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『二角馬の鬣』亭では今宵、傭兵ギルド《盾を掲げる者達》が祝杯をあげている。それなりの広さを誇るこの飯宿の一階部分――食事処――の一角を占拠し、現場に出る若者や経理をする老人、果てはよく利用する鍛冶屋の親爺まで、普段街で生活するにあたって世話になっている殆どの者が揃っている。また、仲のいい商売女を連れ込んでいる者もおり、それにおこぼれに預かろうとする物乞い、詩人などが加わって、傍目にはいったい何の集まりなのか非常にわかりにくいものになっていた。
「いやぁ、それにしてもついてた」
何度目になるのかわからないほど繰り返された台詞を吐くのは、金の髪を刈り上げた二十半ばの男だ。仕事からあがった今は鎧を脱ぎ、分厚いリネンの鎧下に毛皮のマント、ブーツといった身格好だ。白い肌は赤くなっているが、今日のそれは雪焼けのせいだけではない。
「まさか手負いのバジリスクが向こうから殺されにくるなんてな」
そう答えてワインの入ったコップを置き、酒臭い息を吐いたのは黒髪を無造作に伸ばした男である。こちらも年若く三十は迎えていないだろう。
金髪の男はうむと頷き、
「出会った瞬間は死を覚悟したが、まさか両目が潰れているとは」
「あん時のお前の顔といったらなかったぜ、アレス。最高に笑えた」
黒髪の若者はそう言うとニヤニヤと口元を歪める。
アレスと呼ばれた若者は憮然として、
「お前だって人のことは言えないだろう。一番最初に背を向けたのは確かお前じゃなかったか? エィミがこのこと知ったらきっと幻滅するだろうなぁ」
「ばっ――お前それはっ!」
「私がどうしたんですか?」
話に加わってきたのは若い女性だ。薄絹の紗幕の如く真っ直ぐな、くすんだ金髪を、フェロニエール――額に宝石のついた装飾用の鎖――で留め、内側にビュスクのついた長袖のブラウスに厚手のスカート、踵の高いブーツを履いている。肌は日に焼けたことがないのではというほど白く、頬は赤子の柔肌のように瑞々しい。頭の上からは三角の耳が飛び出ており、半ばから垂れている。
「なぁに。今度の儲けでお前を身受けできそうだって話してたのさ」
「そうなの?」
エィミは小首を傾げつつ、
「でもミトの言葉が本当なら、私の身体はもう何体もあなたの元にあるのじゃないかしら?」
「お前‥‥‥」
「ち、違うんだ! 今度は本当なんだってば!」
アレスの責めるような視線に、ミトと呼ばれた男は慌てて手を振る。
「やはり小金が貯まったからといって安易に身請けするのは先々の生活を考えたらまずいと思うんだ。やっぱそれなりの貯蓄をして初めて結婚を考えるものだよな」
「ほー。それでいくら貯めてるんだ? さぞかし多いんだろうな」
「そんなのは口にできねぇさ。誰がどこで聞き耳立ててるかわからないんだから。夜道に襲われんのは真っ平だぜ」
「よく言うわよ。どうせ今回の分配金がそのまま貯金額なんでしょ」
ミトに悪態をついたのはアレスの隣に座っている女だ。アレスやミト同様、団で大半を占めている猿人族で、革鎧の上に毛皮のクロークを羽織っている。
女は栗色のショートヘアをかきあげながら、
「だいたいねえ。商家の坊っちゃんや地主とかならともかく、いつ死ぬかわからない職業なのに身請けするなんて馬鹿じゃないの? 女の子がかわいそうでしょうが。そういうのは四十過ぎまで頑張って生き残って、それで引退するときに貯めたお金で土地でも買って、畑の作物が実ってからにしなさいよ」
「どんだけ準備するんだよ! 周到過ぎだろが!」
「他人の人生背負うんだから当然じゃない。私みたいなその日ぐらしの女や職人や商人の子女じゃないのよ。相手には選択の自由がないんだから、やれることはやっとくのが筋でしょ。本当にその相手が好きならね」
「ぐ――で、でもよぉ‥‥‥」
「まあそう言ってやるなよ、ルルシェ。俺やミトみたいな男からすれば、いつ死ぬかわからないからこそ悔いのないようできることはやっておきたいのさ」
同じ男として思うことがあったのか、擁護したのはアレスだ。骨から剥ぎ取った肉を咀嚼しながら、
「死ぬ前に子をなしておきたい。そういうことだろ、ミト?」
「俺がもうすぐ死ぬみたいな言い方はやめてくれないか‥‥‥」
「可能性は誰だってある。俺だって明日死ぬかもしれないんだ」
「へぇー。明日死ぬかもしれないから悔いのないようにねぇ」
ルルシェの蒼い瞳が氷柱のようにアレスを貫いた。
「その割には誰かさんは随分ゆっくりしてるみたいで。もしかして安全な場所にいる恋人に既に仕込み済みで悔いはないってことかしら?」
「い、いや‥‥‥そ、そんなことあるわけないだろ! 俺が毎日どういった生活してて、そんな時間があるかどうかなんてよくわかってるだろうが!」
誤魔化すように料理に手をつけるアレスと、いつもの如くそれを追求しきれないルルシェを、ミトとエィミの両者は、片やにんまりと、片や微笑ましいものでも見るように眺めている。
そこへ、離れたテーブルで額を突き合わせていた年配の男がやってきて、適当な椅子に座ると話しかけた。
「よぉお前等。ちゃんと飲んでるか?」
「団長」
アレスは救いとばかりに顔をあげ、
