第1話 ある王女の決断
エルラント王国 首都パリーツェ 宮殿
戦争中にある国だが、人々の感覚は平時より少しだけ不便、という感覚であった。
小国であり、もともと保有していた兵力の少なさから戦争へ駆り出される若者が少なかったこと、そして農業や紡績業が盛んであり、生活の豊かさを担う衣食住が維持されていたことが国民にそう感じさせる理由である。
特に首都パリーツェは各地方、国外から商人があつまる交通の要所であり、経済活動の面から言えば平時とさほど変わらない。
王国の南部に位置するパリーツェは、冬の寒さは厳しいが、その期間は短く、この時期であればまだ雪は降っておらず、比較的温暖である。北を流れるコルステン川と南を流れるドール川が街全体の水道事情を支え、街並みは白い石造りで角の丸い窓が特徴的な、メリル様式と呼ばれる建築様式で統一されている。
帝国がラギア法国に宣戦を布告し、法国が連合に加わることとなったのが国民に知らされたのが、三日前の事である。連合統一新聞が伝えるのは、戦争が好転するとする“あきらかに”情報統制されたプロパガンダである。しかし、悲しいかな、戦争の情報を知る由がない最後方にいる国民にとって、その情報こそが正しいものであった。
街の西部にある広大な緑地では朝からの快晴の恩恵にあやかろうと日光浴を楽しむ人々が多く訪れていた。
そんな緑地の中に王国宮殿は存在する。名を、ファーリエンブラ宮殿である。
太古の昔より、建築技術と装飾技術においては、エルラント王国は他国より優れている。鉄やガラスによる作り出される絢爛豪華、かつ繊細な装飾が施されるリーデンス様式の建築物は誠に見事なものである。
この建築様式は、主に宮殿や教会に使用され、技師カロン・フォン・リーデンスの名前から取られている。
ファーリエンブラ宮殿もこのリーデンス様式で建てられている。
世界広しと言えど、これだけ細かな装飾が“過剰に”施された宮殿はここだけだろう。
ーーーーー同盟側と連合側はよく比べられることがある。軍事の技術においては帝国側に軍配があがり、芸術においては連合側に軍配があがる。
しかし、どちらも豊かさをもたらしていることに間違いはない。
同盟側は軍事技術の副産物としての技術的発展である。対して連合側は芸術の発展による精神的発展である。
そんな宮殿の一室の窓際にある椅子に、ひとりの女性がぼんやりと外を眺めていた。
椅子の隣には彼女のために用意された紅茶とお菓子が置かれているが、口が付けられた形跡はなく、湯気は失われ、冷めているのがわかる。
整えられていないブロンドの髪は、かつての輝きと艶を失っている。寝間着姿の彼女は脱力感と倦怠感、そしてどうしようもなく無力感に襲われていたのだ。
「クリスティーナ様、そろそろ何かお食べにならなければ、お体を悪くしてしまいます」
使用人の一人が問うた。
日が昇る前、紅茶とお菓子を頼まれた使用人は、やっとか! と安堵したのだが、そこから2時間が経過したが、手をつけた様子はない。
それどころか、まるで魔女がくしゃみをしたかのように、彼女のいる部屋の時間は止まっていた。
「嗚呼、ごめんなさい。頼んでおいて。アリエ、今日は体調が優れないから、部屋からは出ないわ」
「かしこまりました。新しい紅茶をお持ちいたしますね」
「.........ありがとう」
アリエと呼ばれた使用人は部屋を出るときに、彼女のことをもう一度見た。
ーーーーーああ、なんとお可哀想に。これでは、まるで.........
