『桐原悠里のトラウマ①』
季節外れの雨の日が続いていた。
「梅雨でもねえのに、どんだけ降るんだろうな」と教室の窓から外を睨みながら二階堂が愚痴を零すと「まったくだ。湿気で俺の脳みそまでふやけてしまう」と太田が同意を示し、「ふやけるだけの質量があれば宜しいのですが」と即座に優花里が皮肉を述べた。
文化祭で行う演劇『ロミオとジュリエット』の稽古も、いよいよ佳境にはいっていた。残された調整ポイントほんの僅か。演劇はチームプレーの言葉通り、主要キャストらの呼吸の確認をして、演劇の精度を高めていくだけだ。あとは精々、音楽を流すタイミングの調整だろうか。
桐原の台詞を裏から代弁する役目を名乗り出た俺、阿久津斗哉は、柄にもなく多少の不安を抱えていた。もっとも、ステージ袖でふんぞり返り、台本を丸々読み上げてもオーケーな仕事なので、正直肩の荷は軽い。「多少の抑揚はつけてもらわないと困るんだけど」と、そんな注文をたびたび美也から付けられもしていたが。
全ての準備は滞りなく終わり、後は本番の日を迎えるだけ。誰もが、そう思っていた――そう、そのはずだった。
今になって思い返すと、綻びが生じる予兆のようなものは確かにあった。ただ単に、見落としていただけの話。俺も、クラスの面々も。
一つ目の予兆。
それは、急速に懇意な関係となった、広瀬慎吾と渡辺美也の存在だ。
二人の関係に変化が見られたのは、夏休み明け間もなくだろうか。親密な関係に移行した事実を、二人は隠そうともしていなかった。肩を並べて登下校を繰り返したし、教室にいる時間帯も、それとなく行動を共にする頻度があがっていた。
別にそれは良い。二人の関係が深まっていくことを咎める権利は誰にもないし、懇意にすること自体にも、何ら問題はない。
問題があったとするならば、それと時期を同じくして、桐原が孤立を強めていた事実を見過ごし、また、事態の悪化を予測できなかった俺かもしれない。
そう、二つ目の予兆は、言うまでもなく桐原悠里に起こった行動の変化だ。
今週月曜日の下校時のことだ。
学校から宇都宮の駅まで向かう途中にある歩道橋。その上に、物憂げな表情で佇んでいる桐原の姿を俺は目撃する。真下を行き交う車の列に、視線を落としている彼女の顔はどこか虚ろで、瞳の焦点が合っていないように見えた。
そのとき俺は思い出した。ここ数日、熱を帯びたように舞台稽古に取り組んでいた桐原の姿を。彼女の演技は以前にも増して情熱的であり、あの優花里ですら、彼女を手放しで絶賛していた程だ。
それなのにだ。
舞台稽古が終わり、ジュリエットと言う役から降りた瞬間、桐原は上の空になってしまう。誰が話しかけても反応は鈍く、見当違いな答えを返した。かと思えば突然笑い出してみたり、明るく振る舞ったりもした。なのに、そんなテンションは長続きせず、再び物憂げな表情に戻る。
突然鳴り出す目覚まし時計のようでもあり、糸がぷっつりと切れてしまった操り人形のようでもあった。
授業中も力なく項垂れ、茫然と黒板を見つめていることが多かった。誰とも交流を図ろうとせず (とはいえ、彼女は元来積極的な性格ではない。これがより事態の悪化を見過ごす要因となった)、露骨に肩を落としている桐原の姿は、やけに痛々しく見えた。ジュリエットという虚構の姿の中でしか、最早彼女は生きられなくなっている。そんな不安を、俺に抱かせていた。
いずれも危険な兆候だった。俺は、双極性障害──いわゆる、躁うつの症状によく似ていると感じていた。
そしてこの日、歩道橋の上からずっと真下を覗き見ていた彼女も、教室で見るときと同じく虚ろな表情だった。一時でも目を離すと、次の瞬間、車道に吸い寄せられて落ちてしまうのではなかろうか? そんな悲壮感すら漂っていた。
なぜだ――? と俺は自問する。
諸々の情報から考えを纏めようとしても、脳が上手く機能しない。必死に手を伸ばしてみるも、思考の中に答えは見当たらない。
明らかに相反して見える桐原の姿と行動に、俺は激しく動揺し、そして困惑していた。
桐原。
おい――桐原!
