『桐原悠里②』
前日から降り続いていた雨は、午後になってようやく止んだ。
大きく弧線を描いて、雨上がりの空に現れた虹を見上げる。
所々にできた水溜りを避けながら、慎重に、二人並んで歩いて行く。このまま真っ直ぐ帰る? と広瀬君が尋ねてきたので、公園に立ち寄っても良いかな? と返して向かっているところだ。
不相応な幸せは今日も続く。
傘から滴り落ちる雨水を切りながら、彼の横顔をそっと盗み見る。視線を外していたせいで、水たまりを踏んでしまって飛沫がぴしゃりと跳ねる。制服のスカートの裾に飛んで、「あちゃあ」と私は顔を歪めた。
彼はそろえた指先を、自分の左胸から右胸に移動させる。意味は、『大丈夫?』
私は同じ動作を、頷きながら返す。意味は『うん、大丈夫』
えへへと笑って照れ臭いのを誤魔化そうとして、途中でやめた。ぎこちない笑顔になっていたら恥ずかしいから。
私は、感情表現がそもそも得意じゃない。
聴覚障害のせいで喋れないのだから、言葉にして伝えられないのは当然の話。だが、そんな事情を差し引いたとしても、喜怒哀楽を上手く表情にだすことができない。
笑おうと思えばそこに笑う理由が。泣こうと思うならば、泣く理由を常に必要とした。私にとって愛想笑いなんてものは、最早フィクションでしかない。
もちろん、手話を用いさえすれば、『嬉しい』と表現することはできる。でもそれは『嬉しい』と、手指の動作で表すだけ。決して、私の顔が綻んでいるわけじゃないんだ。
感情表現が乏しいことも災いして、中学二年のとき私はイジメに遭ってしまう。切っ掛けは、わりと些細なことだった。
ある日から突然髪の毛を染め、控えめながらも化粧の真似事を始めた私のことが、クラスの男子のなかで話題になったらしい。そんな折、クラスの人気者だった男の子が、私のことを『気になる』と発言したことで、彼に好意を寄せていた女子生徒らの標的になってしまったのだ。
補聴器を隠される。机に落書きをされる。髪を引っ張られ、そして切られる。口もきけない癖に生意気だと、すれ違いざまに因縁を付けられることは、最早日常茶飯事だった。
それでも、私は言い返さなかった。ママにも相談しなかった。
ママの心配事を増やしたくなかったし、一々筆談で言い返すのも労力を伴うことだったし、何よりも、そんな現実を諦めて受け入れてた。
ところが、そんな私を庇ってくれたのが、楠恭子だった。庇ったことで恨みつらみを買い、その後イジメの矛先が恭子に変わってしまったことで彼女も酷く苦しんだけれど、それでも彼女は変わることなく友達でいてくれる。
だから私は、今でも恭子に頭が上がらない。
あの日から私は色々なことを諦めつつも、少しずつ自分の性格を変えようと努力し始める。
思えば今、広瀬君と懇意な関係を築けているのも、恭子が私の傍らで助言をし続けてくれたから、なのかもしれないな。
そんなことをぼんやりと考えてるうちに、公園に到着する。
学校から帰る途中にある、キャッチボールをするのも辛そうな、幾つかの遊具とベンチだけが存在する手狭な公園だ。私は、この場所に住み着いている野良猫に、時々構ったり餌をあげたりしている。