彼女、クリスティーナ・アンリエット・エルラントが宮殿に戻ってきたのは、帝国がラギア法国へ宣戦を布告した日である。
それまで彼女の居場所は、ローゼラント王国の宮殿であった。
クリスティーナは今年22歳となる歳であるが、この歳は彼女の人生に2つの衝撃を与えた。
ーーーーー1つ目は、婚約である。
彼女の22歳の誕生日の翌日のことである、ローゼラント王国次代国王候補である、ロテール・デュラン・ローゼラントがクリスティーナとの婚約を申し込んだのだ。
大国ローゼラント王国の国王候補、それも最有力とまで言われているロテールからの婚約申し込みである。
小国エルラント王家からしてみれば、その力を拡大するため、願ってもない申し出であった。しかし、この婚約は、“政略”である。
政の政策であり、私事は含まれない.........男の方は含まれるかもしれないが。
「どうして、私が.......」
彼女はこれまでに幾度となくそう繰り返している。
ーーーーー2つ目は、婚約発表の場でロテールが何者かによって暗殺されたということである。
彼女はあの日のことを今でも鮮明に覚えている。
集まった群衆、降り出す雨、乾いた土地に雨水が染み込むことで発生した独特の匂い、そして、もう諦めるしかない、という絶望感。しかし、その感覚はすぐに上書きされる。
グチャリ、という果物を潰したような音、トマトを地面に投げつけたように広がる赤色。
そして、沈黙とその後に訪れたたくさんの悲鳴。
ーーーーーまるで、彼女の“願い”を神が聞き入れたかのように目の前でロテールは崩れた。
顔がぐちゃぐちゃになった、ロテールであったものをぼんやりと眺めたあと、強い脱力感とほんの少しの“安堵感”に満たされた。
ーーーーー婚約は白紙、クリスティーナはまるで邪魔者のようにローゼラント王国を追い出され、故郷であるこの地に帰ってきたのだ。
今の彼女を苦しめるのは、悲劇のヒロイン、のように周りが接することである。
“最愛の夫を失った”悲劇のヒロインとして扱われているのである。
統一新聞の一面を飾ったのは必然であったが、彼女はその記事に不満を抱いていた。彼女の不満の種は、〔帝国への憎悪を一層強められる〕という一文である。
帝国の仕業と書かれていたことで、自分を解放してくれたのが帝国の軍人であったことを初めて知ったのである。その面では、絶望から救ってくれたと感謝の感情まで持ったのであった。
ーーーーー彼女を苛立たせているのが、絶えず押し寄せる縁談の話であった。不謹慎極まりないが、それでも断ることなく保留にしているのは、エルラント王国の貴族が関与しているからだろう。
当人の彼女にとっては、至極どうでもいいことだ。
恋愛、縁談、結婚相手、昔は希望や期待を抱いたものだが今は、もううんざりだ! と言葉にしないながらも、何度も唱えていた。
「もっと、目的がある生き方をしたいですね」
政治の道具は懲り懲りだ、貴族の顔色を伺うのは懲り懲りだ、自分の感情を殺すのは懲り懲りだ!
立ち上がった彼女は、湯気が失われ、冷たいとも感じる紅茶を一気に飲み干した。
ーーーーーー嫌ならやめてしまえばいい話じゃない! 私は、自由に生きたい!!
体型を気にしてあまり食べていなかったお菓子を口いっぱいに頬張る。
彼女の中で何かが壊れ、何かが作られた。
「誰か居ますか? 」
「どうかなさいましたか? 」
彼女の声に応えるものはすぐにいた。
アリエである。クリスティーナ専属である彼女は、新しい紅茶をちょうど持ってきたのである。
「アリエ、出かけます。着替えを持ってきてください」
「かしこまりました。どちらへ向かわれますか? 」
アリエは自分の仕える主人の表情や声質が明るいものになったことを喜ぶ。
しかし、その時間は長くは続かない。
「お父様のところへ、です。正装は必要ありません。軍服を用意してください」
「軍服、ですか? 」
「ええ、そちらの方が動きやすいですからね」
宮殿は広大な敷地である。クリスティーナのいるところから、国王バランテァスが住む場所までは馬車で移動する必要がある。家族であるからといって、国王に寝間着姿で会うわけにはいかない。
しかし、彼女は軍服を用意するように言った。
第一王女であるクリスティーナは名目上、軍隊指示権を持つ。
もちろん、“指揮権”ではなく“指示権”であるため、書類上のものでしかないのはいうまでもないことだ。
