2.ヴィクト
食堂で働きたい、なんて。
日常会話の延長のように何の気なしにセレスタが語るのを聞いて、ヴィクトは一瞬気が遠くなった。
もしやまだ自分はまだ寝ていて、悪夢でも見ているのではないかと思ったくらいだった。
だけど動きを固めた自分を上目遣いに見上げるセレスタを見て現実だと認識する。同時に、頭のどこかがすうっと冷えていくのを感じた。
セレスタの「優しい兄」としては取り返しのつかない何かが口をついて出そうなのをこらえながら、ヴィクトは食べかけのパンを皿に戻すことにする。
「どういう、こと?」
言葉少なく問いかけると、セレスタはらしくない兄の様子に動揺しつつも説明をしてくれた。
仕事を辞めざるを得ない友人の代わりにはじめて働くことを思いついたのだといった調子だったことに、ヴィクトは少しだけ安堵した。
だけど、それだけにむやみに拒否できないことには不満を覚えた。
たとえば生活に不安があるとか何か欲しいものがあるとでも言われれば、お金ならいくらでも出すから働く必要はないと言えたのに。
ただ、今後独り立ちをしたいから働くことを覚えたいのだと言われなかっただけましだとヴィクトは自分を慰めた。
――いずれ彼女はそこまで考えそうではあるとは思ったけれど。
そんな必要はないと冷たい言葉を吐き出しそうになるのをすんででこらえて、ヴィクトはなんとか話を先延ばしにすることに成功した。
時間がある時に話をしようと言う彼に、あっさりとセレスタはうなずいてくれたのだ。
だから今すぐに独り立ちを検討しているというわけではないのだろうと自分を慰めながら、ヴィクトは朝食もそこそこに彼女の前から退散することにした。
ヴィクトはいよいよ決断すべき時がきたのだと、否応なく悟らざるを得なかった。
いつまでも生温い環境に身を置いていることなどできない。
そんなこと、彼女との生活をはじめた時からすでにわかっていたことだった。これは、セレスタの不幸な事情を盾に詭弁を弄して得たつかの間の時間――兄妹を装ったところで赤の他人同士である男女がいつまでも共にあることが、そもそも許されるわけがなかった。
セレスタと暮らすうちに身につけた習慣で、ヴィクトは身支度を整える。職場のお仕着せということになっている衣服に着替え、腰に剣を下げる。
「行ってくるから」
「行ってらっしゃい。お仕事頑張ってね、おにーちゃん!」
何の含みもない明るい笑顔でセレスタは「大好きだよ!」といつものように続けてくれる。
そこにある確かな信頼は素直に嬉しいのだけど、いささか後ろめたくもあり――そして、不満を覚えないでもなかった。
「もちろん、頑張るよ」
くしゃりと彼女の頭を撫でてヴィクトは口にしたけれど、隠しきれなかった不満が声にいくらか混じってしまった。
いつものように「兄はセリィのために頑張る」なんて、口にしたくない気分だった。
失言をしないうちに彼女から顔を逸らすように扉に背を向けて、足早に歩き始める。
(セリィが外で働くことなど認められるわけがない――だから、もはやこれまでのように兄のふりなんてしていられない)
いくつもの路地を抜けて、やがてヴィクトは待ちかまえていた馬車に乗り込んだ。
それはヴィクトが秘書兼護衛として勤めているという設定のさる貴族が所有しているお忍び用の簡素な馬車――正しくは、ヴィクトの実家が所有するものだった。
たかが護衛ごときに迎えをよこす貴族なぞ存在するわけがない。セレスタには偽りで固めたことしか話していないけれど、ヴィクトは貴族の護衛などではなく、貴族そのもの。
マードラー公爵家の次代を担う若き貴公子なのだ。
内部で待ちかまえていた従者が頭を下げ、常のように本日の予定を告げようとするのをヴィクトは手の一振りで止めた。
「ジョン、近々あの家を引き払うつもりだ。手配しておくように」
突然の言葉に一瞬驚いたように軽く目を見開いたものの、かねてより主の意向を重々承知している従者は恭しくうなずき、「ではそのように」と口にしてから、日課を再開した。
古くから続く由緒正しき公爵家の嫡子であるヴィクト・マードラーに転機が訪れたのは十七の年だった。
あらかじめ周囲に十全に整えられていた道を踏み外さず何事もそつなくこなしていた優秀な次期公爵だと言われていた。
そんなヴィクトは辺境の戦乱で初陣を踏み初めて挫折を味わった。
今思えば挫折というにも馬鹿らしいほどの些細な躓きであったけれど、人生において何事にも障害を覚えたことのなかった自尊心の高い若者にとっては大きな挫折だった。
突如国内に侵入した隣国軍の数は辺境軍を瓦解させる程度には多かったが、早期解決のために迅速に投入した国軍はそれを圧倒する規模だった。だから、戦い自体には何の問題もなく、初陣であったヴィクトは戦功を得た――事実としてはそう認識されたのであるが、それを誇る気にはとてもなれなかった。
それは有能な周囲の助けがなければ成し得なかったことだと、ヴィクトは苦々しく感じてしまったのだ。
何事も満遍なく身につけつつあるヴィクトは万能の呼び声高かったが、周囲の才を見てそれはいずれも一流には足りないことも理解してしまった。
若いのだからまだいくらかののびしろがあると言う者はいるのだろう。そのように考えつかなかったわけではないけれど、幸か不幸かヴィクトはいずれ訪れるであろう己の限界値に想像が及んでしまった。
確実に戦功を上げられるようにと軍部を取り仕切るヴィクトの父公爵が、特に秀でた者ばかり周囲に配したのだから今思えば当然のことではあったが、当時はそこまで考えが及ばなかった。
知識はあれど、経験の少ない若輩者だったのだ。