それでもなお、声すら掛けられない自分の叫びだけが虚しく心中で木霊する。
結局、気の利いた台詞をかける勇気すら出なかった俺は、俯いたまま重い足取りで自宅に戻る。
夜になっても気持ちが晴れることはなく、宵の内も過ぎた頃合になって、ようやく俺は行動を起こした。
彼女の親友である楠恭子に、『時間があるときで良い。桐原と一緒に下校してくれないだろうか?』とLineでメッセージを送る。彼女は俺の願いを快諾し、これで一応の解決は見るだろうと安堵し、その日は布団に潜り込んだ。
もし月曜日、なぜ桐原が家に”帰らないのか?” ではなく、”帰れないのか?”と考えることができていたら、もう少し早く、事態の悪化を食い止めることができただろうか?
続く火曜日、桐原は学校を休んだ。
舞台主役の突然の欠席に、クラスメイト達にも若干の動揺が走る。それでもまだ、彼女は体調不良で休んでいるだけだろう、という楽観した空気が流れていた。
しかし彼女が二日連続して学校を欠席し、三日目となる木曜日の朝も、桐原の姿が教室になかったことを認めると、流石にクラスメイトらの間にも強い動揺が広がり始める。
「ねえ。このままじゃまずいのではありませんこと? 文化祭まであと四日しかありませんのよ? 本当に桐原ちゃん、学校に来るのかしら? まあ、いざとなりましたら、アタクシめが代わりにジュリエットを演じて差し上げても宜しいのですが?」
昼休み。どこかお道化た口調で声も高らかに宣言した優花里だったが、美也に「アンタに出来んの?」と真顔で突っ込まれると、すぐに口を噤んだ。
まあおそらくは、いつものように場を和ます為の道化であり、本心ではなかったのだろうが。
「でも、ヤバいのはホントだよ。ねえ、二階堂、ちょっと先生に事情を訊いて来てよ。なんで桐原が休んでいるのかさ?」
「いや、実を言うと、もう訊いてきたんだ」
果恋の不満そうな声に二階堂が答えると、とたんにクラス中の視線が彼に集中する。不意に注目を浴びたことで二階堂がらしくもなく狼狽える。
「初日こそ無断欠席だったらしいが、昨日、ようやく学校に連絡が入ったらしい。『体調不良で休ませてください』と」
「なんだ、体調不良か。なら大丈夫だな」と太田が安心したようにふんぞり返ると、即座に優花里が呆れ声で呟いた。「楽観的ですわね」
「体調不良って……本当? 風邪とか腹痛とか、そんな感じなの?」
と美也が、未だ表情を曇らせているみんなの疑問を代弁した。
「いやそれがさあ。体調不良としか伝えてこなかったらしい。だから桐原が、どんな症状で休んでいるのか、誰にもわからないんだ」
「なんだよ……親だったら、それくらい把握してろよな」
俺が二階堂の要領を得ない説明に不満を漏らすと、彼は苦々しい顔でこう言い添えた。
「それが……」
都合悪そうに二階堂が言葉を切る。一度周囲に視線を配ってから続けた。
「先生の携帯にメールで連絡を寄越したのは、親じゃなくて”桐原本人”なんだ。これを不審に思って、『どんな病状なんだ?』と先生は桐原に返信してみたらしいが、適当にはぐらかしてばかりで、ちゃんと答えなかったらしい」
「いや……それはオカしいだろ」と、これは太田。
「本当ですわ。本人が答えられない体調不良って、いったい、どんなものなんですかね?」
珍しく神妙な面持ちになって眉間に皺を寄せると、隣に座ってる慎吾に優花里が視線を送る。
「慎吾君。あなた、何か心当たりはございませんの?」
美也が心配そうに見守る中、慎吾は周囲を見渡しながら、慎重に口を開いた。
「いや、何で僕に話を振るんだよ? 桐原さんの体調のことまで、把握できてるわけがないだろう?」
「本当に、体調不良なら良いのですが」と視線を外した優花里を他所に、ここまで傍観していた果恋の怒りが爆発する。「なんで? 心当たりくらいないの!?」気の強い彼女が久々に上げる怒声に、みんなの視線が集中する。
