6.ヴィクト
「悪い男なんかじゃないもん!」
呆然としていた顔を赤らめ、力強く叫んだセレスタを見返しながら、ヴィクトは内心それを否定した。
真実を話す前に当人に「悪い男ではない」と否定させておけば、セレスタは前言を翻して自分を拒否することはないと見越しての言葉だった。
これだけ力の限り否定したのだ――話を続けて仮に不信感を持ったとしてもすぐに表立ってヴィクトを否定することはないだろう。
彼女の反応が予測通りだったことに満足しつつ、ほんの少しばかりの罪悪感を覚えなくもない。
年下の少女を手のひらで転がすのは、やはり充分悪い男だった。自覚があっても改める気はない辺り、救いようもない。
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
ただ、計画通りの展開にヴィクトはにこりとする。ほっとしたように笑みを返したセレスタは行儀の悪さを恥じるように顔を赤らめつつ、再びいすに腰を下ろした。
「でも、なにか疑問や不満があれば言うんだよ? これからはもう、嘘はなしにしたいから」
「うん」
ヴィクトが大事に大事に囲い込んできた少女は素直にこくりとうなずいた。
きっと問いたいことはたくさんあるだろうに、もじもじする様子からすると何をどう聞いてよいのか分からないようだった。
「どこからどう話したらいいかな」
ぐいぐいと彼女が質問をよこすなんてヴィクトは露ほども考えていなかった。だから当然、最初から会話の主導権を彼女に渡すつもりもない。
セレスタはおしゃべりが好きだが、口にする内容は無邪気なものだ。
彼女は駆け引きなんてことを知らない娘だ。世の渡り方を身につける前に両親の庇護を失った少女を、あえてヴィクトが世情から遠ざけたのだから。
彼女の無邪気な語り口をヴィクトは好んでいたが、今無口を装ってこの場を譲るわけにはいかない。
ヴィクトはまずはいかにしてセレスタの素性を知ったのかを説明した。彼女を保護した際に診せたのがかつて辺境伯家の侍医であった老医師なのだと告げれば、ぽそりと医師の名を呟いたようだ。
「ご無事だったのね」
今更ながら知った顔見知りの安否に彼女は純粋な安堵を覚えるだけで、何故彼が知り得た素性を活用しなかったのかという当然の疑問にはまだ思い至らないらしい。
――丸め込むのは想定以上に簡単そうであった。
「だからこそ保護した君の処遇について、僕たちは頭を悩ませた」
セレスタは神妙な顔でうなずいた。
「……えっと、当然のことだとは思うわ」
世情に疎いと考えていた彼女も、自分の立場については考えるところがあったらしい。名の知れた家の生まれとはいえ、確実な後ろ盾である両親を失った娘の立場は危うい。
そんなようなことをとつとつとセレスタは口にする。ヴィクトは同意するようにひとつ相づちを打った。
「目覚めてから、本人の口から素性を聞けなかったこともまた僕たちを悩ませた。あの老医師が偽りを口にしたとも考えられなかったけど、たった一人の証言だけを信じるわけにもいかなかったし」
それもそうだねと言わんばかりにセレスタはこくりと首を縦に振る。
「誰が何を尋ねても、最初は一言も話そうとしなかったよね――困り果てて君を保護した僕が顔を見せてはじめて、ようやくほっとした様子で」
立派な軍服を纏った若き士官には怯えた様子さえ見せたというのに、一般兵を装っただけで態度が急変したことにヴィクトは衝撃を受けた。
着る物を変え、眼鏡をかけただけというお粗末な変装でしかないものだと思えるのに、彼女にとっては大きな違いがあったらしい。
敵兵から身を守ったなんて華々しい功績さえない、単に自らを保護しただけの存在が、当時のセレスタには信用がおけるものだったらしい。
それでも警戒してか本名ではなく愛称らしきものしか口にしない彼女をあえて問いつめないことに決めたのは、拙い信用に好ましさを覚えたからでもある。
