4.セレスタ
確たる意志もなく不用意な発言をするべきではなかったかもしれないと、セレスタは後悔することになった。
一番の理由は「働きたい」と言って以後、どことなくヴィクトが不機嫌なように思えたからだ。いつも物柔らかく優しい兄に笑顔が少ない。
元から多弁な質ではない彼がはっきりとなにか口にすることはなかったが、些細な一言や動きから何らかの意志を感じてしまっていた。
いつもヴィクトの朝は早く夜は遅い。だというのに、朝がより早まって、夜がより遅くなったように感じれば、もしや避けられているのかもしれないとも感じてしまう。
「それか、お仕事を増やした、とかかしら?」
約束の日を明日に控え、セレスタの緊張は徐々に増している。
彼がセレスタの発言でより稼ぐ必要性でも感じてしまったのであれば、そのようなこともありうるかもしれない。ヴィクトが勤める貴族の屋敷が柔軟に使用人の要望に応じてくれるとは思いがたいのだけど。
なんとなくだけど、ヴィクトはセレスタが働くことに否定的なのだろうなと感じるものはある。彼にとってセレスタは、まだまだ庇護すべき頼りない存在なのだろう。
だから働く必要はないと伝えるために仕事量を増やした可能性は否定できないように思う。
これまでだってヴィクトは、主に付き従ってしばらく留守をすることもあった。護衛というにはいまいち頼りないひょろりとしたところもある人だけど、秘書と兼任しているというくらいだから重用されているのだろうとこれまでも感じていた。
セレスタが想像したようにすぐに仕事量を増やしてもらえるほど信を置かれていると仮定するならば――もしかして、彼は今まで仕事量を調整し続けていたのだろうか?
ふと思いついた疑惑が、セレスタの心を重くさせた。
仮にそれが真実だとすれば、彼がそうしていたのはきっと自分のためだ。朝は早く夜は遅いヴィクトは、本来であれば市中に住まいを構えるのでなく屋敷付きであることを望まれていたのだと考えられる。
貴族の屋敷に通いの使用人はほとんどいない。少なくとも、セレスタの知る常識のうちではそうだった。
亡き父は武に秀でた方であったけど、責任ある立場の者として近くに常に幾人かの護衛を配していた。辺境伯としての公の部分ではそれは騎士に取って代わられていたようだけど、彼ら護衛はいかなる時も私邸に常駐していた。
危険は何も日中にだけ迫るわけではない。夜闇に紛れて襲撃される危険を考えれば、夜こそより厳重に警戒しなければならないのだろうから。
たとえヴィクトが秘書を兼務するという変則的な勤務をしているにしても、考えてみれば不思議なことだった。
彼を雇ったのは、セレスタの故郷から最終的に敵国の兵を掃討してくれた軍を率いていたくらいの上位貴族なのだ――というふうに、セレスタは聞いている。
今思い返しても胸に痛いあの時に、護衛とはぐれ街の片隅で怯え震えるしかなかったセレスタを見つけだしてくれたのが、彼だ。
王国軍の兵だと名乗り優しく抱き留めてくれたヴィクトだけが、あの時にセレスタが信用できる唯一だった。
知り合いのほとんどは、戦火の中に消えていった。
国境を任された辺境伯家とそれに連なる武人であれば当然のことだ。逃されたのは内向きの仕事をこなす使用人たちと、幼く何の役にも立ちそうになかったセレスタ、あとはセレスタにつけられたいくらかの護衛くらいではないだろうか。
戦に備えて城壁でぐるりと囲まれていた頑健な街も内から崩されればもろくて、壁は健在のままだというのに内部は混乱していた。セレスタには何がどうなってそうなったのかわからない。そこかしこで火の手が上がっていたように思う。
混乱の中いつの間にか城壁内部まで侵入していた敵国兵から逃れるために右往左往しているうちに護衛の最後の一人ともはぐれ、あの時は一体どれほど一人で彷徨ったのか今ではよくわからない。
護衛の誰かが「どこかに内通者がいたようだ」などと語っていたことが頭に残っていて、誰が敵か味方かもわからず、何を頼りにしていいのだかもわからない状態だった。
だからこそ人の気配を感じれば常に身を潜めていたというのに、隠れていたセレスタをヴィクトだけが見つけだした。
当初は軍人らしく厳しい声色をしていた彼なのに、怯えるセレスタを見て優しく声をかけてくれた。ほんの些細な気遣いに、疲れ果てていたセレスタは安堵してしまった。
久々に聞いた、誰かの暖かい言葉だったから。
もう大丈夫だといわれて、情けなくも泣きついて。本当に信頼していいのかわからないなんて疑問を抱く前に意識を失ってしまった。
今考えれば単に体力の限界がきただけのことだったのかもしれないけれど、その事実はセレスタにこの人は安心できる人だという考えを持たせた。
目覚めたところにはヴィクトの姿はなく、丁重に寝かされてはいても見知らぬ環境に混乱して、周囲にはきっとさんざん迷惑をかけた。
何も話さず黙りの少女を持て余したのか、そのうちにセレスタを保護してくれたヴィクトが現れて。
なんだか素性を話すことを思いつく前に、彼はセレスタを引き取る手続きを済ませてしまっていた。
軍を辞したというのに軍を率いていたような偉い人に個人的に雇ってもらえるくらいだから、ヴィクトは目をかけられていた存在なのだろう。
彼は自分には軍は向いていなかったなんて口にしてセレスタを気遣ってくれたけれど、やはりセレスタの存在はヴィクトの将来を食いつぶすようなものだったのだろう。
彼に将来性のある軍を辞めさせてしまったこと、そして通いという大きな負担のある職に就かせてしまったことは、大いに罪深い。
唯一頼れると認識してしまった優しい人の負担はいかばかりだったか、成長した今も正確には想像が及ばないくらい大事にぬくぬくと守られてきた。
「もう十六になろうとしてるのに」
友人が何のためらいもなく職を斡旋しようとする程度にはセレスタは大人に近づいているはずなのに、ヴィクトはまだセレスタを大事に守ってくれる心づもりのようだ。
それは兄のようにヴィクトを慕うセレスタにとってはうれしいことであり、しかし同時に彼に恋する身としては子ども扱いが悲しくもあった。
たとえヴィクトが渋い顔で否定してこようと、今後働くことをきちんと考えた方がよいのかもしれない。
セレスタはそう気合いを入れて、どのように彼を説得するかを考えながら眠りにつくことにした。