「だって広瀬は、今でこそ美也と付き合ってんのかもしんないけど、それ以前は桐原さんと仲良くしてたでしょ? アンタが彼女のことをどう思ってようが勝手だし私が口出しすることじゃないけど……ちょっと冷たくない? 少なくとも桐原さんは、アンタのこと好きだったでしょう? 間違いなくさ!!」
「桐原さんが、僕のことを……? まさか、そんな」
自分の発言が、一方的で筋の通らないものだと思ったのだろうか。果恋は苛立ち混じりに机を叩くと、乱暴に椅子を引いて腰を下ろした。
ともするとそれは、果恋の一方的な感情の爆発、もしくは八つ当たりのようでもある。しかしながら、桐原が慎吾に好意を寄せている事実は、傍から見ててもわかるものだった。故に、果恋の発言を否定する者は誰もいない。
そうだよ、何か聞いてないのか、心当たりはないのか、と周囲からも声があがるなか、ただ狼狽えている慎吾を見ているうちに、俺の心に暗い感情が湧きあがってくる。
「お前がそれを言うのかよ……」
「斗哉!?」
驚いた美也が俺の顔色を窺ってくるが、わき上がる負の感情は溢れ出し、既に歯止めが効かなくなっていた。勢いで立ち上がると、慎吾の胸倉を掴み上げる。
「なんだよ、手、離せよ」と抵抗する慎吾を無視して、俺は不満をぶつけていった。
「どれだけ……桐原がお前のことを見ていたのか、知らないなんて言わせないぞ。俺は……桐原と仲良くして欲しいと言うつもりも、好きになってくれと願うつもりも毛頭ない。それはあくまでも、お前の選択だからだ。でも……」
不意に、花火大会があった日の夜。泣いていた桐原の姿が脳裏に浮かぶ。
両の拳が、わなわなと震えた。
「……あの子の気持ちを知らなかったなんて言ってやるなよ。それをお前の口から……言うんじゃねぇよ……!!」
震える手で慎吾を突き飛ばすと、鞄を抱えて教室を飛び出した。「待てよ斗哉!」という二階堂たちの叫びも置き去りにして。
当てもなく駆け出しながら俺は思う。
──みっともねえ。
慎吾の奴もそうだけど、桐原の心の奥底にひそんでいた”深い闇”の存在に気づきながらも、目を背け続けてきた自分の不甲斐なさが許せなかった。
目元を拭いながら廊下を走り続けていると、前方に楠恭子の姿を認める。俺は、がしっと彼女の左手をつかまえた。
「ひっ……阿久津君なに?」
恭子が怯えた声を上げる。
「スマン恭子。今から学校サボれるか?」
「え……、今から……? 無理だよ、そんなの」
「ゴメン、質問の仕方を間違えた。今から学校をサボれ。それから、俺と一緒に、桐原の家まで着いて来て欲しい」
「それ質問になってないよ……」
ええ……と難色を示していた彼女だったが、俺の真剣な表情と、桐原が不登校になっている現実から事情を察したのだろう。やがて観念したように頷いた。
「もう、強引なんだから。急いで荷物持ってくるから、少しだけ待ってて」
「スマン、恩に着る」
こうして昼休みの最中、通学鞄を抱えた俺たち二人は、人目を盗んで昇降口をでる。本当に三年生の大事な時期にサボりとか、何をやっているんだろうなと罪悪感に捉われながらも。
大通りを抜け、歩道橋を渡り、手狭な児童公園の前まで着いた辺りで、隣を歩く恭子が潜めた声で話しかけてくる。
「悠里の事情はだいたいわかった。でも、ただの風邪とか、そういう可能性は本当にないの?」
「おそらくない」と俺は即座に否定する。「何故ならばここ数日、物憂げな表情で塞ぎこんでいる桐原の姿を、何度も目撃しているんだ」
全く持ってその通りだ。むしろどうして俺はこの段階に至るまで、彼女の為に行動を起こせなかったんだろうか。
「そっか……。最近連絡しても、悠里返信をくれないんだよね。体調不良で頭回んないのかと思ってたけど、違うかもしれないね……」
