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 その日は朝から雪が降っていた。ふわふわとして大きく、風に吹かれて視界を妨げるような、そんな雪だ。北に見える筈の山脈はその姿を全く隠しており、雪融けが近づいているとはとても思えないほど寒い日だった。

 そのようななかやってきた五人は、漆黒のクロークを雪で白く染め上げ、寒さをやわらげるためか、冷たく重い金属の代わりに分厚い布を首甲や腰甲としてつけた馬に跨がっていた。フードを深く被り、露出している部分は僅かに覗き見ることができる口元のみ。五人のうち二人は鞍の前輪にクロスボウを、一人は盾をぶら下げ、背中に剣を括りつけている。そして一人は小さな盾と杖を持ち、残る一人はロングボウと矢筒を背負っていた。

 五人は、すれ違う者全てが振り返らずにはいられないような雰囲気を発しているが、もしも実際すれ違う者がいたとするならば、決して振り返らず、足早に立ち去っていたのは間違いない。

 ムウはその日も同じ日々を送っていた。夜明け前に起き、小川から水を汲んできて、母屋の水甕を一杯にし、家畜の水入れも満たしてやる。小さくなっている暖炉に薪を足し、台所で湯を沸かす。干からびたくず野菜に雑穀を混ぜ、飼い葉を用意する。

 トリアがいないので、朝から脂がたっぷりの肉を骨ごと鍋に入れ、その横では肉を炙った。山羊の乳を火にかけ、飢えた狼のように肉を食らった後に飲み干すと、まるで雪山を裸で過ごせそうなほどに身体が熱を持つ。

 噛み砕いた後の尖った骨で歯を磨きながら、餌に残飯を加え、家畜に振る舞う。むしゃむしゃと干し草を食む、雪のような毛色の山羊に手を置くと、冷たいのは毛先だけで、奥の皮膚からじんわりと熱が伝わってきた。そのまま撫でてやると小さな足を精一杯踏ん張り、迷惑そうな視線を送ってくる。

 ムウが門へ顔を向けたのは偶然だ。これから昼飯まで何をやるか考えながら、トリアが帰ってくる予定である道の先へ目をやる。

 運が良かったと言えるだろう。

 ムウのほうが先に相手を見つけたのだ。





 咄嗟に壁の向こう側に身を滑らせたムウはやってくる五人が敵であった場合を考える。もしただの旅人なら嘘をつかずありのままを説明すればよいが、その可能性は限りなく低い。

 トリアの言によれば、ここより先に人の集落はない。森は無害な獣と危険な魔獣、落ち延びてきた闇の住人達の住みかであり、森を越えた山脈には、短躯だが強靭なドヴェルグ達が地下に根を張り、さらにその北、山脈の向こうには邪悪なオルクス達の国があるという。

 鍛冶の技に優れたドヴェルグ達は基本人族と関わり合いを持たないが、例外はあるし、その武具は高値で取引されていて、取引を望む者は後を絶たない。だが彼等の元へ行くには、この季節は余りにも不自然であった。

 ムウはまだ五人は気づいていない、とみる。何故なら、もし気づいていれば森に逃げられないよう包囲の形を取ろうとする筈だからだ。

 視界に入らないよう建物を利用して母屋へ行き、外から寝室の鎧戸をぶち破って身体を押し込んだ。クロークと剣を手にすると作業小屋に向かい、剣帯を腰に着け、投げナイフを脇と背中、ブーツ、腰の後ろなどに挿す。矢を入れた矢筒と弓を背負い、トリアの剣を左腰に、それよりも短い短剣を右腰から下げた。

