1 呼び出し(桔梗子)
すべてが終わった今となっても、あの事件には不可解さが遺る。
確かに謎は検証されたはずだ。よもや、あれほど簡単にアレが可能だとは予期できなかったが、連鎖とは生じるものだ。二度とそれが再開されないことを祈るしかない。
思い返せば、あのときあの時点で犯罪自体は終わっていたのかもしれない。それとも、そうではなく、未だ解決を見ていないのだろうか。
とにかく一件の電話連絡から、あの事件が始まる。夜明けも近い未明のわたし、菅野桔梗子のアパートから……。
ルルルーン ルルルーン ルルルーン
スマートフォンが鳴っている。音の位置から推定するとダイニングキッチンのテーブルの上らしい。寝惚け眼を開き、ベッドの上で身を捩る。身体の感触から何も身に着けていないことがわかる。ベッドのすぐ隣には男がいる。スヤスヤと安眠中だ。健やかな寝息が羨ましい。昨日張り切り過ぎて疲れたのか。……って、わたしは憶えてないけど。
そんなことを考えながら布団を捲り、男の顔を確認する。普通に美形。細面の、いわゆる醤油顔。加えて鼻がツイと高い。ついで身体に軽く触れてみる。隆々ではないが適度な筋肉がついている。趣味でスポーツをやっている感じ。三十路までは、まだ暫くありそうだ。いかにも董子が連れ込みそうなタイプの男。迷惑だな……。疲労は、こっちの身体にも響くのに……。でも男の好みが似ていて助かったよ。これが汗臭い花咲かジイサンだったり、年端も行かぬ子供だったりしたら、気づいたときに叫んじまうから……。
ルルルーン ルルルーン ルルルーン
スマートフォンはまだ鳴っている。仕方がないのでモゾモゾとベッドから抜け出し、ダイニングキッチンに向かう。ベッドルームの床はゴミだらけ。空いた酒瓶とツマミの皿とポテトチップスのアルミ袋の山山山。あとはティッシュペーパーなどが舞い……。それに紛れ、スーパーボールが数個点在している。まいったな。一遍、董子とじっくり話し合った方がいいかもしれない。もう十代じゃないんだし、肌だって荒れるよ。
ガチャ……。
スマートフォンを手に取り、確認すると、桔梗子宛の番号にかかっている。だから出る。
「もしもし、お待たせ……」
「あっ、良かった。繋がった」
通話の相手は崔本雅也くん。わたしの部下を務める可哀想な新米刑事だ。もっともお守り役としては上々だろう。第一容貌が合格点。大学のレベルからいって頭も良いはずだが、その点については確認中……。
「桔梗子さん、今どちらですか」
背景音からパトカーか覆面パトカー内で通話をしているとわかる。確実じゃないが……。
「自宅にいるよ。昨日、男を連れ込んだ模様……」
「わかりました。勘は当たったようです。今、ご自宅に向かっています」
時計を見る気配がする。
「道の混雑状況がこのままならば約五分後には着くでしょう」
「速いな。寝ている男をどうしようか」
「また、董子さんですか。そちらの方は桔梗子さんにお任せします」
「キミが来るまでに董子か、菖蒲子が出てきちゃったら、どうすんのさ」
「そんな兆候があるんですか」
「それがわからないから、困ってる」
電波の向こうで溜息が……。
「では、お任せしましたからね。切りますよ」
ツーッ。
スマートフォンが切れる。ベッドルームに気配がする。男が目覚めたようだ。ならば仕方がない。
「あのーっ」
声をかける。
「申し訳ないけど、あと五分で若い旦那が仕事から帰って来るんで捌けてくれない」
「……?」
裸の男はキョトンとしている。そりゃ、そうだろう。キャラクターが違うから……。
「聞こえなかった。修羅場は避けたいんだよ。あんただって厭だろう」
事情は飲み込めないようだが素直にわたしの指示に従い――まだ眠いのか動きはノロノロとしていたが――男が服を身に着け始める。
「そうそう、その調子……」
わたし自身はバスルームに向かう。入る前に振り返り、
「酒が入ると人格が変わるんだよ。不快な思いをさせて、ごめんね」
一応、殊勝にそう告げる。冷蔵庫の上の時計を見、
「ホラ、あと三分。鍵、開けたままでいいから勝手に出てって……」
すると、
「あの、董子さん」
若くてイケメン男子が思い入れたっぷりに問いかけるものだから、
「悪い。たぶん、次はない」
キッパリと断る。ちょっと残念だが、仕方がない。
「じゃ、さよなら……」
言い残し、慌ててバスルームに入る。
酷い女だよな。でも、ま、いっか……。
シャワーを浴び、バスルームから出ると、
ピンポーン。
玄関チャイムが鳴る。おそらく最速で崔本くんが到着だ。
音を聞く度に昔風のカウベルをつけようと思うのだが、忘れる。部屋を移動しながらワンレンの髪を、やっかいな、と感じながら拭く。この髪型は菖蒲子の趣味。確かに桔梗子にも似合うが迅速行動には不利だろう。
共存するのは大変なことだ。折り合いのつけ方が難しい。
玄関に向かい、ノブをまわし、ドアを僅かに開け、顔を覗かせる。
「開いてるよ。悪いけど、着替えるまで待ってて……」
と頼み、ドアが向こうから開かれるに任せる。一応、崔本くんが目を覆う。
「殆んど裸じゃないですか。桔梗子さん、普通にきれいなんですから、ぼくが事件を起こしたらどうする気なんです」
そんなことを言ったが、もちろん彼の持ちモノは屹っていない。いいかげん慣れもしたのだろう。
「ありがとう。でも三十歳近いわよ」
「知ってますけど、二十四、五歳で充分通りますよ。化粧によっては、もっと下でも……」
「重ねて、ありがとう。で、場所は……」
「都内渋谷区のH町です」
「キミは宿直だったっけ……」
「いえ、東野さんに呼び出されました」
「アズマヤ(桔梗子が東野鑑識課員を呼ぶ渾名)が……。キミの顔が見たかったのかな」
「桔梗子さんが捕まらなかっただけでしょう」
下着を着け、服を着ながら着信を確認。なるほど連絡は入っている。その頃、この身体はお愉しみだったか、白河夜船だったか。
「よし。準備はできた。行こう」
警察手帳とか何やかやがギュウ詰めに入った犬印製の頑丈なバックを肩にかけ、崔本くんに告げる。アパートの鍵を閉め、エレベーターを降り、エントランスを抜け、覆面パトカーに向かう。
「そういえば、男とすれ違った」
「慌てて落ち着きがない人がこんな時間にいましたから、きっとあの人だったんでしょうね」
「男前だった」
「さぁ、ぼくには何とも……」
「キミを見て反応した」
「今度はぼくを何にしたんです」
迷惑そうだが顔は笑っている。
「秘密。でも、もしかしたら、わたし(か、他の誰かの)の願望かも……」
「そうですか」
皐月の夜が明けてくる。おそらく日本晴れになるだろう。僅かに開いた覆面パトカーの窓から入り込んだ風が涼を与え、わたしにそう思わせる。
前に描き、削除したものの修正版です。