恭子が、真夏の眩い日差しに目を眇める。
「なあ、桐原の家って、母親と二人暮らしなんだよな?」
「うん、そうだよ。お母さんの帰りが毎日遅いから、今はたぶん悠里しか家にいないと思う」
つまり今この瞬間、彼女が何をしているのか把握できている人間は、他でもない桐原本人だけということだ。その事実は、俺に嫌な妄想を加速させる。
「最悪の事態も、考慮しておかないとダメってことか……」心の声が漏れ出たことに、慌てて口を塞いだ。
「最悪の事態って、何?」と訊ねてきた恭子だったが、俺と同じことを考えたのだろう、そのまま口を噤んでしまった。
「そんなはずないよ。だって、悠里は広瀬君のことを好きだから。まだ気持ちも伝えていないのに、そんなはずないよ。うん、そんなはずない」
浮かんだ悪い妄想を打ち消すように、恭子は何度も『そんなはずない』と呪文のように繰り返した。
「でも、恭子だって知ってるんだろ? 慎吾の奴が、美也と付き合い始めたこと。お前だって美也とは友達なんだから」
「ああ……うん……知ってるよ」
それだけを呟くと、恭子は再び黙り込んだ。本音を言うと、笑い飛ばして欲しかった。このタイミングで二人の間に流れた沈黙は、俺の考えている悪い妄想を肯定しているように感じられ、なんとも居た堪れなくなってくる。間違っても早まるなよ桐原。それだけを俺は願った。
「もう一度、連絡してみるね」
一縷の望みを掛けて恭子が桐原にメッセージを送ってみたが、既読は付くものの、返事が戻ってくる気配はない。
再び沈黙が降りる。こうして項垂れるように歩き続けること十数分。ようやく、桐原家の前まで到着する。
「これが……」桐原家の様子を見渡しながら、俺は言葉を失ってしまう。
第一印象は、はっきり言って良くなかった。
築年数を感じさせるトタンの外壁は薄汚れ、家の周囲を囲む鉄柵には錆が浮き、庭の手入れも行き届いていない。家庭環境が、相応に荒廃している様子が見て取れた。
恭子は鉄柵を開いて玄関口まで向かうと、呼び鈴を何度か押した。ピンポーンとチャイムの音が幾度となく響き渡るが、家の中から応対する気配はない。止むなく引き戸に手をかけ何度か力をこめていたが、やがて諦めたように溜め息を漏らした。
「ダメ……誰も応対しないし、玄関にもカギが掛かってる」
「桐原は不在なのか?」俺が気後れするように言うと、恭子は「どうだろ?」と首を傾げながら、二階の窓を見上げた。
二階には窓が二つ見える。そのどちらもカーテンがきつく閉ざされていた。きっとその何方かが、桐原の自室なのだろう。
「たぶん、あたしの予想だけど、彼女は居留守を使っている」
「だろうな」と俺も同意した。「恭子と同意見だわ」
とはいえ、このまま帰るわけにもいくまい。『今、家の前に来ている。体調はどうなんだ? できればカーテンを開けて、姿を見せて欲しい』と俺は桐原にメッセージを送信した。暫く恭子と二人で成り行きを見守っていたが、やはり既読スルーされ、勿論のこと、カーテンが開く気配もなかった。恭子と顔を見合わせて溜め息を落とす。
「しょうがない、一旦戻ろうか」
呟き踵を返したそのときのこと。男性の声が正面から聞こえてくる。
「君たちは、悠里の友達だろうか?」
突然声を掛けられたことに驚き顔を向けると、家の前に黒色のセダンタイプの車が停まっており、その傍らにスーツ姿の男性が佇んでいた。
眼鏡をかけた実直そうな中年男性。年齢は、四十代半ばである家の親父より少し若いだろうか? そんな感じに見えた。
「友達……というか、クラスメイトです」慎重に言葉を選んで、こう返した。
「そうか、それは丁度よかった。私は悠里の父親で、菊地という者だ。少しだけ、話をさせて貰ってもいいだろうか?」
隣の恭子としばし顔を見合わせた後に、俺は首を縦に振った。




