1日目①
次の日の昼過ぎ。昼食を終えた叶湖がソファへ座り、昨日使った……そして、今日いくつか増えた注射器やナイフ等を、例の薬棚から取り出した何らかの液体で拭いながら客を待っていると、ぴくり、とソファ下の男が動いた気がした。
「うあぁあっ!! っっっ!!」
突然悲鳴を上げて飛び起きようとした男は、ぐん、と手錠にかかった力に負けて、床へと舞い戻る。ごっ、と頭を打ち付けた音が聞こえたが、叶湖は気にしない。
が、手に持っていたナイフ等を近くのローテーブルへと置くと、ソファの肘掛の部分から乗り出して男の顔を見下ろした。
「よかった。あのままショック死されたらどうしようかと思っていたところです」
「っ!!」
ソファの上から聞こえた声に、男は驚いたように頭を向ける。その拍子に再びがちゃり、と手錠が鳴り、男は自らの腕が手錠で拘束されていることに気付いたようだった。
自分の手首が繋がっているのが、叶湖の見下ろしているソファだと判断した男が、手でソファごとその足を浮かせて拘束から抜けだそうと、ぐ、とソファを持ち上げる素振りを見せる。
「ぐぅっ」
しかし、3人掛けのソファ、しかも叶湖が乗り出していることもあって、その重心は男が持ち上げようとした側にかかっている。
そんな状態でソファを持ち上げようとした男は、力を込めた所為で腹に走った痛みに呻くことになった。
僅かにソファに振動が伝わるが、男が拘束から抜けだせることはない。
「お前は……」
痛みに額に汗を浮かべながら、男が叶湖を睨みつける。
「おはようございます。あまり寝覚めはよろしくないようで」
「お前はなんだ。ここは……」
言いながら、男は首だけを動かして辺りを見渡したようだった。
「ここは……ただのアパート……いや、マンション、か?」
「はい、そうです」
「お前がこの部屋の主人か」
「えぇ、そのとおり」
再び叶湖の顔に照準を戻した男に、叶湖はにっこりと笑いながら頷いてみせる。
「俺は、どうしてここにいる?」
「私が拾ってきたからです」
「お前……ヤツらの関係者じゃないのか」
男の目が細くなり、叶湖の表情を見定めるように見つめる。
「ヤツら、というのが誰か分かりかねますね」
叶湖は空気を吐き出すように嘘をつき、その嘘は叶湖が浮かべた笑顔に上塗りされていった。
「なぜ無関係の人間が俺を拾ってくる」
「怪我人が倒れているのを見つけた善人が、拾って手当てをした、ということには、なりませんよねぇ……やっぱり」
叶湖の言葉を聞くにつれ顔を歪めていく男に、叶湖はあはは、と声をあげて笑う。それは、嘘がバレたことについての乾いた笑いではなく、心から楽しんでいるような笑いであった。
「善人が、撃たれた男を見つけて救急車を呼ぶこともせず拾って連れ帰ったと? しかも、手当てはともかく、こんなことをしておいて、善人とは」
言いながら、男が手をゆすって手錠の存在を示す。
「だって、せっかく助けた男性が、目を覚ました驚きのあまり、襲ってこないとも限りませんから。私、これでも女性の1人暮らしですよ」
「腹に一物抱えておいて白々しい」
吐き捨てるような男に、叶湖はさらに笑顔を深くする。
「何が目的だ。言え」
「……言いませんでした? 拾った、と」
「拾って、俺に何をするつもりだ」
男の言葉に叶湖はくすす、と笑い声をもらした。
「いいですねぇ。勘のいい方は好きですよ。何をさせたい、ではなく、何をするつもりか、ですか。いいですよ、ちゃんと間違えずに聞かれたので、正直に答えます。私はね、アナタをイジメたいんです」
「イジメ、たい?」
叶湖の言葉を男が反芻する。
「そう」
「……イジメ、る? あぁ、この手錠。お前の私物か」
「ふふ。さすが、勘がいい」
「……一方的に助けられ、一方的に嬲られることになるとはな」
「あら、あまり嫌そうには見えませんね。そっちの趣味でもありました?」
こてん、と首をかしげた叶湖に男が顔を歪める。
「ふざけるな。……ただ、どうせ死ぬのに変わりはないなら、最後にお前の好きにさせてもよいかと思っただけだ。……今さらプライドなど、あってないものだからな」
溜息をついた男が浮かべた諦観に、叶湖は笑顔を浮かべる。
「殺しませんよ」
「あ?」
「私が満足するまで殺しません。私が、アナタを遥々運んで、手当して、着替えさせて、今に至るまでに、ものすごく手間をかけさせられました。……だから、簡単には殺しません」
その言葉に男が再び表情を険しくする。
「だが、タイムリミットは、俺がもう少しマシに動けるようになるまで、だ。俺がそのソファを持ち上げて手錠から抜けだすことができれば、俺は死ぬ。邪魔をするなら、お前も殺す。着替えさせて、あの傷を見れば分かるだろう? 俺がどういう人間か。あぁ、いや……水もなければ、衰弱死の方が早いかもな」
「……死なせません、って。大丈夫ですよ。食事も下の世話も。管を入れれば解決しますから」
明日の天気でも話すように、叶湖が呟く。
「……」
男が黙りこむと同時に、叶湖の携帯電話が鳴った。
「来客ですので、しばらく出ます」
それだけ言い置くと、叶湖はソファに置かれていたショルダーバッグと部屋の隅に置いてあった様々なものが詰め込まれたゴミ袋を持って玄関を出て行った。
つづきます