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 凍てつく大気を貫いて走る矢が、虫の知らせに顔をあげ耳と鼻をひくつかせる白兎の首にとすりと埋まった。

 白の大地に赤染みが広がるのを確認した男は、長い時間を過ごした樹上から動物の腱で裏打ちされた強化弓と矢筒を放り投げるといくつかの太い枝を介して地面へと降り立つ。

 梟熊の頭部と背中をそのままに使用したクロークを羽織っている男の吐く息は白い。五指に別れた手袋で弓を拾い上げ、矢筒を背負い直すと脛まであるブーツで雪を蹴り飛ばし、仕留めた獲物へ近づく。

 兎の首から矢を引き抜き、脚を持って掲げるとこぼれ落ちる血を喉を鳴らして嚥下する。

 どこか遠くから遠吠えの音が聞こえ、男はフードを跳ねあげた。

現れたのは、彫りの深い男の顔である。青年の域は脱しているが、老いの予兆は未だ窺えない。一本の三つ編みにされた黒髪を鬱陶しげにクロークの下から取り出し、耳を澄ましながら周囲を確認する。

 辺りはチラチラと雪が舞っている。白い大地を貫いて茶色く分厚い幹が乱立し、そのあいだあいだを笛のように音を立てて風が流れていた。葉の落ちた枝々の先の空にはどんよりと雲がかかっていて、北に目を向ければ、遥か先、晴れた日にはナイフのような稜線を頂くザヴァー山脈がそびえ立つが、今は隠れてしまっている。日差しから時を読み取ることができないほど薄暗く、夜が明けてからこちら暖かくなる兆しは露とも見られなかった。

 しばらくしてフードを被り直した男は獲物の臓腑を雪に埋め、口元を洗い、耳を束ねて既にあった収穫物の横にぶら下げ帰路についた。周囲は同じような光景が続き、目印など何もないにも関わらず、その歩みは帰巣本能でも持っているかのように自信に満ちており、疲れ知らずの足は家を出たときと変わらぬ速さで身体を運ぶ。


「‥‥‥‥」


 だが男はすぐに立ち止まった。視線を感じたのだ。ゆっくり振り返ると、三つの人影が見える。顔の前に立てた指の爪先よりも小さくしか見えない距離だ。男と同じように毛皮を纏っており、背中を丸めている。身長は小さいががっしりとしていた。

 殺意に男の瞳が細くなる。コブラナイである。山中や森の奥地、荒野など、人族のおらぬ地に穴を掘って居を構える。凶暴で残忍だが、身体が小さく大陸の隅に追いやられつつある一族だ。一体は男を警戒し、残りは地面を掘り返している。

 男は刺激せぬようそり型の弓にゆっくりと弦を張った。人里に来たら家畜に悪さをするので、見つけ次第痛い目に合わせろとトリアに言い含められている。

 毛皮で分厚く保護した左腕で弓を保持し、溝を切った矢筈がかけられた弦を三本の指で引く。選んだのは、純白の矢羽根は四枚、矢尻は三股、魔獣の骨であった。

 男の右腕がかぶのように膨れ上がる。身長ほどもある弓がぎりぎりとしなり、ついにその指が離された時、角度のついた矢は瞬間下を向き、次いで矢柄の弾性で方向を取り戻す。

 山なりに飛んだ矢が吸い込まれるように一体に命中した。

 刺さった標的から黒っぽい何かが飛び散り、他ニ体があっという間に姿を消す。

 男はこのまま放って帰るか迷ったが、トリアがうるさいので矢を回収に戻る。

 標的は即死だったろう。首がほとんど千切れかけていた。青黒い皮膚に鉤鼻、小さく丸い瞳をしていて、長い舌が口から垂れている。

 足で踏んで矢を引き抜き、絡まった肉片をふるい落として矢筒に戻すと、ナイフで首を切断、近くの木の枝に突き刺す。その後、踵を返した。

 朝、家を出たときの時間と腹具合から、今の太陽の位置をだいだいで予測するが、森を脱したのは中天を回って少ししたくらいであろう。

 がっしりとした柵とその中の墓標を横目に、川と用水路、粉挽き機のある水車小屋を通り過ぎると囲いの中に建物群がある。家畜小屋に台所、薪小屋、貯蔵庫、母屋、作業部屋、小さいが厩舎などであった。柵には鳥についばまれ、骨だけになった魔獣やコブラナイの頭部が飾ってある。囲いの中では豚や山羊、鶏が地面とキスをしながら歩いていて、男が近づくと寄ってくる。

