黒依の選択
「私は無実の人間を殺します、……殺せます。そんな私を許容して、アナタもこちら側の人間になれるんですか?」
そう言い捨てて身を翻した叶湖の背中に黒依が追いすがる。
「アナタのことは愛しています。その気持ちにも、先にいった言葉にも、一切の嘘はありません。……ですが、僕自身はまだ、無実の人を殺せるかどうか、ハッキリとした答えが出せません。でも、もう時間がないんですよね」
「えぇ、そうです。だから、アナタが迷うというなら、私がします。そして、それをアナタが止めようとすることは許しません」
叶湖があっさりと笑顔で告げる言葉に、ぐ、と息を呑んで黒依が口を開いた。
「ですが、アナタにそんなことはしてほしくない。これは、僕の我儘です。許されないのも分かっています」
自分が言ったことを復唱されて、叶湖が不愉快げに片眉だけを上げた。表情は笑顔のままであるが、その深さが増している。もはや、黒依には分かっていた。機嫌が悪くなり始めた合図である。
それに構わず、ですから、と黒依が言葉を続けた。
「ですから、代わりに……僕が組織を潰します。取りこぼしはあるかもしれませんが、それでも、もう誰も僕を追わないように、追えないように、徹底的に叩いてきます」
黒依の決意の言葉を聞いて、叶湖は鼻で笑った。
「その本調子でない身体で……? 自殺願望は健在でしたか」
冷めた瞳で笑顔を向ける叶湖に、しかし黒依はその腕を掴んで自分へ向かせる。
「いいえ。僕はアナタが許して下さる限り、アナタの傍にあり続けます。もし、自殺願望が現れるとしたら、それは、アナタに捨てられた後です。ですから、絶対に生きて戻ります。生殺与奪の権限はアナタが握ってくださったままですよね。だからもちろん、僕はそれに従います。アナタが死ねとおっしゃらない限り、僕はアナタの傍で生きますから」
だから……、と黒依が続けた。
「ですから、僕に一晩だけ猶予を下さい。僕が失敗したら、叶湖さんの方法でいくらでもやってくださって結構ですから」
「失敗したら、そもそも私を止める人間は居なくなると思いますけどね」
呟いた叶湖は壮絶に不機嫌な笑顔であった。深く溜息をついて、僅かにその笑顔が和らぐ。
「猶予は与えます。が、アナタを待ってなどいません。好きにすればよろしい」
叶湖の言葉に、黒依はついに捨てられるのかと、その瞳を闇で染める。
「ペットの分際で私を待たせるなんて、言語道断ですよね。ですから、アナタがもし、私の元に戻りたいと思うのであれば、私がアナタのことを忘れる前に帰ってきなさい」
「叶湖さ……?」
叶湖の遠まわしの許しに目を見開いた黒依を無視して、叶湖はリビング奥のラックへ向かう。
「鉄は限りがあるので、銃1つじゃ心許ないでしょう。アナタ、ナイフは?」
「あっ、えっと、銃より得意です」
覚束ない黒依の返答に、叶湖は厳重に施錠された箱を持ってリビングへ戻ってくる。
「私の趣味の道具です。空也に頼んだ特別製なんですよ。使いつぶしても、箱だけでもいいですから、必ず返しにきなさい。レンタル料はアナタの人生です。それくらいでないと足りませんから」
そう言って、叶湖が解錠した箱の中身は、キレイに手入れされ並べられた20本のナイフであった。ひとつひとつの形状が違い、どこをどう切りつけるのかに合わせて作られているのだろう。もちろん、ターゲットは人を前提としている。
「さすが、珈琲一杯1万円のお店の店長さんですね」
黒依は大事そうに箱を受け取ると、ただの量販店の服にどうやっているのかと驚くほど、20本のナイフ全てを身につけて見せた。
「それから、これが即死の毒薬です。ナイフに塗れば、相手に掠るだけで殺せます。気化しないので、安心して使ってください。万が一、アナタ自身の身体に入った時のために、解毒剤は今飲んでいってください。解毒剤の方は効き目が長いので、即死の危険はなくなります」
叶湖が差し出した2本を受け取り、指示された1本を飲み干す。
「……そんなものまであるんですね」
「趣味の対象は広いので、私」
たぷん、と透明の液体が揺れる瓶も、懐に仕舞いこんで、黒依は叶湖をじ、と見つめた。
「では、行ってきます……叶湖さん」
叶湖の頬に触れるように上げられた手が、その目的を達する前に躊躇い、引き戻されそうになったところで、叶湖の手がそれを阻んだ。そのまま、黒依の手を自分の頬へと誘う。
「覚えておきなさい。アナタが帰る場所は、ここしかないのだと」
「はい、もちろんです、叶湖さん」
黒依が叶湖の頬から手を離したと同時に、叶湖の気配がぴん、と張り詰めた。