「話し合いは済んだんですか?」
「おう。それなんだがな――」
団長と呼ばれた男は、機を見るに敏なエィミが素早く用意したワインをチビチビと飲み、蜂蜜のかかった豚肉を食べながら答える。
「やはり、俺達八人は引退することにした」
「そうですか‥‥‥」
テーブルのうえに沈黙が垂れ込める。見渡せば、それはこの一角だけではない。引退すると決めたベテラン勢が話してまわっているのだった。
アレスは落ち着いて、
「それにしても八人全員が、ですか‥‥‥」
「悪いとは思っている。迷っている奴もいたんだが、そいつらに重荷を全部引き受けさせるのもあれだしよ。今回のはいいきっかけだった。俺も白髪が気になり始める年頃だからな」
「これからどうするんですか?」
「いろいろさ。商売に手を出す奴もいれば、畑を耕す奴もいる」
「団長は?」
「俺か? 俺は結婚して、嫁の実家を継ごうかと思ってる。だいぶ待たせちまったし」
テーブルについていた者は皆、納得顔である。団長が懇意にしていた商売人の娘と恋仲なのは誰もが知るところだ。
「でも団長、商売なんかできるんですか?」
「わからないことに無理に手を出すつもりはないさ。それに長年この稼業をやっていたからこそできることもある。要は雇われる側から雇う側になったってことだ。そのうちお前達にも何か頼むかもな」
「その時はよろしくお願いします」
「うむ。――まあ俺達のことはいい。どいつもお前達より長く生きてるんだし、そのぶん金も知り合いも多い。問題はお前達だ」
「も、もしかして、解散するんですか!?」
声をあげたのはミトだった。焦った表情で、
「そりゃないっすよ団長! 明日からどうやって食ってけばいいんですか!?」
「あれ? さっき貯金してるって言ってなかったっけ?」
「それとはこれとは別なんだよ! 貯金は使わないからこそ貯金なんだ!」
「話は最後まで聞け」
憤懣やるかたないといった様子のミトを宥めるように団長は言う。
「この傭兵団は、俺が若い頃に同年代の奴等を集めて作ったものだ。戦死して途中何度か人員を補充したせいで、最初期からいるメンバーなんて二人しか残ってない。それはつまり、俺とそいつ以外は皆、雇われているも同じってことだ」
「はあ‥‥‥」
「初めは団を解散して、所属してる奴等には今回の分配金を与えて終わりにしようと考えていた。後は各々自分達の力でやっていけってな。だがそれじゃ、さっきミトが言ったようにお前達は暫く稼ぎがなくなる。そこで俺達引退組は考えたわけだ」
「なんか嫌な予感がしてきたぞ」
手を擦り合わせて淡々と話す団長を見た三人は不安そうな顔をした。
「希望者を募り、団を売ろうと思う」
「代わりに何を差し出せば?」
アレスは溜め息とともに吐き出す。この世にはただな物なんてない。母親の愛だって金に代わるのだ。
「なぁに。そう無理な内容でもない。今回の金、俺達引退組にちぃっとばかしイロつけてもらえりゃそれでいいさ」
「なんてこと言うのよこのじじい! さっさと死ね!」
毒を吐いたルルシェに、団長のこめかみが引き攣った。
「‥‥‥おいアレス。てめえの女くらいしつけとけ」
「す、すみません!」
アレスは咄嗟に何か言おうとするルルシェの口を手で塞ぎ、謝る。そして話を逸らすように、
「ぜ、全部じゃないんですよね? その代わり俺達は何を貰えるんですか?」
「勿論全部じゃねえ。俺達もそこまで鬼じゃないからな。それに十分元は取れるって思ったからこそ言ってんだ」
団長はルルシェを無視することに決めたようだった。アレスとミトを意識して答える。
「団の名前と獲物の販路。紹介状を書いて引き継ぎまでしてやる」
「それは‥‥‥」
「当たり前だが今までのようには無理だぞ。人数が半減するんだからな。それでも、仕事を選べば食っていける筈だ。初めは義理だろう。だがそれに結果を出せりゃ、規模に合わせた仕事を紹介して貰える。要はお前たち次第になるってことだ」
「私達次第ならいちいち団なんか継がなくったっていいじゃないのよ! 丸損じゃない!」
考え込むアレスの手から逃げたルルシェが噛みついた。
団長はそれを冷たい目で一瞥し、アレスに向けて、
「世の中、実力を発揮する機会に恵まれずに不遇を囲ったまま死ぬ奴は多い。お前達が想像してるよりもな。力量に合った仕事を選べ、これまでのやり方を踏襲して仕事にかかれるなんざぬるま湯もいいとこだぞ。考えてみろ、これまで培ってきた評価をそのまま使用できることのメリットを」
「わかってます」
アレスは神妙に頷き、
「それに関しては不満はありません。団長には世話になったし、ここで一年二年働かずに暮らせる程度の金のために喧嘩別れするよりも、団を継いで繋がりを維持してた方が長い目で見ればいいかもしれないってのはわかります。問題は――」
「問題は?」
アレスが言いにくそうに口をモゴモゴさせるのを見て、団長は声を潜めて聞き返す。
アレスもまた口元に手を添え、声を落とした。
「さっき希望者を募ると言いましたが、他の団員が全て賛同したとして、俺達は彼等とやっていくわけになるんですよね?」
「ああ。お前の言いたいことはわかっている」
団長は干し葡萄を口に含むと顔をしかめ、気まずそうに、