去年の秋頃だったろうか。公園の前を通りがかったとき、ガリガリに痩せ細った子猫をベンチの脇で見つけた。ママが猫アレルギーなので飼うことはちょっと難しい。だから構うつもりなんてなかったし、感情移入するなんてもっての外だと思っていた。でも、猫と正面から目が合ってしまったら、思わずお菓子をあげてしまってた。
それからたびたび、この場所に立ち寄っては餌を与えている。
おいで――と、手を差し伸べてみると、今日も猫が寄って来た。ちょっと痩せ気味の、トラ毛のオス猫。
高校生なのだから、当然小遣いだって限られている。時々キャットフードを鞄に忍ばせていることもあるけれど、今日は弁当の残り物。ミートボールの食べかけしかないけど我慢してね。
私の手から餌を食べながら、猫は頭を摺り寄せてくる。ふふ、可愛い。
『なんだか、桐原さんに懐いているみたい』
『餌をあげているからだよ。あげなくなったら、段々と離れていくよ』
『冷たいなあ、そんなもん?』
『そんなもんよ』
私は動物がわりと好きだ。その中でも特に猫。余計なことは喋らないし、過度に人に甘えることもない。見方によってはドライな性格にも思えてくるけれど、その行動理念はどことなく自分と似通っているから親しみもわく。
『名前とか、付けてないの?』
『無いよ。だって……どうせ家じゃ飼えないし』
『ああ……そっか。僕の家で飼えると良いんだけどね……』と彼は少し考え込む。『親が猫アレルギーだから、許可してもらえないだろうな』
『広瀬君の親も猫アレルギー? なんか奇遇』
と私は笑う。
『うちの親もアレルギー持ちだから難しいかな。それ以前に、日中は家に誰もいなくなるからね。でもどうだろ? 猫は縄張りを作ってその土地に住む習性があるから、家まで連れ帰ってもそもそも馴染まないかも』
『そうなの?』
『そうだよ』と私は同意を示した。『でも、猫ちゃんが家にいてくれたなら、今よりも賑やかになりそうなんだけどな』
そんな事を語りながら、自分でも矛盾しているかなあ、とぼんやり思う。
熱心に頼み込めば、多分ママは折れてくれる気がする。家は小さい借家だけど戸建てだし、日中家に誰もいなくなるのは確かだけれど、そもそも猫は縄張りに住む動物。たとえ家主が不在でも、その間はなんとでも生きられる。
家族が少ない我が家の一員に猫が加わってくれれば、辛い気持ちが紛れることもあるだろう。それなのに、どういうわけか私は前向きに検討できない。
結局のところ、どこか自分の行動と似通っている”猫”という動物を、傍らに置くこと。また、直視することを避けているのかもしれない。
はは、やっぱり臆病だ。
『名前なんて、適当につければ良いじゃん? トラとか』
『単純』
『じゃあ、ライオン?』
『つまんないよ。広瀬君』
私はふふっと笑った。笑った後で驚いた。なんで自然に笑えたんだろう、私。広瀬君がいるから、なのかな? それとも猫といるから、なのかな?
褒められているとでも思ったのだろうか、そのトラ毛の猫は、私の手をペロペロと舐めながら「にゃあ」と鳴いた。
『やっぱり桐原さん、最近よく笑うようになったね』
『え、私が?』
笑うようになった? 彼の言葉はあまりにも意外で、思わず反芻してしまう。
もう何年も、心の底から笑った記憶がない。あれだけ長時間、鏡の中の自分を毎日見つめているのに、意識して笑顔を作ってみたこともない。だから自分の笑っている顔を、上手くイメージできなかった。
そもそも私は、いつから笑えなくなったのだろう?