今まで見たことがない叶湖の姿に、黒依が訝しげに叶湖を見つめる。表情はいつもの笑顔であるが、それでもどこか、彼女の纏う雰囲気が変わったのが分かった。
「情報屋が、特別に、タダ働きしてあげますよ」
叶湖の言葉で黒依も気付いた。今の彼女こそが、情報を扱う時の彼女なのだと。
そんな彼女の前では隠し事などまるで不可能だと、漠然と、だが、確実に認識する。
「ここから組織までの移動経路、組織周辺、そして組織内のカメラは全て私が抑えます。組織のセキュリティはその機能をぶっ壊した上で誤魔化しますので、アナタや、アナタが殺す相手が大声や音さえたてなければ、いきなり大勢の人間に囲まれる確率は減るでしょう。上手く確固撃破を狙いなさい。……それから、アナタ、暗所での視界は確保できますか?」
「慣らせば、声をあげさせずに殺せる程度には可能です」
黒依が小さく頷いたのを見て、叶湖も笑顔で頷いた。
「さすが暗殺者とでも言っておきましょう。では……そうですね、午前3時丁度に建物全体の灯りを……自家発電や電気系統の機器、全てひっくるめて破壊します。灯りを落とした後は、さすがに騒ぎが起きるでしょうから、それまでにある程度の数を減らした上で、消灯後に混乱に乗じて残りを始末なさい。ただし、3時前には一旦退避して、暗順応に専念するのを忘れないように」
「そんなこと、できるんですか……。と、いうか、ハッキングだけで、電気系統まで麻痺させられるんですか?」
「アナタのことを調べた時に、既に組織のシステムは全て制御化に置いています。その時に知りましたが、あそこは照明をはじめとする電気系統も、全てシステム制御でしょう? 幹部なのに知りませんでしたか? でも、そうですね、ものによっては手動で回復できるものもあるかもしれません。なるべく時間はかけないか……または、そういったことに詳しい人間から殺していくのもアリですね」
「僕は実働部隊だったので詳しくないんです。……ようするに、実働部隊でない人間から殺した方が、場の維持はしやすい、ということですね」
「かといって、実働部隊を残し過ぎると、数が集まって不利になりますからね」
情報を操ることは知っていた黒依であるが、叶湖がその想像をはるかに越える手腕を持っていることに、驚いていた。腐っても暗殺者組織なのだ。セキュリティ面の対策が雑だとも思えない。とはいえ、詳しくない黒依には頷くことしかできない。
「不思議ですか? 世界征服の下積みではありますが、アカズノ間の客からは、情報世界では既に征服が叶っていると、よく言われます」
「……心強いです」
「それは良かった。あぁ、それから。アナタは先ほど取りこぼしがあるかもしれない、と言いましたが、それは出来る限り避けなさい。特に、今回の出来事がアナタの仕業だと気付いた上で、何がなんでも復讐しようと思うような人間は、間違いなく処分しなさい。そういう人間が不在にしていた場合には、朝、今回の騒動が明るみに出るまで待ってでも、確実に仕留めなさい。アナタ、さすがに実働部隊の幹部でも、そういった人間や、組織が持っている隠れ場所の1つや2つは分かっているでしょう」
「はい、必ず、その通りに」
「まぁ、例え復讐心で狙われても、私の情報網をすり抜けられはしないでしょうが、後顧の憂いなど、残すものではありませんから」
叶湖はそこまで言い置いて、静かに黒依を見上げた。
「では、行ってらっしゃい」
「はい。行ってきます」
叶湖の見送りの言葉を背に、黒依は家を出る。
長い寝たきり生活で落ちた筋肉は、戻りかけたとはいえ、まだ万全ではないだろう。それが、力や俊敏性にどれほど影響を与えるのか、叶湖には分からない。
そんな身体で、組織1つを壊滅に追い込んでくるなんて、なんて無茶なことを言うのだと思った。それでも彼は生きて帰って来ると言ったのだ。
既に真っ赤に染まっている叶湖の手を、今さらになってまで、守るために。
その頑なさに、叶湖は呆れた。呆れながら、それでも認めてみせた。
その結論に至った感情に、叶湖はまだ、名前をつけない。
「さて」
一息ついて叶湖は立ち上がる。黒依が全力で飛ばせば、組織に到着するまでは30分そこそこだろう。それまでに、組織のセキュリティを全て乗っ取り、停電の準備をしなければ。
黒依の道すがらのカメラなど、後でどうにでもなる。
悠木と恋に作戦中止の連絡を入れ、ついでに、港付近に現れるかもしれない捜索係の処理と死体の回収を頼みながら、叶湖はパソコンの前で気合いを入れ直した。
途中で切ろうかとも思いましたが、ぶっつづけで投稿することにしました。
あと2話で出会いの話が終わります。