 トリアは台所にいた。火にかけた大釜と睨み合っている。


「遅かったな、ムウ」


 声をかけられた男は無言で収穫を台にぶちまけた。


「それはやっておく。着替えたら食材を頼む。パンは焼くだけだ」

「そうか」


 男――ムウ――は頷くと母屋でクロークを脱ぎ、作業小屋で革と毛皮で作った腕甲や狩り道具を仕舞い、朝一番に小川で汲んできた水で手と顔と口中を洗った。貯蔵庫の地下におり、塩漬けにされた肉や干物を物色する。

 ベルトからいつ如何なる時も肌身離さず持っている鋼鉄製の短剣を抜くと、ぶら下がった蝋のような色合いの肉から一片をこそぎ取り口に含む。


「うむ」


 木製のボウルに適量切り出した後、塩辛いだけが取り柄の葉野菜と根菜、チーズを入れる。ワインの瓶を手に戻るとそれらをトリアに手渡した。

 ムウがくるまで一日二食の生活をしていたトリアはボウルの中身を見てげんなりした顔をしたが、


「シチューにするか」


 言って、切った材料を順に鍋に入れていく。最後にチーズと山羊の乳を入れ、ぐるぐるとかき混ぜて煮込み、窯から雑穀で作ったパンを取り出し、ワインを注いだコップと共に台所のテーブルに並べた。

 中央に置いた鍋から木杓でシチューを取り分けると、トリアが言う。


「では、食おう」


 言ったトリアにかつての雰囲気はない。酒を制限するようになった顔は血色がよく、毎朝冷たい水に晒されている肌は象牙のように滑らかである。一本の剃り残しもなく剃られた口まわりはきりりと引き締まっており、背中は鉄の芯棒が入っているかのようにまっすぐと伸びている。寒さで震えているのはご愛嬌であった。


「明日、街に行く」


 食事を始めてしばらく、トリアが切り出した。


「遅くとも十五日ほどで戻る。私が出掛けることはアノク村の村長には伝えてある。困った時は頼るといいだろう」

「わかった」

「日課の訓練だが、夜は今まで通り読み書きの練習を。家のことと家畜の世話が終わったら、歩法と構えからの素振りを反復しなさい」

「わかった」


 ムウの返事は単調で食事を続けながらだったが、トリアはそれに対しては何も言わなかった。

 トリアは真面目な男である。少なくともムウがきてからは。そしてよくあるように、己の最も得意とする分野に対し最も口うるさく妥協を許さないタイプであった。家畜の命や健康、天候のことよりもムウの訓練を重視したが、幸いなことにムウもまた戦い方を学ぶことを最重要視したため、二人は噛み合った歯車のように毎日を過ごせていたのだ。

 ムウに関しては監督者がいないからやらないなどと疑うことはない。やるといったならやるのである。


「剣は置いていく」


 ムウは食事を中断し、トリアを眺めた。剣を一番大事にしていることを知っていたからだ。トリア自身はどうでもいいもののように振る舞っているが、ムウにはわかっている。トリアの教える戦い方は大半が剣を使ったものであり、造った木剣はまるで長さが同じだった。


「狩りは控え、なるべく家から離れないように。どうしてもそうする必要がある時は、剣を持っていきなさい」

「‥‥‥あんたが持っていったほうがいいのではないか? 俺にとってあの剣はただの剣だ。そうすることが必要だと思ったら投げて逃げる」

「正直なやつだ」


 トリアは目元に皺を作って微笑んだ。


「しかし、おそらくそれを含めてもここに置いていくほうが安全だろう。人が多いということは悪人も多いということだからな」

「俺も共に行くか? 家畜は村に預ければよい」

「それには及ばん。別に誰かと戦いにいくわけではないのだから。だいいちあれはただの家宝だ。それなりに価値はあるが、余程物好きでもなければ襲って奪おうとまではしないし、来るならとっくに来ている」

「そうか」


 街に何をしにくのか、ムウは訊ねなかった。トリアが言わないのであれば、それは言う必要がないと考えているということであるし、ひょっこりと現れた自分がそこまで踏み込むのもどうかと思うのだ。なにより世話になってはいるが、ムウは他者にあまり興味がなかった。もしいなくなれば教えを乞うものがいなくなり残念だな、と思うばかりである。