「だがここで不公平な扱いをするわけにもいかん。少なくともあいつらは俺達の前ではきちんと礼儀を弁えてた」
「でも団長達はいなくなります」
「‥‥‥‥」
「私は嫌よ!」
言い切ったルルシェは切羽詰まった様子である。今すぐにでも金を受け取って縁を切りそうな勢いだ。
「団長達がいなくなった後もあいつらと仕事しなきゃいけないならすっぱりここを抜けるわ。ちゃんとお金を貰ってね!」
そう言うとアレスの腕に手を置いた。
「晩御飯を作って部屋で待ってるわ」
「おいおいこいつ朝飯と昼飯作らねえ気だぞ、アレス。今からでも返品したほうがいい」
「ちゃんと作るわよ! 変なこと言わないで!」
ルルシェは肩を竦めたミトを睨み付けた後、団長に向かって、
「でも私だってできれば一人抜けたくなんかないわ。そこで相談なんだけど――立つ鳥あとを濁さず。再出発するなら後片付けくらいしていってくれてもいいんじゃないかしら?」
「‥‥‥どういう意味だ?」
「鈍いわね。団長、前に言ってたじゃない。自分には悪どいことも平気でやるような傭兵団の知り合いがいるって」
その言葉を聞いた団長はぎょっとした顔になった。
「お、おい。お前いくらなんでもそれは‥‥‥。一応まだ同じ団の仲間だなんだぞ」
「だからなによ。この際言わせてもらうけど、私はもうあいつらに視線を向けられるのすら嫌なの。ぞっとするのよ」
ルルシェの表情は真面目なものであった。そのせいか、誰も茶化そうとはせず、神妙そうに聞いている。
「お前が嫌がってたのは知ってたが、そこまでだったとは‥‥‥」
と、団長。諦めたように顔をあげ、
「こりゃこのままでは無理そうだな。俺としてはアレスが団長になってこのままやっていくのが一番いいと考えていたんだが」
「そりゃ無理ってもんだ、団長」
ミトが苦笑いしながら言う。
「ダーシェはともかくあの三人は絶対認めないだろ。俺にだってわかるぜ。自分達のほうが年上だから仕切ろうとするに決まってる」
「そうよ」
ルルシェもそれに相槌を打ち、
「そもそも年が上なのを差し置いてアレスを長に据えようとしてる時点で団長にもわかってるんじゃない。あいつらが人の上に立つような人物じゃないって」
「んで、そういつやつに限ってプライドとか高いんだよな」
「そうそう」
賛同者を得たルルシェはうんうんと頷き、
「だからあいつら三人がいなくなれば全部上手くいくのよ。団長なんとかしてよね」
「それは駄目だ、ルルシェ」
それまで黙って聞いていたアレスがそう言った。
「これは団長の人生第二の出発なんだ。犯罪者として送り出すわけにはいかないだろう。だいたい今の時点では君の好みの問題でしかない。これから先何か起こったとしても、それは団長じゃなくその時の当事者である俺達で処理すべき問題だ」
「なによ! 私が心配じゃないってわけ!? 何か起こってからじゃ遅いじゃない!」
「い、いや‥‥‥そういうわけじゃ――」
「じゃあどういうわけよ! 私が何かされそうになるのを待つって言ってるようなもんじゃない!」
「な、泣くことはないんじゃないか。これくらいで」
「馬鹿っ」
目を赤くしたルルシェはミィナの胸に飛び込んだ。
ミィナが優しく頭を撫でるのを、ミトは羨ましそうに、団長は白けた目で眺め、
「こんな時まで痴話喧嘩か。アレス、お前が将来道を誤るとしたら絶対これ関係だぞ」
「変な予言しないでくださいよ。俺は女で道を踏み外すような真似はしませんって」
「自分は詐欺にかからないと思ってるやつほど騙されるって話を知らんのか?」
言って、団長はどうしたものかと眉を寄せて考え込んだ。酒で口を湿らせながら、
「どうしたもんかなぁ。将来変な真似をするかもしれないってだけで片付けるのはちょっとあれだしなぁ」
「金を払って抜けさせればいいんじゃないですか? 団長達の取り分は少し減りますが」
「黙ってことを進めると禍根を残すぞ。お前達も、目の届かない場所で大事な人を傷つけられるのは嫌だろう」
「団長は俺達にあいつらを始末させたいんですかねえ」
やりすぎだと言いながら、最早悪党であることが確定しているかのような物言いに、ミトがおどけたように言った。
その時、ルルシェがミィナの腹部から顔を離し、ぽんと手を打って話す。
「そうだわ。なにも団長に頼まなきゃ駄目ってことはないじゃない。要は紹介してもらえばいいのよ。さっき言ってたわよね、引き継ぎまでしてやるって。それも中に含めといてよ。それで、そういった裏のことは団長予定の人にだけ教えるの。ま、当然よね。必要ない奴に話したって秘密が漏れちゃうだけだし」
「お前スゲエ冴えてるな」
「どうしてそれを仕事中に発揮しなかったんだ?」
「うっさい黙れ」
ルルシェはミトと団長にそう吐いた後、アレスに対し、
「ねえ、それでどう?」
「‥‥‥別に構わないが」
アレスは少し躊躇った後、
「でも依頼する可能性は低いぞ。仮にそうすることになっても罪が決定的になってからだし、その時には既に俺達と向こうで殺し合いが始まってるだろうから」
「なんでよ! 今日の夜に教えてもらって明日依頼しに行ってよ!」
「無茶言うな!」
「無茶じゃない! 襲われてからじゃ遅いの! 殺られる前に殺ってよ!」
「わかったわかった――いや、わかってないけどとりあえず声を落とせ。そんな殺すだの殺るだの叫んでたら襲うも襲われるもない」