 外に出ようとして立ち止まり、慌てて戻ると空の水袋と火打ち道具を背嚢に放り込み、それを手に持って外に飛び出る。

 馬が鼻を鳴らす音が聞こえた。

 蹄が地を叩く音と馬を叱咤する男の声。

 ムウの決断は早い。食料を持ち出すことを諦め、森に向かって最短を走る。


「逃がすな!」


 馬蹄の響きが二つに別れた。二つと三つである。片方は真後ろから追いすさり、もう片方は離れていく。

 放置されて久しい畑に踏み入り、その先の害獣避けの柵を目指すムウは粟立つような圧力を背後に感じ、下半身は有輪犂を牽く牛馬のように力強さを増した。

 速度を落とさず逆茂木に手をのせて一気に乗り越える。


「くそったれが!」

「森に入れるな!」


 向こうは選手交代である。通用門の外から回り込んだ三人が柵を迂回して馬を走らせている。

 ムウは一目散に森を目指した。小川に飛び込み、身を切るような冷たさを無視して反対側に渡り、重くなったブーツをじゃぶじゃぶ言わせながら走る。

 木々の隙間に身を滑らせるまでもう少しというところで、風を切り裂いて飛んできた矢が足元に突き立った。

 肝を冷やしたムウが森に入って背後を確認すると、矢を射るために馬を止めた一人と、柵の向こうに二人が。そして残りの二人は――


「ハアッ!」


 左右に別れ、追い越そうと馬を叱咤する。

 ムウに幾ばくかの余裕が戻った。足は向こうが速いが、これは駆けっこではない。木々を挟んで追い付いたとて意味がないのだ。それに雪に隠れている木の根は、ムウよりも馬に乗る敵の方にこそ不利に働いた。

 ムウがまず警戒すべきは弓の射線。その次に剣の間合いに入らぬことである。

 ジグザグに走り、常に樹木が盾になるように位置取りをする。


「ええい、ちょこまかと!」

「クロスボウを使え!」


 左右の二人は速度が落ちるが馬自身に進路を委ね、両手をフリーにすると、クロスボウを鞍に押し付け、山羊脚(ゴーツフット)レバーを引いた。弦を弦受けに引っかけると溝に太矢を入れ、ストックを肩にぴたりとつける。利き目で狙いをつける男達がじわじわと距離を詰め始めたが、ムウは先じてナイフを投じた。

 右手の男は台尻で弾くが、その隙に左側の男へ剣を抜いて近寄る。

 幸い馬は離れようとはしない。乗り手の男も一矢に賭けるつもりでいるのか、じっくりと狙いを定めて時を待っているようだった。

 ムウは左へ左へと流れるように移動する。矢ではなく引き金に掛けられた指を中心に全体を注視していると、上半身の捻れに気づいた男の慌てようが手に取るようにわかった。

 すぐ横を矢が掠めていく。


「――ちっ」


 外した男はクロスボウを鞍の前に置き、慌てて手綱を握るが、それは失敗だった。

 馬に対し斜めに走っていたムウがまっすぐに進路を変えると、あっという間に距離が縮まる。

 膝の裏側から剣を突き入れられた男は叫び声をあげた。

 腰の剣を抜こうとするのを手を伸ばして阻止し、そのまま馬から引き摺り下ろす。

 剣は足元に放り、衝撃で息を詰まらせている男を無理矢理立たせると、短剣を順に両脇に刺し込んだ。革の兜を剥ぎ取って髪を掴む。人質になるとは思っていない。ただ盾にできればよかった。


「武器を捨てて投降しろ」


 クロスボウをつきつけ、男がそう言った。


「逃げ場などないぞ」


 ムウは応えず、短剣を鞘に戻して剣を拾い直し、抵抗する力を無くした男を引き摺って森の奥に後退する。

 馬に乗った男は速度を合わせてついてくるが、何か手があるわけではなく、どちらも手詰まりだった。

 盾にしている男は出血により着実に死に近づいているが、ムウは一顧だにせず、規則正しく息を吐きながら驚くべき体力で北に向かう。

 ムウは男が諦めなければ山にさえも登る覚悟だったが、その前に歩みを停止せざるを得なくなった。ロングボウを持った新手が追い付いたのだ。


「回り込め!」


 そう指示された新手の男は大きく迂回してムウの後ろに向かう。

 ムウは近くにあった木からなるべく大きなものを選んで背中を預けた。


「いい加減に諦めろ!」

「‥‥‥‥」


 ムウはちらちらと背後を気にし、時折位置を変えながらじっと待つ。ムウの見立てでは、この場にいない残りの二人が追っ手となる可能性はそう高くなかった。ムウ自身は恨みをかった覚えがないので、この男達の目的はトリアの財産かその人自身とみていい。そうすると、トリアの安否を知っていようがいまいが、ここに来た時点で家の捜索を無視はできない筈である。幸いなことに今日は雪が降っている。時間を置けば置くほど足跡を辿るのは困難になるだろう。