「腹が落ち着いたら道具を出しておいてくれ。明日からいなくなる。最後に試合っておくとしよう」


 シチューをかきこみ、ふやかしたパンをワインで流し込んだムウにトリアが言う。

 首肯したムウはまだ食べているトリアを置き去りに食器を洗い、納屋を兼ねた作業小屋に向かった。

 小屋の中には鋸や台座、木槌といった簡単な道具類と壁にずらりと並んだ作品群、埃を被った農具があった。

 ムウはその中から、打ち付けた板に革をはったスモールシールドと片手剣を模した木剣を二人分手に取り、中庭に出る。しばらく待つとトリアがやってきた。


「待たせた」


 やってきたトリアは動きやすいよう上衣を脱ぎ、肩まである――ムウが切り揃えた――髪を一つに結んでいる。ムウもまた同じように上衣を脱ぎ、三つ編みにした髪を背中に流す。

 二人は手袋を嵌める。吐く息は白く、トリアのカットされた口髭は氷できらきらしていた。


「年寄りには堪える寒さだ。さっさと暖まるとしよう」


 持ってきた練習用の武器をトリアに一セット渡し、もう一セットは地面に寝かせ、距離をとる。トリアがポケットからコインを出した。


「準備はいいな?」

「うむ」


 返事を待って、トリアはコインを弾いた。くるくると回転しながら山なりに飛んだコインが積もった雪にぽすと埋まる。

 ムウは雪を蹴ったが、トリアはその前に動き出していた。


 ――ムウとトリアが出会ってより早一月。五十日の間に最も変化したことと言えばこの試合の中身だったであろう。

 力任せの一撃は、しかるべき角度からの表刃と裏刃を使いこなした一撃に変わった。

 相手を追いかけるか、離れるかだけだった足は武器の旋回点と物打を活かすべく、それぞれの角度すら計算されたものに変わった。

 しかしその二つは混在一体である。攻撃は防御を兼ね、防御は攻撃を兼ねるの原則に忠実に、相手の体勢と腕の位置を見て反撃を許さぬ一撃を加え、それとは逆に相手の一撃は防御のための動作と反撃が同じになるようにする。

 これらが可能なのは人体の非力さ、不器用さが故であった。

 金属の武器を使い、防具を纏った敵に最小の隙で致命的な一撃を与えるには、関節の稼働域からみると驚くほど選択肢がないという事実。この幾つかの理想的な一撃が型の源流であり、それに対するためにさらに別の型ができた。

