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9 関係性(桔梗子)

「はい。では、目を開けて……」

 声が聞こえる。橘卯月たちばな・うづき医師の声だ。だから、ゆっくりと目蓋を開く。最初はぼやけた視界の中に痩身端麗な橘医師の丸い笑顔が浮かび上がる。首を二、三度緩く振り、

「菖蒲子からですか」

 推理して尋ねる。

「正解よ。あなた(桔梗子)と董子さんは良い患者じゃないですからね。職業柄、あなたが忙しいのはわかりますが……」

 特に責める口調ではなかったが、橘医師がそう言うので、

「申し訳ないです」

 素直に謝る。習慣的に腕時計を見る。午後七時数分過ぎ。

「不安定ですか」

「不安定ですよ。一日に三人が入れ代わっていますからね。さっきの催眠では董子さんは訪れませんでしたが、菖蒲子さんのお話からすると……」

「原因は……」

「あると思いますけど、お二人に自覚はないのでしょう。精神科医的に推理すれば、現在担当されている事件の可能性が高いと思えます。ですが催眠状態でそれを聞き出すわけにもいかないでしょう」

「警察官で申し訳ありません」

「それは最初からわかっていることよ。気にしないで……」

 橘医師とわたし(桔梗子)は、わたしが精神錯乱状態に陥ったときからの付き合いだ。彼女がいなければ、あのとき、わたし毀れてしまったかもしれない。もっとも、あの事件のことは、わたし自身の体験として、わたしの記憶に刻まれていない。後に新聞記事や警察で纏められた資料を通じて知った他人の体験として、わたしの中に捉えられている。事件を実(追)体験したのは董子で、董子がそれに耐え切れなくなったとき菖蒲子が生まれる。だから――血を見るのが嫌いだったり、どちらかといえば他人と付き合うのが苦手な引き篭もりタイプだったりしたが――精神的には、わたしたち三人の中では菖蒲子がいちばん強い。だから彼女が主張することにわたし(桔梗子)はできるだけ耳を傾けるようにしている。

「では改めて伺いますが、今回の事件はあなたたちの事件と似ているのかな」

 橘医師がわたしに尋ねる。

「この先どう展開するかわかりませんが、現時点では似ている要素はないですね。人が殺されたということ以外は……」

「しかし、あなたの刑事の勘はそれに類似を感じている」

「さあて、どうなのでしょう。今回の事件では異常な死体が発見されました。ですが、あのときの死体は単に銃で撃たれたものでした。わたしの記憶からは零れ落ちてしまったので、後に関係者によって語られた証言に基づいた事実ですが……。ご承知のように、その後死体の一部が焼けてしまったので、上半身が火傷で爛れた写真しか見たことがありません。あれはきれいな死体ではありませんでした。今回のものは、ある意味、とてもきれいな死体です」

「ふうむ。……とすると、それが指摘できるのは菖蒲子さんということに」

 首を捻り、橘医師が考え込む。

「それで訪れたのかしらね。董子さんのすぐ後に……」

 ポツリとそう呟く。すると、

「いえ、わたしは全然そんなことは考えませんでした」

「あれっ、また菖蒲子さん……」

「はい。わたしにはときどき聞こえるんです。桔梗子と董子の声が……」

「ええ、あなたは最初からそうだったわね」

「先生、これ以上、桔梗子にあの事件のことを考えさせないでください。今は彼女の意識レベルが低いので、わたしが出て来られましたが、桔梗子が桔梗子のままでいたら毀れてしまったかもしれません。だから、またわたしが出てきてしまったんです。桔梗子が毀れたら、わたしは悲しく思いますし、董子は存在意義を失い、消えてしまうかもしれません」

「でも桔梗子さんは上手くその危機を乗り越えられるかもしれないわ」

「そうなると今度は、わたしが消えてしまいます。やはり董子と一緒に……」

「必ずしもあなたたちが消えてしまうとは限らないけど……。本当に消えてしまいたいとあなたたち自身が強く望めば別でしょうが……」

「本当にそうなのでしょうか」

「必ず、ということはありえないのよ。科学の世界でも人の心の世界でもね」

 僅かな間。

「そうですか。仰ることはわかりました。では今回、わたしは引っ込むことにします。桔梗子を宜しくお願いいたします」

「あっ、ちょっと待ってくれないかな。せっかくここを訪れて来てくれたんだから……って言っては何だけど、あなたは感じているの、事件の類似性を……」

「顔がないんです」

「……」

「先生もご承知でしょうが、わたしの……というか桔梗子の父親は彼女の目前で大口径の拳銃で背後から頭を撃ち抜かれて絶命しました。轟音とともに銃弾が桔梗子の父親の顔全体を後頭部側から前方に向けて吹き飛ばし、肉と血とそれまで目玉だったモノやそれ以外の飛沫体が桔梗子の全身に降りかかりました。一瞬の差だったんです。間に合わなかったのは……。直後、桔梗子の拳銃が父親を殺害した人物の腕を貫通します。だから殺害犯は二発目以降の銃弾を父親やそれ以外の刑事や警官たちに浴びせかけることができませんでした」

「それで顔がなかった……って言うの」

「正確には同じではありませんが、今回の事件の被害者はみな顔を潰されています。わたしに指摘できるのは、そこまでです。では……」

 クラッと眩暈がする。習慣的に腕時計を見る。先ほど確認した時間と僅かに差がある。だから、

「どちらかが出てきましたか」

 と橘医師に尋ねる。

「菖蒲子さんの方だったわ。あなたを虐めないでとわたしに釘を刺し、すぐに立ち去ったけど……」

「そうですか……」

 直後に少し吐き気がする。実際、危ないところにいたのかもしれない。

「桔梗子さん、大丈夫。顔色が悪いわよ」

「いえ、平気です」

 抜け落ちた記憶について考えなければ……。

「今日は、これで帰ります。ありがとうございました」

「心配だから、安定剤を処方しておくわね。えーと……」

 壁の時計を見つつ、

「この時間だと……」

「あっ、薬局はわかりますので……」

 礼を述べ、処方箋を受け取る。診察料を払い、クリニックを去る。

「さて、崔本くんを捕まえなきゃな」

 薬局で指定の薬剤を処方してもらった後で、

「でも飲まないかもしれないしな」

 と考えながらスマートフォンを取り出す。


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