5.セレスタ
そして、彼に指定された日。
セレスタは努めていつも通りの日課をこなしていた。
つまりそれは朝一番の鐘と共に目覚め、身支度を整えてからの朝食の準備だった。
前日に用意したパンにいつも通り燻製肉と野菜炒めを挟み、残り物のスープを温め、テーブルの上に朝食を運ぼうという段になってヴィクトが自室から出てきたところだけがいつもと違う。
セレスタは唖然として動きを止めることになった。
「おはよう、セリィ」
常ならばセレスタが部屋の扉を強く叩き続けなければ目覚めず、寝ぼけ眼で寝間着のまま食卓につく人だ。そんなヴィクトがどうしたわけか、今朝ばかりはしゃっきりとした顔をして、すでに着替えてさえいる。
「お……おはよう、おにーちゃん。えっと、もうすぐご飯用意できるからね」
「うん」
いつもの席に座るヴィクトの前に、セレスタは朝食を運ぶ。
少しばかり緊張するのは、単にいつも彼がいないうちに用意しているからというだけではなく、予定している話の行く先を案じたからでもあった。
きちんと身支度を整えている様子なのはつまり、言いにくいことをいうために気合いを入れているということではないのだろうか――そう考えてしまうのは穿ちすぎだろうか。
セレスタの心配はともあれ、二人はいつも通り向かい合って食事前の祈りを開始した。
ヴィクトは食事中に話をはじめるというようなことはしなかった。
「話し合いは後でね」
有無をいわせずにこりと宣言して、彼は朝食に集中する様子を見せる。先日の発言通りに時間をとってゆっくりと話をする心づもりのようだ。
彼がダメという気であり、セレスタが反論する流れが予想されるならば、確かに食事中では落ち着かないかもしれない。
ここ最近と同じく、食事の間会話は弾まない。お互い下手なことを言えないとばかりに目の前の食べ物に集中している。
もくもくと進む朝食は、量が多くないのもあってすぐに終わる。セレスタは皿を片づけると同時に、お湯を沸かすことにした。
テーブルを拭いて、ポットにたっぷりと温かいお茶を用意する。
両親が存命の頃に使用人が淹れてくれたお茶には及ばないものだけど、自分でお茶を用意しはじめた当初の苦い味を思い起こせばおいしく淹れられるようになった代物だ。
もう少し上手にできるようになればいいなとつい考えてしまうのは、ヴィクトに美味しいものを淹れてあげたいからでもあり、彼が時々お土産と称して持ち帰ってくれる茶葉が上質そうであると香りでわかるからでもあった。
「ありがとう」
カップをヴィクトに差し向けると、彼は眼鏡の奥にある瞳をわずかに緩めた。
かつては上手にできなくて苦いお茶しか淹れられずに落ち込むセレスタに文句一ついわず、苦みをこらえながら何とか飲み干してくれた人は今では「美味しいよ」とにっこりと微笑んでくれる。
セレスタはどういたしましてとはにかんで、再びいすに腰を下ろした。
自分から話を切り出すべきか、ヴィクトが口を開くのを待つべきか。
悩みつつセレスタもカップを傾ける。三年前は苦すぎる自分のお茶をろくに飲むこともできなかったな、なんて現実逃避気味に考えながら。
新しい生活は目新しいことばかりで、セレスタは戸惑うばかりだった。保護者となってくれたヴィクトもあまり家事には通じていなくて、途方に暮れた様子もあった。
近所の市場の店の豪快で人のいい女将さんが物慣れぬ様子二人にあれこれ教えてくれなければ、新生活が落ち着くまでもっとかかっていたかもしれない。
「セリィ」
過去を思い起こしていたセレスタは、ヴィクトの声かけに顔を上げた。ことりとカップをテーブルに戻した彼はひどく緊張した顔をしているように感じる。
セレスタはこくりとうなずいて、話の先を促した。
「今日は、とても大事な話がある」
「え?」
いつもより堅い彼の声に、セレスタはきょとんとした。予想外の話の切り出し方だった。
大方「働くのはまだ早い」と言われるのではないかとおぼろげながら考えていたのだ。
そうしたら、セレスタは「実際お店を見て考えて」とどうにかお昼を誘う計画をしていた。いつものように「おにーちゃん」と呼びかけるのではなく、出会った当初のように「ヴィー」と呼んでねだれば、少しは譲歩してくれるだろうと思っていた。
彼は名前を呼ばれると特別うれしそうだから。
ともかく、ヴィクトが大事な話があるなんて言うなんて、セレスタは考えもしていなかったので驚いた。
働くことを考えたこともなかった少女が働くことはおおごとではあるかもしれないけれど、だいじな話と大仰に言うことのようには思えない。
ぽかんとするセレスタを前にして、ヴィクトは緊張混じりに唇を湿した。
「今更、こんな話をするなんてセリィに軽蔑されそうで怖いけど、今しないと取り返しがつかないことになる気がする」
重ねられる言葉にセレスタの困惑は深まるばかりだった。
自分がヴィクトを軽蔑するようなことは、どう考えてもないように思えたから。
「働きたいと君は言ったね?」
突然話が予定していた方向に戻ってきたので、セレスタはひとつうなずいた。
「結論として、僕はそれを認めることができない」
あのねと計画を話そうとしかけるセレスタに対して、ヴィクトはぴしゃりと言い放つ。開きかけた口を閉じることもできず、セレスタはただ呆然とした。
こんなにも彼がきっぱりと彼女の要求を拒否したことなんて今までないことだったから、一瞬で頭が白くなってしまう。
「外で働こうと思うほどセリィが成長したことは喜ばしい。だけど、そうする必要は、まったくない」
その空白を埋め込むように、ヴィクトの強い言葉は続いた。
「――君の両親がご存命でも、当然お認めにはならなかったはずだ。君は本来ならば、こんなところで生活する必要がない人なんだから」
常ならぬ強い語気と、その内容にセレスタは困惑した。
それは混乱した頭ではすぐに処理できない内容だった。
続ける言葉をためらうように一瞬視線をさまよわせたものの、ヴィクトはもう一度口を開く前にセレスタに視線を合わせた。
「セリィが自分の口から素性を言わないのをいいことに知らんぷりしていたけど、僕は君のことを知っている」
聞いたセレスタは何も言えず、息を飲んだ。
「それに――それだけじゃない。君は全てを話さなかっただけで偽りは口にしなかったけど、僕は違う……僕は全てを話してもいないし、君に大きな嘘をついているから」
その言葉にも、ヴィクトが自嘲するように唇をゆがめることにもセレスタは驚いた。
「セリィ、僕はね。君に嫌われても仕方ないくらい、本当は悪い男なんだよ」
ヴィクトの言葉は抽象的で混乱しているセレスタにはどこからどう詳細を尋ねていいのかすらわからなかったけれど、最後皮肉げに告げられた言葉に対する返答だけは瞬時に思いついた。
だから彼女は勢いのまま立ち上がって、大げさなくらいに首を横に振って叫んだ。
「それだけはない! ヴィーは悪い男なんかじゃないもん!」