「おい、グレッグ」
アレスが興奮したルルシェを宥めていると、年配の団員がやってきた。
名前を呼ばれた団長は一瞬聞かれたかと焦ったが、表情からどうやら違うらしいとあたりをつけて、
「どうした。酒が足りなくなったか?」
「いや、違う。なんか変な二人組が‥‥‥」
「変な二人組だと?」
団長は入り口付近を見やり、眉を寄せた。
「ただの吟遊詩人じゃないか」
店に新たにやってきたのは大きな男と女だった。女の方は手ぶらだが、男は剣をはき、年季の入った大きなハープを抱えている。
仮に、何も持たずに街ですれ違ったらまずそうは思わなかったであろう。だが楽器の印象というのは強烈で、例えどんな変な服装や体格であっても、それを持っているだけで奏者だと相手に思わせる力があった。
「でも営業許可証の出所が傭兵組合なんだぜ。お前、引退するって報告したりしてないよな?」
「‥‥‥たしかにそうだが」
吟遊詩人が店に出入りするには許可証が必要である。等級が二つあり、領主の出すものと組合が出すものがある。組合が発行したものはその組合の出入りが許されている店でしか効力がなく、またその組合に属している某かの推薦がなくてはならなかった。
つまりその二人組の許可証では傭兵組合の出入りが許されている店でしか営業ができないということだが――
「別に問題ないんじゃないのか? しいていえば推薦した団が気になるが」
「それが推薦したのは『闇のなか』なんだ」
「なんだと!」
団長――グレッグ――は、今度は驚きを隠せない。何故ならその傭兵団こそが――
「――噂をすれば影ってか」
「なんのことです?」
「さっき話してたことだよ」
手間が省けたとグレッグ。アレスに対し、
「『闇のなか』ってところがそうだ」
「ツイてるじゃないの! これはもう依頼しなさいという神の思し召しだわ!」
「まあ待て」
聞き耳を立てていたルルシェが鼻息も荒く接触しようとするのを止める。
「それはあくまでも傭兵団のことであって吟遊詩人のことじゃない。あいつらは推薦されただけの一般人だろう」
「でもそれっておかしくないですか?」
今度はミトが話しかけてくる。グレッグは子供の言うことに耳をそばだてる大人のように根気よく、
「なにがだ?」
「なにがって‥‥‥なんでそんなとこが詩人なんか推薦するんですかね? たしかに吟遊詩人を見たら間喋だと思えって言いますけどね。それならそれで推薦者の名前をわざわざ出るようなやり方はしないと思うんだけど」
グレッグは唖然とした表情でミトやルルシェを見やった。
「おいおいお前達。俺達が引退すると決めてからこっち、えらい冴え渡ってるじゃないか。もしかして今までは手を抜いてたのか?」
「俺はいつだって真面目ですよ」
「嘘つくなよ。――それで、さっきの疑問だが、もしかしたら本当に個人的な知り合いかなにかで、純粋に金を稼ぎにきたのかもしれん」
「そいつはあんまりにも都合がよすぎるってもんですよ、団長」
「訊いてみればわかることだ」
そう言うとグレッグは席を立ち、二人組の元へ向かったのだった。
「だいぶできあがってるみたいだナ」
店内に入り、様子を把握したナーの第一声だ。今日は鎧を着ておらず普段着である。護身用の武器だけ腰に差している。
「その方が都合がいいと言うものよ」
共に足を踏み入れたムウもまた同じだった。護身用に長短の剣を左右の腰に、投擲用のナイフを両の二の腕と太股とブーツに、あと腰の後ろに差していた。手には古ぼけたハープがある。まるで拾ってきたかのようなくたびれ具合だが、先祖代々伝わっている一品という設定であった。
「あの男、でかい口を叩くだけのことはあったようだ」
言うのは酒場で出会った壮年の男のことだ。
あの後、別に殺し合いが始まるというわけでもなく、終始穏やかな雰囲気で話し合いが行われたわけなのだが、相手の目的がムウのスカウトだったこともあり話はとんとん拍子に進んだ。今では条件付きだが協力者である。楽器の貸与も含め至れりつくせりだ。
「それで、馬のことを訊いたら終わりかナ?」
「訊くではない、聞く――だ。いったい何のために奏者に変装したと思っている」
「巡回の兵士に怪しまれないように?」
「もちろん違う。これは、相手に目的のものと繋がった印象を与えずに情報を引き出すためのものだ」
「ほー。そうナんだぁ」
もし直接に、「その馬と驢馬をどうしましたか」と訊ねた場合、将来その件で問題が起きた際、それを耳にした彼等は真っ先にムウの顔を連想してしまうだろう。だがもし何の変哲もない会話の中で、向こうからそれについてこぼしたならどうであろうか。きっと彼等は昨晩の夕飯の献立を忘れるようにムウの顔を忘れているに違いないのである。
「まずはここにいる奴等の警戒心を解き、打ち解けるのだ。するとどうだろう。会話をする奴等の脳裏には馬と驢馬の姿がチラついて仕方がない。そして出来たばかりの友人にそれを話してしまうというわけだ」
「いやいや。それ絶対無理があるから」
「ふん。無理かどうかはやってみればわかることだ。それとお前にも協力してもらうぞ。金を払っているのだからな」
「それは構わないナ。命の危険がない仕事だし」
