恐怖症
「っ……」
「目が覚めましたか?」
ソファを背もたれに座り込んでいた黒依は、叶湖が身じろいだのに振り返った。
「今は……と、3時間ほど眠っていたようですね」
時計を見上げ、はぁ、と溜息をつく叶湖の表情にはいつもの笑顔が見られず、少しの疲労が浮かんでいるが分かった。
「まだ、痛みがありますか?」
「いえ、よく効くので痛みはありませんよ。……まぁ、身体の触感ごと薄くなりますが」
「それは麻痺というんじゃ……」
叶湖が告げた現状に、黒依は眉を寄せる。
「何も、触感全てが無くなるわけではありません。……それに、薬が効くまで悠長に待つわけにもいかないでしょう。欠点といえば、急激な睡魔に襲われることの方が厄介です」
叶湖はそんなことを呟きながら体にかかっていた布団を脇によけ、立ち上がろうとする。その拍子に、貧血からか傾いだ体を、咄嗟に立ち上がった黒依が受け止めた。
「すみません」
叶湖が溜息混じりに呟いて、黒依から身体を離す。そのまま、ふらふらと歩いて薬棚に向かうと、白い錠剤の詰まった瓶を取り出した。
「まだ飲むんですか?」
「先の薬はすぐ効いて、すぐ抜けるものなので。その前に飲んでおかないと」
黒依の言葉をあしらいながら、水を汲んで2錠ほどの薬を飲み下す。
重い足取りでソファに戻って座り込んだ叶湖の足元に黒依が膝をついた。
「毎月、こんな調子なんですか? ……痛みが、原因なんですよね」
「……」
叶湖がその質問に答えず視線を彷徨わせ、手を伸ばす。
黒依がその手の行き先を見ていると、すっ、と自分の首元が撫でられた。
そこにあるはずの首輪を外していたことに気付いて黒依が、あ、と呟く。
「すみません、今、着けます」
言って、立ち上がりかけた黒依の手を、叶湖が掴んで引きとめた。
「いいです」
「え?」
「いいですよ、もう、着けなくて」
黒依が驚いて見返すと、叶湖は無表情でそう言った。それ以外の感情は読みとれない、いつもの笑顔よりも、心中が覆い隠されているように感じる。
「それって……」
「捨てるのか、なんて泣かないでくださいね。今、アナタに構う余裕はありません」
冷たいともとれる叶湖の言葉に、黒依は喉から出かかった言葉をぐ、と飲みこんで、1つ頷くだけに留めた。
「分かりました」
再び叶湖へ向き直った黒依を目で追っていた叶湖が、無表情のままで呟く。
「さっきの質問……」
「さっきの……あ、はい」
答える気があったのか、と内心驚いたものの、叶湖の言葉を促すように返事を返す。
「痛みが原因だというのは、そのとおりです。きっかけは、よく分かりません。痛みを感じると身体が敏感に反応して、本来感じるべき痛みとは比べ物にならない幻痛を起こします。症状を知る人間からは……空也のことですが、痛覚恐怖症と呼ばれています。痛みが恐怖心を沸き起こすのか、恐怖心から幻痛を感じるようになったのか、今となっては判別のしようもありません」
「だから、痛いのが怖い……ですか」
「なんですか、それ」
「以前、僕がアナタを泣かせてしまったときに、そうおっしゃっていたのを思い出して」
黒依の言葉に、あぁ、と、過去を思い出すように視線を彷徨わせていた叶湖が頷いた。
「すみません。そうとは知らず、安易に傷つけました」
「今さらですよ、そんな謝罪。言ったでしょう、1度目なので見逃します、と」
「そうでしたね」
叶湖の言葉に黒依はくしゃり、と困ったような、泣き出しそうな笑顔で頷く。
「それから、毎月こうなのか、とも聞いていましたか」
「……すみません、繊細な事情に首をつっこむようなことを……」
「構いません。そうですね、いつもは周期的や兆候を気にして、予め薬を飲んでおくようにしています。薬の多用だ、などと言わないでくださいね。いたしかたがないことなので。……今月は時期を見誤りました」
そう、ですか、と黒依が小さく頷く。
「すみません、お疲れなのに、たくさん喋らせてしまって……。お部屋へ戻られますか? ゆっくり休んだ方がいいですよね」
「えぇ、ですが、軽く食事を取ってからにします。このまま何も食べないのは、薬を飲むにもあまりよくないので」
「食事……僕が作りましょうか?」
黒依の言葉に、叶湖はぱちぱちと目を瞬かせた。相変わらずの疲れた無表情ではあるが、意外なことを聞いたような反応である。
「すみません。勝手なことだとは分かっています。それでも、何もできないのが歯がゆいんです……」
「今日は謝ってばかりですね。……いいですよ。キッチンや冷蔵庫にあるものは、好きにつかってください」
「キッチン……そういえば、僕が近づくのを避けてらっしゃいましたよね?」
叶湖の言葉に、今さらながら思い出した黒依が叶湖の顔色を伺う。
「他人が入るのを嫌っているわけではありません。刃物を前にしたら、またアナタに自殺願望が沸き起こるんじゃないかと思ったんです。でも、もう大丈夫そうですから」
「……死にません」
「知っています」
黒依の言葉に、その日初めて叶湖がうっすらと笑み返した。
「叶湖さんの手料理と比べたら、雲泥の差ですが……」
叶湖は1人で喫茶店を営むだけあって、たいそうな料理上手であった。食事のメニューが1つしかない喫茶店で何を、というかもしれないが、王様セットの中には、ひどく手の込んだ料理が出て来ることもある。何が出るか分からないにもかかわらず、簡単なものですら美味しいと、セットメニューを目当てに通う客も少なからず存在するのだ。
「十分ですよ」
黒依が作ってきたふわふわのパンケーキとホットココアを味わいながら、叶湖がそっけなく呟く。暗殺者らしからぬ女性向きのメニューであるのは、黒依が慣れない気をきかせたのだろう。
いささか返事が冷たいのは味が原因なのではなく、珈琲を飲みたがった叶湖に対し、黒依がカフェイン摂取を留めたのが原因である。それでも、おとなしくココアを啜る叶湖の姿に、黒依は苦笑を浮かべながら様子を見守っている。
「アナタはしっかり食べなさい。私は明日の朝まで出てきませんから、夜も勝手に作ってちゃんと食べるように。何か足りないものや食べたいものがあれば、買いに出てもかまいません。……戻る家を忘れなければ、の話ですが」
「必ず、アナタの元に戻ります」
その言葉に真摯に頷いた黒依を見て、叶湖は満足したように立ち上がった。
「今日からはソファで寝なさい。それから、少しずつ身体の調子も戻していくように」
「はい」
頷く黒依の返事を背に、叶湖は私室へと消えていった。
それを見送った黒依は、キレイに食べきられた空の皿を持って、幾分か幸せそうに立ち上がったのだった。