 日没まではだいぶあるのだが、雪で喉を潤し、飯も食わずにただ待つという行為にどちらが先に音を上げるか。

 深く静かに息を吐くムウは、正面の男がぶるりと身体を震わせたのに気づいて笑みを浮かべた。動くことを止めた身体が冷えてきたのだ。

 ムウには、トリアと生活をしているうちにわかったことがある。

 それは自身の、精神と肉体の相互に及ぼす影響の多寡であった。

 本来切っては切れぬ関係である筈の二つだが、ムウのそれは違った。チェルノボグの言葉が真実なら当然の話なのだが、精神が肉体に及ぼす影響に比べ、肉体が精神に及ぼす影響が非常に小さいのである。恐らくこれは、成り立ちの過程においてムウの精神が肉体に依存していないせいだろう。

 よく、熟達した戦士や間者の仕事ぶりを指し、『己が肉体を一個の道具として扱う』と評価することがあるが、ムウはそれを地でいっていたのだ。

 そういう意味では我慢比べの様相を呈する戦いはムウの最も得意とするところであった。


「おい! 無駄な手間をかけさせるんじゃねえよ!」


 しばらくして、寒さが堪えてきたのかクロスボウの男が口を開いた。ムウとさほど変わらない年つきの浅黒い顔をした男だった。


「俺達はお前にゃ用がねえ! 口利きしてやるから武器を捨てな! 一人やっちまってるが、お前がそいつ以上の働きができるって思われれば問題ねえ筈だ!」

「‥‥‥‥」

「おい! 聞いてんのか!」

「‥‥‥‥」

「無視してんじゃねえぞクソ野郎が! どうせお前の敗けは決まってんだから早く終わらせてやろうってんだ! 死にたくなかったらさっさと武器を捨てやがれ!」


 ますます激昂する男は、きっと寒さを忘れたかったのだろう。だがそのせいで気づくのが遅れた。

 ムウが動かなかったのは狙いが自分ではないと知っていたからである。


「――ヒポグリフだ!」


 ロングボウを持った男が叫んだ。

 目を見開いたクロスボウを持った男は顔を上に向けるが、空から音もさせずに巨大な影が舞い降りてくるのを見つけると、ムウには目もくれずに馬を駆けさせる。

 叫ばれた名前はムウの聞き知った名であった。森の深い場所から山脈にかけて生息している魔獣である。可能性は低いが、森の浅い場所までやって来る魔獣の一つとして注意を促されていた。

 ヒポグリフ。その姿は馬の胴体に鷲の頭部、前足を持つ、グリフィンと牝馬のあいの子であり、魔獣とつくからには魔法の力を操ることができる。

 恣意的に一系統の力しか使えない種であるヒポグリフには力の行使に当たり迷う余地がないため、発動は淀みない。

 声なき咆哮が爆発した。

 歪みがヒポグリフを中心に広がる。系統は『愚鈍(エーイーリー)』であり、抵抗に失敗した二人の男達と馬は、瞬間、自分が何故逃げているのかを忘れ、呆けたように停止した。

 訳が分からないなりに、長年の習慣によって染み付いた反射で回避しようとするが、いかんせん動きが遅い。

 四本の鉤爪を備えた足が降ってきて、クロスボウの男を馬ごと叩き潰す。

 背骨を含め、複数の骨が折れただろう。男は悲鳴もあげられずに抵抗する力を失う。

 ムウは、手にした剣が咆哮という形でバラまかれた力の波動を切り裂いたのを敏感に感じ取っていた。大胆にも背中を晒し、すれ違い様に朦朧としているロングボウの男の大腿を深く切り裂く。

 しばらく走って振り返ると、鷲の顔がじっとムウを見つめていたが、そのうちにヒポグリフは一声鳴くや興味を失ったように顔を逸らし、三人と二頭の馬に止めを刺し、食事を始めた。

 しばらく警戒していたムウは、ヒポグリフが襲ってくる気配がないと判断した後、墓地からもう少し距離を置いた周辺を捜索して洞穴を見つける。

 洞穴といっても、いきなり穴が空いているわけではなかった。不自然に盛り上がった場所のすぐ横の雪を蹴り崩すと、真っ暗なうろの如き穴がぽっかりと空き、中から獣臭い空気が漂ってくる。

 ムウは奥で寝ていた梟熊を殺して腹を裂くと、ブーツを脱いで、温かなそこに足を突っ込んだ。

 