「ではまず席の確保だ。お前は店の主人に話を通してこい。俺は場所取りをしておく」
「わかったナ」
ナーに許可証を渡して、店内をさまようムウ。あまり酔いがまわり過ぎていても話にならないので、理性を残しつつも陽気さを隠せないでいる輩を狙う。
「おう兄ちゃん。なんか一曲吟ってけよ」
テーブルの間をすり抜けるように歩いていると、三人の男と二人の女がいるテーブルから声がかかった。
横幅のある粗野な男が三人と、そんな男達と席を共にしているからには商売女に違いない二人である。全員頭が悪そうに見える。
一瞥したムウは選択肢から除外した。
「すまないが、先約があるのでな」
「あ? そんなん無視しろよ」
男の台詞は予想したものとそう変わりないものであった。
ムウは話しかけてきた男の足元に唾を吐いて言い返す。
「――同じことを二度も言わせるな、ゴミめが。今すぐ死ね」
「なんだとコラァ!」
男は激昂すると椅子を倒して立ち上がった。
その大声に周囲の客が何事かと視線を向ける。
ムウはハープを構えると、芋虫のような指を弦に這わせ、かき鳴らす。
ポロンと、軽快な音色が響いた。
「今のが、『死の宣告』という詩です」
ムウは畏まりながら言った。
「楽しんでいただけたでしょうか」
「誰が楽しめるか! ふざけた真似してんじゃねえぞ!」
「お前の言いたいことはよくわかるとも」
ムウは頷きながら、
「だから三日くらい口を閉じていてくれないか? そしてその後、死んでくれ」
再びハープをかき鳴らす。
「――二番だ」
「どうやら喧嘩を売ってるみてぇだな。――上等だ! 相手んなってやるから表に出ろや!」
「いくら持ってるんだ?」
「なに?」
「金だ、金。いくら持っているのかと訊いている」
「‥‥‥なんでてめえに話す必要がある」
「お前が俺に支払わなければならないからだ。詩の代金だよ。直接的な依頼だったのだから当然だ」
「馬鹿かてめえは。払うわけねえだろ」
「夜間料金に割り込み料がついている。だいぶ値が張るぞ。果たしてお前の懐で賄えるかな?」
「払わねえっつってんだろうが!」
「支払いを踏み倒す気かね?」
「そもそも払う必要がねえんだよ!」
「先約があると断った俺に、それを無視しろと言ったのは動かしようのない事実。俺はそれに応えた。お前には支払いの義務がある」
「黙れ! ごちゃごちゃ抜かしてねえで表に出ろ!」
男は酔いのまわった顔を赤くして怒鳴った。そしていいことを思いついたというように、
「いいぜ。表に出た後もまだ同じことが言えるようなら幾らでも支払ってやるよ」
愚かな男である。ムウは冷たく相手を見据えた。
その生まれ故か、ムウは相手が魔法を行使しようとする際、それが形をなす前にほぼ察知できる。魔素に敏感だといえる。ムウの感覚を潜り抜けて魔法を行使するには、予め隠すための魔法を――あるのならば――使用しておけばいいが、そんなのは現実的ではなかった。何時如何なる時も戦闘になることを考えて魔法を行使し続けておかねばならないのだ。
もしかしたら世の中にはそんな修行僧じみた暗殺者がいるかもしれないが、目の前の男は到底そうは見えない。そもそもそれほどまでに警戒心の強い者が、このようなやり取りの結果を戦いに帰結させようとするのは考えられないことである。
「わざわざ外に出るまでもない」
ムウはずいと男に近づき、高みから見下ろす。
「今からここでやろう」
「馬鹿かてめえは。こんな狭いとこでやったら店が壊れちまうだろうが」
「負けた方が弁償すればいい。それとも勝つ自信がないのか?」
「――チッ。とことんむかつく野郎だ」
この距離ならば、余程の想定外の出来事が起きなければ勝てると踏んでのことである。ムウは勝利の後に手に入るであろうお金のことを考えると内心笑いが止まらなかった。森で男達の死体から取った分が心許なくなっていたのだ。今夜この店に集まった者達はだいぶ羽振りが良さそうなので期待できる筈だ。
「まったく生活費を稼ぐというのも楽じゃない」
「あ? なにがだ?」
「いや、なんでもない。独り言だ。それよりさっさと始めようか」
「いいぜ。床を舐めて後悔しやがれ」
「お前がな」
ムウは傍で傍観している男に合図を出すよう言おうと思ったが、それをやると何時始めるかが予測出来てしまい、相手が魔法の準備をする可能性があると気づいた。確実性を高めるためには先制しなければならないが、そうすると合図前に攻撃せざるをえず、勝っても横やりが入ってしまうかもしれない。
一番いいのはすぐ始めることである。
「では俺が話し終わったらそれを始まりの合図にしよう。ルールは死ぬか気を失うか、もしくは降参したら負けだ。では――」
「そこまでだ!」
話し終わる前に待ったがかかった。目の前の喧嘩相手ではない。背後からだ。
割り込んだのはムウやテーブルにいる三人の男達よりも一回り年嵩の男だった。
「店内で騒ぐんじゃない。周りに迷惑をかけるな。それにデイビッド――」
男はムウの目の前の相手に対し、
「一般人を相手に暴力沙汰を起こす気か? 組合の規則では、許可なき戦闘行為が認められるのは身を守るためか、相手が犯罪者の場合のみ。破れば追放処分か強制労働だぞ」
「ち、違うんです団長! 全部こいつから――」
