7.セレスタ
どこか居心地悪そうにそっぽを向いたヴィクトを見て、セレスタはやっぱりと思った。
「やっぱり、無理してたんだ」
だから、確信を持って呟いた。
ヴィクトがそれまで話した色々にセレスタは大いに混乱したし、戸惑いを覚えていた。だって、秘密だったはずの自分の生まれを知られているだなんて考えたこともなかったし、ましてや彼までもが自分に秘密を持っていたなんて思いもしなかった。
嘘をつかれていたと考えるとなんだか悲しい気もしたけど、お互い様だから責めることなんてできない。
自嘲気味に自分を悪い男だなんて言ってのけたヴィクトに申し訳なささえ感じるくらいだった。
彼は強情を張って自分のことを隠していたセレスタのために、あえて黙っていてくれたのだ。そして、国境を守ることを求められながらできなかった敗軍の長の娘が立場をそのままにしていたら当然受けるべき中傷や何かから、守ってくれた。
さらにはセレスタがはじめ彼だけに心を開いたことで、初陣で役に立てず自信を喪失していたヴィクトを救ってくれたなんて下手な言い訳でセレスタの罪悪感を減らそうとまでしてくれる。
だからこそ、本人が否定してもこの機会にヴィクトの無理を改めなけれいけないとセレスタは張り切った。
ヴィクトが本当は未だ軍属の公爵家の方で、本来自宅である屋敷で仕事をしているように装っていたのなら――朝早く出かけた彼は屋敷で軍服に着替えてから登城し、夜もまた逆の手順を踏んで二人の家まで帰っていたということだ。
通いで貴族の屋敷に勤めていると考えただけでも申し訳なかったのに、そんなの、それ以上に申し訳ないことじゃないか。
「別に無理なんてしたつもりは……」
言いかけるヴィクトを遮るように、セレスタは自分の考えをまくし立てる。
おとなしくそれを聞いてくれたヴィクトは苦笑して、否定するように首を横に振った。
「確かに屋敷はこの家から離れているけれど、行き帰りは馬車で送ってもらっているからね。道中も従者から予定を聞いたり指示を出したりで時間を無駄にしていたとは思えないな」
「そうだとしても、負担は大きかったと思う」
「負担なんてないと言っても納得しないんだろうね」
「うん」
「まあ、全くないとは言いきれないけど。でもそれ以上に、僕にとって君と過ごす時間は価値があるものだからね」
どこまでもヴィクトの言葉は優しい。
嬉しいはずなのにセレスタは唇をとがらせた。
「セリィと一緒に過ごすことは僕の癒しだったし、望んでそうしてたんだよ」
苦笑しながらヴィクトは手を伸ばし、セレスタの頭をぐしゃりとかき混ぜる。
「ちょっ、おにーちゃん!」
「セリィは優しいし、可愛いなあ」
眼鏡の奥の眼差しが、柔らかく緩む。セレスタの抗議にごめんと謝りながら、ヴィクトは自分が乱した髪を整えてくれた。
「さて、話を戻していいかな」
「話っていうと」
「セリィは働きたいようだけど、僕は認められないと言った。理由は説明したからわかるよね?」
えっとと口ごもるセレスタにヴィクトは目をぱちくりさせる。
「君は本来、こんな場所で生活していい人じゃないんだって自覚はある?」
呆れたように問われても、セレスタは自信を持ってうなずくことはできなかった。
即答できないセレスタを見て、ヴィクトは小さく息を吐いた。
「君が言い出す前から、そろそろこの生活も潮時なんだろうと薄々思ってた。心地いい関係を崩すのが嫌で、なかなか口には出せなかったけど」
「……私も」
「うん?」
「私も、いつか話さなきゃとは思ってたの」
話のきっかけをもらった気分でセレスタは勢い込んだ。
「いつまでも黙ってるのは心苦しくて、でも話したら嫌われるんじゃないかと怖くて」
一緒だねとヴィクトは微笑み、そうだねとセレスタはうなずく。
「僕がセリィを嫌うなんてあり得ないから安心していいよ」
「私も! 私もそうだよ!」
「そう言ってもらえるとほっとする。今後はこれまでのようにはいかないだろうけど、これからも嫌わないでくれると嬉しい」
ヴィクトの言葉に反射的にセレスタはもちろんとうなずいて、
「でも、これから、私、どうなるの?」
遅れて、当然の疑問を口にした。