ーーーーー最近は着飾ったドレスばかりでしたから、私にはこちらの方がいいですね。
アリエが用意した軍服を身に纏い、鏡の前に立つ。ブロンドの髪は束ねられ、彼女が持つスラリとした体格が軍服と合間って、上品かつ気品のある姿となる。
「馬車の用意ができました」
思っていたより早く支度ができたようだ。国王も多忙な身であるが、傷心の娘を優先したのであろう。二つ返事で、謁見が許可された。
「おお、愛おしいクリスティーナよ。立ち直ったのであるな」
部屋の扉を潜った彼女への第一声がそれであった。クリスティーナの母親は3年前に病死している。
王と王妃は大層仲がよく、側室はいよいよ取らなかった。3人の娘がいたわけだが、男児には恵まれなかった。
「しかし、どうして軍服など? お前にはドレスの方が似合うと思うが」
「お父様。本日はお願いがあり参りました」
崩れた言葉で話す国王、バランティスに対して、彼女は“軍人のように”振る舞った。
「私は、今日まで第一王女としての役目を果たすべく生きてまいりました。しかし、私は感じたのです。ドレスや化粧をして着飾り、殿方のご機嫌とりをすることは私には向いていないということを。ーーーーーお父様、私は自分自身を犠牲にしたくないのです」
クリスティーナは父親の目を直視した。その視線には強く、鋭い決意が含まれていた。
「犠牲だと? 」
「はい。“好きでもない”相手との結婚など、私は望んでいません。権力欲しさの結婚など私は望んでいません。私は、王族として、国民のためになることがしたいのです」
「何と! 」
バランティスは驚き、否定しようとしたが、彼女は続ける。
「今日、この場に、この格好で来たことで察していただけたでしょう? 私は、誉れ高きエルラント王国国民として、“戦闘員”に志願いたします」
誰もが驚愕したことは言うまでもないことである。
「ク、クリスティーナよ、何を言うのである。私を困らせたいのか? 」
バランティスの言葉には、驚きとともに怒りが含まれていた。
「私は、本気です………このまま女として“腐る”のであれば、国のために命を捧げた方が幸せです。覚悟を、ご覧ください」
跪いた彼女は、護身用の短剣を取り出したと思うと、束ねた髪を手で持ち、勢いよく切り取ったのである。
「何をしているのか!! 」「クリスティーナ様!! 」
ご乱心か! と疑う行動であったが、時既に遅しである。肩にもかからない短さとなった髪は、彼女の手に持たれた髪よりも短かった。
「これが、私の覚悟です。“国王陛下”」
ーーーーーもはや、誰も言葉を発せられなかった。
男性優位の王族貴族社会で、女性は権力のための道具であることが多い。バランティスは自身の娘を道具のように扱ってはいないが、戦争の真っ只中にあり、国としての力を高めることを優先するため、彼女たちの幸せを二の次にしてしまっていることは自覚していた。
しかし、死ぬ可能性が高い軍の、それも戦闘員に志願するとは思いもしなかっただろう。
「本気で、あるのか? 」
「はい、私は国民のために戦います」
変えることはできない、と彼は自分の娘の瞳を見て実感する。
今の世の中、女性の兵士というのは珍しくない。というより、男性より女性の方が魔法適性に長けていることが多く、重宝される。
そして何より、クリスティーナには高い魔法適性があったのだ。軍としては喉から手が出るほど欲しい存在であろう。
………どうして、こうなった。
部屋を去った娘のことを思い、バランティスは、溜息を吐いた。あのような、くすんでいない娘の瞳を見せられて、バランティスに拒否することができようか、否、できない。しかし、どうして彼女をそうたらしめたのか、父親であったとしてもわからなかった。
帝国への憎悪か、それとも婚約者の死がそこまで彼女を追い込んだのか。
どうしても、答えが見つけられなかったのだが、この話が宮殿ではなく、街の大衆酒場でされたのならば、その場の誰もが彼女の心の中の想いに共感しただろう。
政略と自慢、媚び諂いでガチガチに固められた、貴族社会に浸っているからこそわからないのである・
これが、帝国に婚約者を殺された一人の王女の決意である。
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