「何も違わん。訊くが、この奏者は犯罪者なのか? その根拠は? 見たところ誰も武器を抜いていないし怪我もしていないみたいだが、お前は彼に危害を加えられたのか?」
「待ってくださいよ! この野郎は俺に死ねとかほざきやがったんでさあ! そんなの看過できませんよ!」
「‥‥‥それは本当かね?」
問いかける団長にムウは頷いて答えた。
「よくあることだよ。演目の中の台詞を真に受けてしまうのはな。おそらく、現実と空想の別がついていないのだろう」
少年などによく見られる状態である、とムウ。
「大まかな流れを説明すると、吟えと言われたので用があるからと断ったら、それは無視しろとのことだったのでな。俺はまぁこう見えてもいっぱしのプロ。我慢して場にあった詩をチョイスしたわけだ。もちろん何か指定があればそれを詠んだだろうが、特にそういうのはなかったものでね。だがこの男はそれに金を払わないという。確かに俺達は普段強制的に支払いをさせているわけではない。言わば善意のおこぼれで飯を食べている。しかし一度は断った相手に直接依頼されれば話は別だと思わんかね?」
「てめえふざけるな! 都合のいいことばかり並べてんじゃねえぞ!」
「落ち着け!」
ムウに掴みかかろうとするデイビッドを団長が押し止める。
「とりあえず向こうの言い分を聞いただけだ。今度はお前の方も聞く。さ、言ってみろ」
「え――いや、こいつは俺に死ねと言いやがったんですよ。それで俺は頭にきて‥‥‥」
「そうか。でもまず最初からだ。お前は断った相手に無理強いしたのか? それともしてないのか?」
「もちろんしていません」
デイビッドはきりりとした顔つきでそう述べた。
「俺は、真面目な男ですから」
「‥‥‥本当なんだな」
「本当です。ダンやミズーリに訊いてみてください」
二人の名前を出された団長は渋い顔になる。確かに同じテーブルについていた二人は一部始終を目撃しているだろうが、信憑性があるかと言われれば、ない。
「まったく世話のかかる」
団長は嫌そうに懐から巾着袋を出し、大きな銀貨を手に持つ。そしてそれを同席していた女に差し出し、
「何があったか話してくれ」
「‥‥‥こんなにいいの?」
「ああ。話したらこの場には居づらくなるだろうしな。あとで娼館にも話して後腐れはないようにする」
「ありがと」
女はにっこりして大銀貨を受け取り、話す。
「一応そっちの大きなお兄さんがいってたことに間違いはないかな」
睨み付けるデイビッドに肩を竦めてみせ、
「でもデイビッドが怒るのもしょうがないような詩でもあったね。あれが本当にそうなのかは置いとくとして。けどそれを言っちゃうと最初に怒って当然なのはそっちの詩人さんの方だからねえ」
「売り言葉に買い言葉で言い合いになったが、きっかけはデイビッドの無理強いだったと?」
「そうだね」
「わかった。ありがとう」
礼を言った団長は少し不安そうな女の耳に顔を寄せ、
「心配するな。報復がされないよう館の主人にちゃんと伝えておくし、デイビッドもそこまで馬鹿じゃない。それれにもし仕返しがあるとしても、矛先はお前じゃなくあのでかい男に向けられるだろうよ」
安心した女はそそくさと場をあとにする。残されたのは怒り心頭のデイビッドである。
「このことは忘れろ、デイビッド。その方がお互いのためだ」
「なんでです! 団の仲間である俺よりそいつの肩を持つなんて!」
「まったくだ」
黙って話を聞いていたムウだが、聞き捨てならないことを言われ口を開く。
「忘れるなんてとんでもない。明日から街中で今日あったことを吹聴してやる。その男に関わろうとする者がいなくなるまでな」
ムウはポロンとハープを鳴らした。
「俺は吟遊詩人。作り話や過去の出来事を誇張して聞かせるのが生き甲斐なのだ」
「て、てめえ――」
「まあそう言わずに。まずはこれを」
団長が差し出した銀貨をムウは受け取って懐にしまった。
「なかなか話のわかる奴だな。吟遊詩人に返り討ちに遭おうとした傭兵を、颯爽と助けに入った男の物語が、今出来上がった」
「できればそれはあんたの心の中だけにしまっておいてくれ」
「了解した」
「団長! なんでそんな奴に金なんか――」
「別にお前に払わせたわけじゃないだろうが。俺の金だ。気にするな。それともうこの件は終わりだ」
「そんな馬鹿な! このままじゃ俺の気がすまないんですよ!」
「つまり金銭の問題でも刃傷沙汰でもなくお前の気分の問題ってことだろう、それは。むかつくからどうにかしろなどと言う要求が通ると思っているのか?」
デイビッドは何も言わなかったが納得していないのは表情からも明らかであった。しかしこの場で要求を押し通す気はなさそうだったのでグレッグはひとまず良しとしたようだ。後日何らかの事件が発生するかも知れないが、そこまで面倒をみるつもりはないのだろう。
「絶対そのうち後ろから刺されて死ぬから」
いつの間にか戻ってきていたナーが頭の後ろで手を組ながら他人事のように言う。
「師がごろつきに絡まれているのに傍観しているとは、とんでもない弟子もいたものだ」
「誰がいつ弟子になったか」
しかしムウに強く睨まれたナーは、あ――と舌を出すと、
「ぶ、無事で良かったナぁ、お師匠さま。指に怪我でもしたら今日の仕事ができなくなるところだった」