少なくとも小学生の頃。パパがお土産を買ってきてくれたときや、長い休みが取れたんだ、と家族揃って過ごしていたときは、ごく自然に振る舞い、そして甘えられていたはずだ。
パパだけじゃない。それはママにだって同じこと。
そうか、と私は思う。
私が笑えなくなったのも。泣けなくなったのも。親に甘えられなくなったのも。
もしかすると──濃い化粧をするようになったことすらも、自分の表情を覆い隠す為、なんじゃないのかな──と。
『どうしたの?』と広瀬君が私の顔を覗きこんでいるのに気がつき、私は大いに取り乱す。『なんでもないよ』
ならいいけど。そんな表情で彼は一旦視線を戻すと、しゃがみ込んで猫の頭を撫でた。
『もしかしてだけど、桐原さんは障害を持っていること、ハンディキャップだと思ってる?』
『うん。耳が聞こえたら良いのになって、いつも思ってる』
『なるほどね』と彼は頷いた。『耳が聞こえた方が良いのは、確かにそうだね。でもそれは、桐原さんの個性の一つ、なんじゃないかと僕は思うよ』
『個性?』
致命的な欠点なのに、個性? 私は深く首を傾げる。
『そう。人はみんな完璧じゃない。色んな悩み事だったり、痛みだったり、後ろめたい過去や罪を抱えて生きている。僕だってそれは同じこと』
彼は立ち上がると、学校を出たときよりも遥かに強くなった西日に目を細めた。
『でもそれは、みんなが抱えているもの。誰でも持っている欠点の一部。桐原さんの聴覚障害だって、そんな欠点、もしくは個性の一要素。そう考えてみたらどうだろう?』
『個性……私の』
そんな風に考えたこと、一度もなかった。障害は自分にとっても家族にとっても、疎ましいものとしか考えてなかった。
その時猫が、私の足元にすり寄ってきた。よしよし、もう一度しゃがみ込んで、猫の頭を撫でてあげた。
彼も私に倣って隣にしゃがむ。
『やっぱり桐原さんに懐いてるよ。猫、好き?』
『うん、好き』
『もし生まれ変われるとしたら、猫になりたい?』
『う~ん……』
たぶん、冗談なんだろうな、と思いながらも、真面目に考えてみる。そして、こう答えた。『男の子、かな』
『男の子の猫?』
『猫から一旦離れて』
凄く真剣な顔でそんなことを言うもんだから、思わずあはは、と笑ってしまう。すると彼は満足そうに笑みを浮かべ、こう言った。
『これで今日のノルマ達成』
『ノルマって?』
『一日一回、桐原さんを笑わせるのが、目標なんだ』そう言って、にやっと歯を見せた。
驚いて彼の顔を窺うと、西日に照らされた横顔は、ほんのりとオレンジ色に染まっていた。
不意に彼は立ち上がると、公園の奥側にある遊具の一つを指差した。どうやら、鉄棒をしようと誘っているらしい。
私をエスコートしようとした広瀬君の制服の袖口をぐいと握る。
『無理だよ』
『どうして?』
だって私……そう思いながら、自分の足元を指差す。『スカートだから』
『ああ、そっか』
『……見たいの?』
ところが彼、キョトンとした表情を浮かべて答えた。
『何を?』
『何でもないよ……』
もう、鈍感。意気地なし。君も、そして私も。
拗ねている私を置き去りにして彼は鉄棒にぶら下がると、そのまま二回、三回と逆上がりで回った。
次第にオレンジ色から紺色に変わり始めた空を眺めつつ、鎖に錆の浮いたブランコに腰を下ろす。ふと気が付くと、トラ毛の猫がじっとコチラを見つめていた。私の存在など眼中にないようでもあり、背中側の景色、そのまた向こうを見据えているようでもあり。
無機質で、無表情で、こちらの意図を見透かしてるようで、けれども、何かを隠しているような丸い瞳。
先程からずっと痛み続ける胸に手を置き考える。私が生まれ変わったら男の子になりたい本当の理由。
それはね、君ともし同性だったなら、こんなにも苦しくて辛い想いをしなくて済むからだよ。
あなたも何か隠し事をしているの? とこちらをじっと見つめる猫と目を合わせた。
私の隠し事。
それは、他人の心の扉が自分に対して『開いているか否か』それが分かる能力。
思えばこの能力があったからこそ、中学で苛めにあった時も、近づいて良い人物と駄目な人物を無意識のうちに選別できた。だからこそ、被害をある程度軽減し諦めることができていた。
鉄棒の上で笑顔を見せる広瀬君の顔を見る。彼の心の扉、今日もしっかり開いている。初対面のバイクに轢かれそうになった一件のときもそうだった。
彼の顔は怒っているようだったけれど、一方で心の扉は開いていた。だから、ああ、私を心配してくれてるんだ、と直ぐにわかったよ。
音が存在しない世界に住んでいる私に、神様が唯一授けてくれた能力。
役に立つようで、案外役に立たない能力。むしろこの力のせいで、過度に人の顔色を窺う癖が付いた、とすら言える。
人の恋心もわかればいいのにな、と、今度は鉄棒にぶら下がった彼の横顔を見つめ私は思った。