 念入りに燃やされたのだろう、木の部分が全て消し炭となり、煉瓦は脆くなって崩れ、石の積まれた基礎だけとなった無惨な家屋を眼前に、ムウは腕を組んでいた。

 強さのわからぬ護衛つきの法士へ、開けた場所で襲いかかるほどムウは愚かではなく、あの日から五日が過ぎていた。足元には回収してきた武器が、懐には三人分の金が入った袋が入っている。

 やってきた五人のうちの生き残りの二人は、仲間が帰ってこなかったにも関わらず森に踏みいることはなく、五日目にして家屋に火をつけ、ここを跡にしたようだった。

 おそらくヒポグリフの鳴き声はここにいた二人の耳にも届いたであろう。そのことが行動を後押ししたというのは想像に容易い。

 今日は快晴である。雪が融けて生じた泥濘は固まり、足跡をくっきりと東の方角へ残している。

 ムウは二人が火を焚いたであろう場所の側に立ち、じっと地面を見つめていた。

 しゃがみこんで何かの破片を拾い上げる。

 それは黄色く濁っているが、骨である。


「‥‥‥‥」


 トリアはムウに名を与えた男である。しかし、だからといってトリアの敵は己の敵などと言うつもりはない。トリアも剣を扱う者、人生で誰かを殺したことはあるだろうし、そういった者が誰かに殺されても不思議ではなく、トリアが生んだ敵はトリアのものである。

 極端な話、トリアはもしかしたら若い頃は殺人嗜好があって、その被害者の家族が、恨みを晴らすため人を雇ったという可能性だってあるのだ。

 もちろん有無をいわさず襲いかかってきた以上、生き残りの二人が目の前で寝ていたら首を掻っ切る腹積もりでいるが、ムウ自身が恨みを買ったという線がほぼないため、襲撃の理由はトリアにあるし、わざわざ追いかけてまで始末する必要があるかと言われれば、首を傾げたいのが先程までのムウであった。

 しかし今、骨を眺めているムウは自身のその考えが間違っていたと認めざるをえない。

 襲われたが追ってきた三人は既にこの世にいないし、傷つけられたり、恨みがあるわけでもない。

 だが、あの二人には死んでもらわなければならない。それが最終的に出した結論であった。

 拳を握り締めると、骨がくずになってこぼれ落ちる。

 あの二人がここで過ごしていた数日間、何を食べていたのかは明白である。家畜か、貯蔵庫の食料だ。

 トリアに委託され、世話をしていたのはムウだし、ため込んだのもムウであるが、問題は、それらはあの二人のために用意した物ではないということであった。

 残念ながらムウは死なずに生きているので、ムウ自身が諦めない限りそれらを回収しなければならない。

 これには、食べなくても死ななかったなどという仮定は意味を持たない。既に起こってしまった出来事をいかにして元の状態に近づけるかという話であり、例え相手が同じ量の肉や家畜をムウの目の前に置いても――それが元の存在とは厳密的には違うということに目を瞑っても――半分でしかなかった。

 あとの半分――そう、相手の状態が元に戻っていないのだ。

 これが成長期の相手が、長期間に渡って盗んだ食料で育っていたなら話は簡単だった。体重の差分、肉を剥げばいいからだ。しかし今回はたった数日なのでその手は使えない。

 もちろん食われてしまったものを取り戻すのは不可能だ。家畜を生き返らせる方法もわからない。だが、あの二人がムウの肉で命を食い繋いだというのなら、それを回収したらどうなるのかはわかっていた。

 ――死ぬのである。

 道理であった。

 人から、その生命を構成している一部を奪う。例え瞬きの如き僅かな時間だったとしても、活動するためのエネルギーとして使用していたなら、それは連続性を失うということであり、そうなった生物は屍と化す。

 あの二人の死という結果は、肉を回収したのと同じになるのだ。

 それがムウが二人を追うと決めた理由であった。

 ムウはフードを深く被り直し、最後に北へ目を向けた。

 ずっと遠くの空に砂粒のような黒っぽい点が幾つも飛び交っている。それは、遠いせいで小さく見えるが、巨鳥怪鳥の類いであろう。


「‥‥‥‥」


 運がいいのか悪いのか、どちらにせよここには長くいられなかった。

 ずっと北のほうで何かが起こっているようだ。

  

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