「ほう。その年で弟子を持つとは」
グレッグが感心したように口を挟む。
「見掛け通りただ者ではないというわけだ」
「いや、俺などまだまだよ。演奏の腕はともかく扱う物語の数では先達には遠く及ばぬ」
ムウが謙遜すると、ナーの盛り上がった鼻から横に伸びる髭が狂った蝶のようにピクピクと動いた。
それを見たムウにブーツを踏まれ、踵で体重をかけられると、
「ナァアアァァァァ!」
と、奇声をあげて腹を殴ってくる。
「若い時はどんな危機でも乗り越えられるような気がしたり、世の中の悪意を凝縮したような不幸が自分にはこないと思いがちだが、気をつけたほうがいい」
グレッグは呆れ半分、心配半分にそう話し、背中を見せた。
ムウは空気を読んで後を追う。
「さっきのその娘の言葉ではないが、恨みをかうような生き方は止めておくことだ。身一つではないのならなおさらに」
「そうだそうだ。私にナにかあったらどう責任を取る気か」
「‥‥‥‥」
ムウはむすっと押し黙った。そんなことは指摘されるまでもなくわかっていることだ。だがどうしても口が出てしまうし、時にはそれすら省いて手が出るのである。人里離れた場所で獣を相手にしていた時の辛抱強さは見る影もない。
ではそれは何故か、と自問した時、導き出される答えは決まっている。経験不足である。要は人間関係に不馴れなのだ。
だがこれは当然のことだった。なにしろムウはこの世に生を受けてまだ一年と経っていない。これまで会話した人の数は指折り数えることが可能なほどである。むしろそんな人間が海千山千の詐欺師のように他人をあしらえたなら、そっちのほうが余程異常だろう。
産まれてすぐの生き物は強い警戒心とともに好奇心を併せ持っている。最低でもあと十年、誰かに養ってもらい、悪人への接し方を学んでいればこうはならなかったであろうというのがムウの辿り着く結論である。
あまりにも早すぎる巣立ちであった。
「適当に椅子を持ってきて座ってくれ」
あるテーブルの前まできたところでグレッグが言った。
首を振ったムウはナーを顎で使う。
「椅子だ、弟子よ」
「こんのォ」
蹴りが飛んできたが、その後、言われたように椅子を運んでくるナー。
「‥‥‥変わった師弟関係だな」
「愛の鞭というやつさ」
「受ける方なのか‥‥‥?」
「俺が蹴ったら骨が折れてしまう」
「そこは手加減してやれよ」
二人が椅子に腰を下ろすと、グレッグがテーブルの面々を紹介した。
金髪の男がアレス。
その横の栗色のショートヘアの女がルルシェ。
ぼさぼさの黒髪がミト。
三角の耳が頭についている女がエィミ。
最後の一人以外は団員だった。
「なんだ。連れてきちまったのかよ、団長」
「なにか揉めてたみたいだけど」
ミトとアレスの言葉に団長はうむと頷き、件の三人とのやり取りを話す。
「どうして止めたのよ! もう少し黙って見てればいい展開になったのに!」
「そんな真似できるか。居合わせたのに放っておいたら俺の監督責任が問われる」
「この期に及んで保身てわけ?」
「‥‥‥‥」
ムウは、ショートヘアの女が団長に捲し立てるのを見て不思議に思う。どんなに煩い女でも腹を殴れば産まれたての小鹿のようにぷるぷると震えるだけになるものだ。
「そういう時は腹を叩けばいいぞ、団長」
「はああああああ!?」
いきなり怒りの矛先がムウに向いた。
「聞こえたわよ今の! 何が腹を叩けよ! 最低なクソ野郎ね、あんた!」
「おっと。声に出ていたか」
「おもっきし喋ってたでしょうが!」
「少し落ち着け、ルルシェ。今日は上の人達の引退記念でもあるんだぞ」
「――うっ‥‥‥わ、わかったわよ」
金髪の男に言われて渋々と浮かせていた尻を椅子に戻す女。
その様子に、ムウはせせら笑いとともに毒を吐く。
「雑魚が」
「こここ、こいつぅっ!」
「だから落ち着けって!」
立ち上がろうとする女を男二人が押さえつける。
グレッグはやってられないと頭を振り、
「あまりからかわないでやってくれ。面倒はごめんだ」
「わかった。あんたにはさっきの借りもあることだしな」
ムウはハープを抱え直してナーに目配せをしつつ言う。
「どうだね団長。ここは一つ俺達の詩で荒んでしまった場を癒しの空間へと変えて見せようではないか」
「‥‥‥いくらだ?」
「なに。酒の一杯でも奢ってくれればいいさ」
「‥‥‥本当だろうな」
「さっき出会ったばかりなのに随分と疑われたものだ。吟遊詩人に偏見を持ち過ぎではないかね」
「いや‥‥‥すまん。だがせっかくだから一曲頼む」
「任せておけ」
ムウは気を悪くした様子もなく頷き、ナーに合図を出す。
ナーは緊張した様子でごくりと喉を鳴らした。
「わわわわかったナ。じゃ、じゃあ、みんな大好き『泉の騎士』を――」
「愚か者ォ!」
大喝が響き渡った。発生源はムウである。
「いきなりなんて声出すのよこのデカブツ! 頭おかしいんじゃないの!?」
ルルシェが何か言ってきたがムウは無視した。
「なにが『泉の騎士』だ。だからお前はいつまでたっても弟子という立場を卒業できんのだ」
「そ、そんなに怒ることナいナぁ‥‥‥」
「場に相応しい詩を選ぶのも重要なことなのだ、弟子よ。客がいったいどんな集まりなのか。どれだけ酔っていてどんな年齢層なのか。ここまで考えて初めて人を感動させることが可能となる」