彼の言うとおり、確かに元は辺境伯家の令嬢であったセレスタは本来ならば使用人もいない民家で暮らすような娘ではなかった。
だけど、今更名乗り出て元の生活にすんなり戻れるとも思えない。
訥々と不安を口にすると、セレスタを安心させるようにヴィクトは笑みを深める。
「誰も今更だなんて言わないよ」
「どうして?」
「ハイライト家の令嬢は我が家で保護していることになっている」
驚くセレスタに「実際そうだろう?」とヴィクトは言ってのける。
「もちろん外聞もあるから、身分を隠して王都の市井暮らしをしているなんて言わないよ。公的には、当家所有の別荘で療養していることになっている」
「療養?」
「そう。不幸にも両親を亡くした少女が心を痛めて表に出てこないのは、何の不思議もないよね」
そういうものかしらとセレスタは首をひねるが、ヴィクトはそういうものだよと悪びれない。
自信たっぷりに断言されれば、セレスタにそれを否定することはできなかった。
「君ももうデビュタントの年になる。あるべき場所に戻る頃合いだと僕は思うよ」
「でも、私……そんなの」
「もちろん今すぐにとはいかないだろうけど。君との生活に癒しを感じて、君をしかるべき淑女教育から遠ざけたのは僕の我が儘だ。当然、それに対する補償は行うからね」
「補償って……必要ないよ。だって、私、ずっとお世話になってばっかりだもん」
ヴィクトはきっぱりと「そんなわけがない」と言い放った。
「本当なら公にしているとおりうちの別荘ででも過ごしているべきだったんだよ。なのに実際のところ、僕の我が儘でセリィはしなくてもいい苦労をずっと重ねてきた」
「私、おにーちゃんとの暮らし、楽しんでたもん」
セレスタは呟いた。
ヴィクトはだいたいが朝から晩まで仕事に出ていたし、時折夜勤もあった。さらには泊まりで戻ってこない日だってあったから、一緒に過ごした時間は実はそんなに多くないのかもしれない。
だけど、少しずつの毎日の積み重ねがセレスタにとっての幸せだった。きっと彼に保護されたときに、生まれたての雛のようにすっかりなついてしまったからだ。
哀れな少女にヴィクトはできるかぎり優しくしてくれた。だから親愛の情が淡い恋に進化するのはすぐだった。
時々のお休みの日にも、セレスタとの時間を優先してくれていた。それくらい思いやりのある人に苦労をさせられたなんて、とても思えない。
「それは、僕だってそうだから、ずるずるとここまできたわけだけど……」
困惑したようにヴィクトはぼそぼそと呟き、
「でも、やっぱりそろそろ潮時だ――セリィ、いくら仲が良くても、兄妹はずっと一緒にはいられないんだよ。まして、僕らは本当の兄妹でもない。赤の他人だ」
セレスタにとって冷酷な言葉を、はっきり口にした。
彼の口からだけはそんな風に言われたくなかった。頼りない細いつながりを少しでも太くしたくて、彼のことを「おにーちゃん」と呼び慕っていたのだ。
一緒にいられない――本当の兄妹ではない……赤の他人。
耳にした言葉が、頭の中を駆けめぐる。胸の内に何かがぐるぐると渦巻いて、ひどく落ち着かない気分だ。
セレスタはそんなこと、とうに知っているつもりだった。事実なのだから当然のことだった。
それでもヴィクトは自分を兄と慕うセレスタに優しく、妹のように大事にかわいがってくれたから目を背けていた。
セレスタが年頃というのなら、ヴィクトだっていい年齢なのだ――さほど遠くないうちに彼に見合った素敵な女性が隣に立つ日が現れるのだろうとは薄々覚悟しているつもりでもあった。
セレスタはそれができるだけ遠くであるようにも祈り。
あるいはいずれ彼の隣にある女性が自分になればいいとも願っていた。
人が聞けば刷り込みだと笑うかも知れないけれど、ヴィクトはセレスタの好きな人だ。いつまでもずっと一緒に過ごしたいと考えていた。
なのに今更赤の他人だなんて、これまで積み上げてきた絆を断ちきるような言葉を彼が口にするなんて。
こみ上げてくるものを耐えようとセレスタは拳を握りしめた。それでもこらえきれなくて、にじむものがある。
何とかしようと唇をかみしめ視線を落としたのは逆効果で、ついにぽたりと涙がこぼれてしまう。一度そうなってしまうともう駄目だった。