 つまり一対一の勝負とは型の応酬であり、多くを知り、相手のそれに的確な対応をしたものが勝つ。そしてその式に加わるのが武器防具の優劣、体格差、地形等である。

 なのでムウがトリアの教えを自らの血肉に変えるにつれ、勝ち負けが一方的になっていくのは当然の帰結であった。

 どれだけ動こうとも疲れを見せないムウと年を取ったトリア。

 相手の間合いより外から攻撃できる体躯のムウと大柄ではあるが戦士としては平均的なトリア。

 日が経つにつれ勝利がおぼつかなくなり、やがて全く勝てなくなったトリアはハンデを課すに至った。教え初めて三十日後のことである。


 ――まず第一に、トリアは如何なる汚い手も使うことが許される。しかしムウに許された攻撃は武器か盾を使ったもののみ。


 コインが落ちるより前に動き始めたトリアは、ムウがまず拾うであろう――そうするしかない――木剣を遠くに蹴飛ばした。

 ムウは狙いを切り替え、盾を拾おうとする。

 だがその手が届くより早く、トリアの振るった木剣が手に迫る。手加減なしの一撃は骨を折る勢いだ。

 ムウは素早く腕を引き、それをかわした。盾の縁で殴り付けてくるのがムウの目にはゆっくりと見える。

 手を添え、勢いを加えて受け流すとトリアはバランスを崩した。


「ちゃんと盾を使った」


 自分の盾を拾い上げたムウは、責めるような瞳で見てくるトリアにそう言う。その後、悠々と木剣を拾いに行くが、絶好の機会を逃したトリアはそれを眺めるだけだった。


 ――第二に、力任せの行動は禁止である。ムウがそれをやると、トリアの腕は長く持たない。


 互いに木剣を相手の眉間に突きつけ、視界を妨げないよう盾を寝かせて躙り寄る。

 ステップを踏んだトリアが雪を蹴散らして突きをはなった。

 鎌首をもたげた蛇のように襲いくるそれを、鍔に近い刀身で受け流したムウは左に踏み込み、防御に使った木剣を滑らせてカウンターを狙う。

 首を傾けてかわしつつムウの右側に移動するトリア。二人は剣を交差させたままだ。

 トリアは梃子の原理を利用し、交差した箇所を基点に切っ先をムウの首に添えようとする。

 巻き込みに関してはトリアに一日の長がある。ムウは交差の角度を直角に変えた。こうすることで剣を乗り越えるための移動距離は大きくなる。

 しばらくの間、有利な位置に木剣をつけようと躍起になったトリアだが、崩せないと悟るや盾と足を使ってくる。

 この距離ではハンデも含めトリアの方に分があった。ムウは落ち着いて後退するが――


「ふあははは!」


 いきなりトリアが笑い声を発した。距離を取ったムウを指差して叫ぶ。


「『炎の智恵(コクマーオブイグニス)』!」


 トリアの周囲に陽炎が立ち昇った。直接は視認できないエネルギーは密度を高め続け、溢れ出た分が火の粉として顕現する。


「おい。さすがに魔法はーー」

「気分よく出掛けさせてもらうぞ!」


 何か言おうとするムウを遮ってトリアが吼えた。準備が整うと指先で狙いをつけ、


「『火炎柱(フレイムピラー)』!」


 危険を感じたムウが背後に飛び退くや、先程まで立っていた場所の足元の雪が一瞬で蒸発した。肺を焼くほどに熱い蒸気が場を満たす。口を閉じて息を止め、瞼を閉じたムウは耳に意識を集中させる。

 肌に感じていたじりじりする痛みが徐々に治まり、いよいよの時が迫ったことを教えてくれる。

 微かに聞こえた水の音。

 からからに乾いた地面に溶けた雪水が流れ込み、泥と化した足元を鳴らしながらの登場は真後ろからであった。

 無言で放たれた上段からの斬り下げは力強く、老人の全てが詰まっている。

 ムウは振り返りつつ、掬い上げるような一撃でそれを止めた。


「――っ!? ぐああっ!」


 突如、のけ反ったトリアが剣を落として顔を押さえる。よろよろとした足取りでさがりながら目元を擦っている。


「む。どうやら剣に泥がついていたようだな」

 

 話すムウには全く悪びれた様子がない。


「ひ、卑怯なり!」


 トリアはまるで無防備だった。打ってくださいとばかりに頭頂を晒している。

 一発お見舞いしてやると、喚いていた老人は静かになった。






 次の日、年老いた牝馬の上に、ぶすっとした表情のトリアがあった。体は着膨れしておりとても動きにくそうだ。牝馬は一頭の驢馬を牽いており、その驢馬の背には自分で消費する水や食料の他、金に変えるべく余った毛皮、肉、薬草が積まれている。牝馬の方には自身以外に、護身用のスタッフや弓、矢筒がぶらさがるのみである。

 今日は快晴であるだろう。夜が明けて少し経つが、上は雲のほとんどない青空が広がっている。


「それでは留守を頼んだぞ」


 馬上の人であるトリアはムウを見下ろしながら言った。

 目的地は城塞都市イルーンである。三つの村と一つの町を経由する。それぞれの集落で一泊するので、到着は五日目だ。徒歩ならば時間も、経由する集落も二倍では済まなかったろう。


「もし私がいつまで経っても戻らなければここを出なさい。ずっと南のほうは小国が乱立している。お前ならば仕事にあぶれることはないだろう」

「‥‥‥やはり俺もついていくか、剣を持っていったほうがいいのではないか?」

「戦いにいくわけではないから大丈夫だ。今の季節は野盗もいないしな。私が言うもしもの場合は事故などだ。お前が来た日のような雷や、極端な話、馬が凍った道で足を滑らせて頭を打って死ぬかもしれん」


 トリアは言って笑うと、手綱を操って東へと馬首を向けた。

 一人と二頭は振り返ることなく小さくなっていき、終には視界から消え去る。

 それが最後に見た老人の姿となった。

 トリアは十五日が経過しても帰ってこなかったのだ。

 一日くらい遅れることもあろうかと、ムウは気にせず同じ日々を繰り返しながら待った。

 五日が経ち、ムウは何かあったのだろうとトリアの身に起こった異変を確信する。

 さらに五日が経ち、いよいよムウは動くことを考え始める。

 老人の消えた先から、馬に乗った五人がやってきたのはそんな時であった。

 

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