「ならもうちょっと空気を読んで黙りなさいよ」
「泉の騎士。題名を聞いただけでわかる。なよなよと軟弱な騎士が泉で女と戯れるだけのくだらない内容だ」
「いや軟弱じゃないし――っていうかあんた! 知らないくせになに偉そうに説教かましてんの! ありえないわよ!」
「黙れ女!」
ムウはくわっと瞳を見開いた。
「ならその泉は騎士が虐殺した女子供の血でできているとでも言うのか!」
「そんなわけないでしょ!」
「ならば――!」
声を荒げていたムウはそこで一転して穏やかな口調を取り戻す。そして仕方のないやつだ、とでもいうようにルルシェに告げる。
「やはりお前には相応しくないと言えるだろう」
「ああああんたねぇっ!」
再び男二人に取り押さえられた女を置いて、ムウはグレッグに話しかけた。
「引退記念日ということは、明日からは別の仕事で食べていくつもりなのだろう?」
「ああ、一応俺はそのつもりだ」
「それはどのような仕事だ?」
「嫁候補の実家が商売をしてるんでその手伝いさ」
「なるほど。ならばぴったりな詩がある」
ムウはポロンとハープを奏でた。
「これまでお前達は戦場に身を置いていた。そこで求められるのは軍馬だ。それも最高級のな。しかしそれは同じ重さの金で取り引きされるほどに高価。貧乏なお前達は日々その姿を追い求め、武器を振るってきたに違いない」
「‥‥‥‥」
「しかしこれからは違う。戦いに疲れ、戦場から退いたお前達にはもはや軍馬は必要ではない。これから先必要になってくるのは馬よりも驢馬。身体が大きく攻撃的で、維持費のかかる軍馬ではなく、小さく穏やか、しかしそれでいてタフナ驢馬だ。別に必ずしも驢馬でなくてはいかんというわけではないが、馬よりも驢馬を選ばなければいけない生活が推奨される。――そうだな?」
「あ、ああ。まぁそう言えなくもない‥‥‥かな」
「そんなお前達にこの詩を送ろう」
ポロロン、とハープが鳴る。
「『馬のように、驢馬』」
「ちょっと待ったぁ!」
題名を述べたムウを止めたのは弟子である筈のナーであった。ムウの耳に顔を寄せて囁く。
「無理無理無理。そんな詩聞いたことナい」
「心配無用だ。誰も知らないからな。正解は今からお前自身が創る」
「余計無理。私が演奏するから代わって。お願い」
「それは駄目だ」
「ナんでっ」
「このハープは俺のだ。演奏するなとは言わんが、楽器は自分で用意しろ」
「ばか! あほ! まぬけ!」
「いいからさっさと吟え。怪しまれる」
「もうとっくに手遅れナ!」
ムウは黙って剣に手を置き、親指で鍔を押し上げると露出した刀身に指を這わせた。
「今夜は猫鍋かな」
「さあ! はりきって吟うぞー! 皆耳掃除は終わったかナー?」
「打ち合わせ通りにな」
「えっ」
「そう心配そうな顔をしなくても手伝ってやる」
「‥‥‥もうどうなっても知らないナ!」
やけくそ気味に叫んだナーは椅子から立ち上がると口を開き、鈴のような声音で話し出した。
『やがて傷つき 絶望した彼は辿り着く
美しい水を湛え輝く水面 風にそよぐ草木
魚達は恐れもせず 動物達は家族のように男を受け入れる
その時 運命は白い姿となって彼の前に顕れた』
蝗のような軍勢に故郷を逐われた男は森の奥に佇む泉で一人の少女に出会った。二人は互いに惹かれ合うが、少女は人ではない。泉を離れられない少女は男に一頭の馬を送った――という旨をナーは吟う。
『すらりと伸びた鼻面 どんぐりのような眼
その脚は稲妻のように乗り手を運び 嵐のように敵を薙ぎ倒す』
ここで、黙って聞いているムウの瞳に猜疑の色が浮かんだ。
ナーにかけられた容疑。それは――
この詩は『泉の騎士』とやらではないのか
――というものである。なにより居合わせた聴衆の不思議そうな表情が全てを物語っていた。
もしそうだとするならば正しい道筋に話を修正せねばならない。何故なら、この物語には驢馬の出番がなさそうだからである。
幸い、店に入る前の打ち合わせで、ムウのハープを合図に交互に吟うよう取り決めていたのでチャンスは十分にある筈だった。
『颯爽と馬に跨がった男はまるで一枚の絵
男は何度も振り返りながら泉を後にする
いつか必ず戻ると告げて 馬を南に走らせる』
――今だ!
ムウはハープを爪弾いて口を開いた。
『その馬は驢馬ー』
ポローン
『か、彼は風すら置き去りに疾る
幾つもの街を抜け ただひたすらに』
ムウは強くハープをかき鳴らす。
『誰もその驢馬の速さにはついてこれないー』
ボロロォォォン!
ボロロロォォォン!
ナーが凄い形相で睨んでくる。
『辿り着いたは血で血を洗う戦乱の地
男はそこで復讐の刃を研ぐ』
ムウは三度ハープを鳴らした。諦める気はない。男には安住の地で妻を娶り静かに暮らしてもらうつもりである。泉に帰すわけにはいかなかった。
『そしてすれ違った女に獣のように覆い被さる男
その姿はまさにユニコーン
雄々しくそそり立つユニコーン
こんこんと湧きたつ源泉に突き立てられる一本角
今 ユニコーンは泉に帰る』
ボローン
『馬並みなのだー』
弦を押さえ、ぴたりと音を止める。
そしてやり遂げた顔で聴衆を見渡すと、テーブルに突っ伏して肩を震わせる男と顔を真っ赤にして怒る女の姿が目に飛び込んできたのだった。