決意と脱出
暗闇が空に広がる夜。邸内では、時計の音がいやに大きく響いていた。
クレアの部屋のベッドではイヴが寝息をたてている。目覚めた時誰もいないのが怖いとのことだ。
彼女は年季の入った椅子に腰をおろし、父親の残した書物を読んでいた。
(そういえば父からラピスラズリという鉱石の話を聞いたことがある。一昔前は準宝石として扱われていたが、太古には最も綺麗な青の一つとして重宝されていたとか)
準宝石と呼ばれる宝石は細工が簡単だが、ダイヤモンドなどの硬い鉱石よりはやはり見た目が劣る。
そんな理由もあって、太古と一昔前では宝石の嗜好も異なっていたのだ。
「ラピスラズリ...彼女の瞳の色が...そうなのか」
一度見ただけの色だが、その瞳の色はクレアに衝撃を与えた。
彼女の瞳の色は、飲み込まれるような深みのある青。しかし光を浴びると、全てを照らす輝きを放ち、自分の知っている世界が小さく思えるほどであった。
そう、あれは正しく、夜空を見上げて己の小ささを実感する時のよう。
だが、それがラピスラズリと同じ色なのかはクレアが知る筈もない。
「この色が空に広がってたら、世界ももう少し穏やかになっただろう」
誰もいない部屋の隅にそう呟くと、クレアは窓に当たる小雨の音を聞きながら、深い眠りに落ちていった。
...
......
.........
ガリガリと、霞んだ車のエンジンが邸の前を通り過ぎる音がした。
朝日がカーテンの隙間から差し込み、
イヴは重たい瞼をあげる。
ここまで熟睡できたのはいつぶりだろう。誰かに怯えることもなく、惰眠を貪ることができる至福。彼女はその幸せを感じながら身体を起こし、一階に向かった。
「おはようイヴ。顔を洗うならその角を曲がって突き当たりの部屋だ。コンタクトがあるからそれをはめて。朝食は準備できてるよ」
階段を降りると、広間でクレアが待っていた。腕まくりをしている所から、朝食は彼が作ってくれたのだろう。焼いたパンの香りが、彼女の食欲を増す。彼女は「ありがとう」と礼を言って洗面所へ向かった。
「クレア様。それで、どうなさいますか?」
「うむ。いつまでもここで匿うのも無理がある」
「えぇ、私めはクレア様が触法にあたってしまうのか心配でなりません」
年寄りメイドが両手を祈るようにして心配の意を表す。
「あぁ、まぁその話はあの子がいない時にしよう」
「ですが...」
「心配性だねバーバラは。庭の手入れをマリヤがしてくれている。君も手伝ってきてあげてくれ」
クレアは彼女との会話を断つために若いメイドを手伝うよう指示した。
クレアは、イヴを色攫いや政府に手渡すつもりは毛頭なかった。彼女の危険を回避することだけが目的ではなく、父の遺した鳩のモザイク画を完成させる何かの手掛かりになるかもしれないと考えたのだ。
時間があるとすれば今だ。
クレアはこの邸を捨てようと内心考えていた。一息ついているイヴを2階へと連れて行き、ベッドに座らせて事情を説明する。
「よく聞いて、メイド達が君のことを政府に報告するのも時間の問題だ」
イヴは固唾を飲んで聞いていた。
現に、メイド達、特に年寄りメイドはイヴを平和な邸に来た厄介者としか思っていない。
「だから今すぐここを出る。どこか君が平穏に暮らせる場所を探すんだ。きっと青がある場所なら君も襲われることはない。だから旅に出よう!」
唐突な提案に、彼女は言葉を発さず首を縦に振った。クレアは荷物を纏め、部屋の窓を開けた。
鉄のような冷たい風が部屋に入り込む。
「玄関先の庭にメイドがいる。靴はあるから裏庭から逃げよう...あ、朝食はバスケットに入れといたから」
クレアははにかんでから、ダマスク柄のカーテンを引きちぎり、それを結びつけて綱にする。2人はそれをつたって庭の地面に足をつけた。
イヴは切羽詰まった状況で終始無言で指示に従う。裏庭から門を越え、通りを抜けて近くに止まっていた馬車を拾った。
「ふぅ。危ないところだった」
ここに来る途中、玄関の正門のほうを横目で見やると、既に色攫いの連中が馬に乗って来ていたのだ。
年寄りメイドのあの焦りは、独断で色攫いに報告したことに後ろめたさを感じ、クレアを同意させようとしていたのだろう。
あのままだとイヴは確実に捕まっていた。冷んやりと寒気がクレアの背中をなぞった。
馬の蹄と石畳がぶつかり、乾いた音が鳴る。ここから先はクレア自身も、青い眼の人間を庇った者として罪を被ることとなる。
リトリー家という後ろ盾は無くなってしまったが、クレア自身は後悔していなかった。
財政難の政府にとって、色の貿易は貴重な収入源。それを脅かす輩には容赦しないはずだ。
「本当に良かったんですか...?私のせいで...」
ツバの広い帽子を深く被ったラピスが言う。暗澹とした気持ちが顔に表れていた。
「あぁ、君を放っておけないしね。それに、青の世界を見つけて、このモザイク画を完成させたいんだ」
「それは、昨日見せてくれた」
「君を彼らに突き出していれば、私はのんびり安泰して暮らせたかもしれない。でも、そんな人生より、誰もが見られなかった最高の色を、この目で見られる人生。そっちのほうが価値があると思わない?」
イヴは暫し沈黙してから首を傾げた。
「私は生きていられるだけで、それだけで良いけどね」
2人の境遇は違えど、2人の願いは奇妙に交差し、捻れるように絡まっていた。
イヴは、生きるためにクレアを必要とし、クレアは、青の世界を見つける手掛かりとして、イヴを必要としていた。
何とも不思議な利害関係が2人の間に構築された。
昨晩の雨は止み、緩い風が道脇の植木の葉を揺らしている。