの会話に切り替える。そしてここから、私は全然勝てなくなった。
よし、オレの勝ち! じゃあ、桐原の誕生日は? 十二月二十五日だよ。へー、クリスマスの次の日じゃん、惜しい。またオレの勝ち。好きな映画は? 永遠の〇かな。渋いな、オッサンかよ。え、だって感動したし。律に言ったときも笑われたけど。またオレの勝ち、桐原ってジャンケンよえーな。う、うるさいな! じゃあ、初恋の人は? 広瀬君……。ああ、初恋だったんだ? か~わいい。うるさいな~哀れんだ目で見ないでよ。やった! 私の勝ちね。じゃあ、訊くよ。好きな人は? お母さん。何それズルい、小学生か! 間違っては、いないだろ? そうだけど……やっぱズルいよ!
『またオレの勝ちか』と彼は、グーの形になった拳を見つめる。『そろそろ、本題を訊いちゃおうかな……。じゃあさ、広瀬の他に、好きな男っている?』
次の瞬間、時間と二人の呼吸が、同時に止まったような錯覚がした。
沈黙が、お互いの顔に張り付く。
ここまでくると流石に気がついた。阿久津君の気持ちも、それから、私の気持ちも。広瀬君への告白がきっと失敗すると思い始めたあの頃から、私の心はとっくに傾き始めていたんだ。だからこそ、広瀬君にフラれたあとも心が凪いでいたし、阿久津君に手を引かれても冷静でいられた。自覚してしまったこの感情を誤魔化したいなら、「好きな人なんていないよ」って笑い飛ばせばいいんだってことも同時に。
私は、自分の感情を表現するのも、誤魔化すのも苦手だった。でも、今ならわかる。それは間違いだって。私は、一人で自分の心を閉ざしていただけ。胸の内に秘めた悲しみや辛さ、醜い嫉妬の感情を見られたくなくて、ずっと心の扉を閉ざし、隠していただけ。
寂しかったから、見た目だけは派手に自分を演出した。
辛かったから、必死で瞼を閉じた。
悲しかったから、必死で耳を塞いだ。
けど、私の心の扉をみんながノックした。醜い心を覗かれたくない私は戸惑い、開き始めた扉をもう一度きつく閉ざした。でも、最後まで諦めずにノックをし続けてくれた人がいた。
ふと気づいたら、私の心の扉、完全に開いていた。
私は自然に笑えるようになって、自然に泣けるようになった。今泣いているのはとても嬉しいから。今流れている涙は、阿久津君の為に流す涙。
私、ようやくわかったの。自分の本当の――気持ち。
『私の好きな人――』
『――待って』言おうとした私を、彼の言葉が遮った。『訊いておいてなんだけどさ、やっぱオレも大切な人の名前言うわ。桐原にだけ言わせるの、卑怯だと思うから。……だから、二人で一緒に言おう』
うん、わかった。自分の意思を伝えるため、私は深く頷いた。既に視界は滲み始めていて、彼の顔も歪んで見える。
せーの……、二人で一つ深呼吸をすると、打ち込んでおいた”答え”を送信した。
『オレ、桐原のことが好きなんだ。オレの恋人になって下さい』
『フラれたばっかりでこんなことを言うと、軽い女だって嫌われそうだけど、私わかったの。私、阿久津君のことが好き』
気がつくと、私は抱きしめられていた。もう、いつも唐突なんだから、と呆れながらも、彼の背中に両手を回す。身体を寄せてみると、ブラウスの薄い布地越しに、彼の形が、熱が伝わってきた。
あはは、と、どちらからともなく笑みが零れた。次の瞬間、何を、と驚いた表情を浮かべる彼を無視してそのまま唇を重ねた。一度離れると、桐原、とでも言いたげに、彼の唇が微かに動く。
『言ったでしょ? 私、悪いコトがしたいって。これから阿久津君に、”悪いコト”するから』
『ああ、そっか。うん――しよっか。悪いコト』
彼の返事が戻ってくると同時に、私達は再びキスを交わした。
悪いコトだから、二度目にして大人のキスだ。自分でも、自分の大胆な行動に驚いていたけれど、斗哉君の頭のなかを、とにかく私で一杯にしたかった。こんな気持ち、生まれて初めて。
ずっと抑え続けていた想いが、熱い血潮となって溢れ出してくるみたい。熱くて、苦しい。でも、凄く心地いい。身体が全然、私の言うことを聞いてくれない。
ごめんね。本当は、ずっと前から気づいてた。
斗哉君の心の扉。もうだいぶ前から”全開だった”こと自体には。だから晩熟な私でも気持ちをぶつけられた。だから、思い切りあなたに甘えられる。
私は、弾んだ吐息も乱れた息遣いも隠すことなく、全身を包み込む温かさに夢中で顔を埋めた。
――いつまでもこうしていたいと、強く願った。幾筋かの、流星が流れる星空の下。