「ようやく名乗ってくれたのは、本名から推測される愛称だった。それ以上詳しく語ってくれない君を問いつめることは止めようと僕は考えた」
「どうして?」
不思議そうに問いかけるセレスタにどう答えようかヴィクトは少し考え、
「その方が、都合がよかったからかな」
自白したとおりの悪い男らしく、素直に告げた。
「セリィは僕を恩人だと慕ってくれてるけど、僕にとっても君は恩人だから」
それを聞いた彼女はますます不思議そうに首をひねる。
「えっと、どういうこと?」
目をぱちくりさせるセレスタに対し、ヴィクトは極力客観的に事情を説明した。
事情というのは彼自身の素性を含めた事実から、後ろ暗い考えをほとんど取り除いた全てだ。
世間に疎い娘でも王都に三年も暮らしていれば主要な貴族の家名は聞き覚えがあるらしい。マードラーの名を聞いて目を見張り、ヴィクトが未だ軍属なのだと聞いて口をぽかんと開き、最後には眉間にしわを寄せて難しい顔をしてしまった。
「ね、セリィ。僕がいかに悪い男なのか、ちょっとはわかったでしょう?」
セレスタが自分だけを頼りにしてくれる心地よい環境を作り上げたのだと白状したヴィクトは、彼女が冷静さを取り戻す前にあえて問いかけた。
さすがに彼女も先ほどのようにすぐに否定することできないようだ。
目線を下げ閉じた口元をむにむに動かしながら、居心地悪げに手を組んだり離したりして、何か考えている。
「この間の、おにーちゃんじゃないけど、私も今ちょっと冷静じゃないかもしれない」
やがてセレスタは意を決したように口を開いた。
「そうだろうね」
彼女はヴィクトの語った偽りをこれまで疑ったことはないのだろう。
二人で生活をはじめた当初、ヴィクトだって庶民の生活に掃討戸惑っていたのだけど、彼女自身が初めてのことだらけで当時から何の疑問も持たなかったのだろう。
今考えると、粗ばかりが目立つ醜態だったと思うのだが。
ただただ軍を辞めたというヴィクトに罪悪感を抱き、朝も早く夜も遅い仕事に従事していることに感謝をし、守秘義務という言葉を盾に職務内容の詳細を話さずとも尋ねてくるようなこともなかった。
自分が長く抱えてきた罪悪感を持つ必要がなかったと不意に知らされたセレスタが驚き戸惑うのも当然のことだ。
「だけど、悪いけど――真実を話した以上、僕たちはこれまでのようにはいかないよ」
彼女の戸惑いを理解しつつ、ヴィクトはそう畳みかけた。
セレスタが冷静さを取り戻し、彼にとって受け入れがたい考えに至る危険性はできる限り排除しなくてはならない。
自然と鋭くなる視線に気付いてかセレスタが身じろぎをするのを見て、ヴィクトは一度目を閉じる。
「私、どうしたらいい、の?」
数日前に力強く働きたいと言ったはずの声が、頼りない迷子のようなことを言う。
「ヴィーが本当は公爵家の方で、軍の偉い人なんだったら、私なんかとここにいるわけにはいかない人なんだってことくらい、私だってわかるよ」
再び目を開いた真正面で、セレスタはしっかりとヴィクトを見つめていた。
「出かけるのも早くて、帰るのも遅いってことは、いつもそれだけ無理してるってことだよね?」
「え?」
それはヴィクトが想像していたような拒否反応の感じられない、どこかいたわりを感じる響きを持った言葉だった。
じっと自分を見つめる大きな瞳にヴィクトは吸い込まれそうになる。
「無理なんて……僕は、別に」
騙されたとなじることなく案じるようなセレスタに、ヴィクトは動揺を隠せなかった。
彼女の心根の美しさに自分の醜さを感じてしまう。
「いつも言っているよね。君を守ることが僕の幸せだって」
自分の黒さを押し隠しヴィクトは自らの本音の一番きれいなところだけを取り出して告げてから、彼女の目映さが自分の醜い部分を暴いてきそうな気がして、つい目線をそらしてしまった。