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夏にPCが壊れてのち、買いなおしていないため、PS4での投稿となります

PCで閲覧した際、記号が変になっている箇所がありますが、言語辞書がクソオブクソなせいなので修正はできません

 男が目覚めて最初に感じたのは、ざらざらとした冷たい土の感触だった。身体を起こすと――どれだけ長い間そうしていたのか――顔と言わず全身から皮膚に張り付いた土がぱらぱらと落ちる。

 立ち上がった男は土を払う。すなわち脇や太腿、臀部、背中を。

 つまりは裸である。男は黒々とした髪を背中まで流し、盛り上がった筋肉は年経た木の根のよう。彫りの深い顔には一切の表情が浮かんでおらず、薄い蒼色の瞳が母を求める幼子のように辺りを見渡している。

 男の肉体は巨躯といっても過言ではなかったが、周囲は右を向いても左を向いても赤茶けた大地が続いており、今は大海に揺れる小舟の如くちっぽけに見えた。

 生命の息吹が全く感じられない荒野で男は立ち尽くす。生温い風が肌を舐め、全身からじっとりとした汗が吹き出るが、意に介していないようだ。

 男は視線を己の手へと下げた。始め、まるで確かめるようにぎこちなく握り締められた拳は何度も繰り返すうちに愚直な機械のような力強さを発揮し始め、やがて満足したように男の目が細められる。

 肩を回し首を鳴らす。足踏みをし、最後に男は視線を空へと向けた。


「‥‥‥‥」


 仰ぎ見たそこには一本の樹が生えている。不思議なことに逆さまに、だ。いったいどれほどの高さに根を張っているのか――そもそも根が存在するのか――わからないが、少なくとも男には判別できず、凄まじく巨大な幹は薄ぼんやりとした空に消えていた。そして幹の下では男の髪のように真っ黒な葉が生い茂り、膨れ上がった節がいくつか垣間見れる。そして時折、うっすらと輝く球体のようなものが根の方――つまり上空――へと昇っていく。

 その、空の何割かを占める樹木を眺めていると不意に声が掛けられる。


「あれは邪悪の樹(クリフォト)さ」


 鋭く、先程まで誰もいなかった筈の背後を振り向いた男の視界に、金の髪に中性的な顔つきを持つ男とも女ともつかぬ人物の姿が目に入った。優れた芸術家が苦心して造ったかのような非生物的な造形美をした顔は今だ少年の域を脱していない。乳白色のローブを腰のところで緩く紐で締め付けており、フードは首の後ろに垂らしている。足には編み上げ式のサンダルを履いていた。


「始めまして。私のことは‥‥‥そうだね、チェルノボグとでも呼んでくれ。あの樹の世話係のようなものだ」


 そういってチェルノボグと名乗った人物は、空から生える樹を指差す。

 男は指の先にある樹に一瞥を送ると身体ごと向き直り、


「ーーここはどこだ」


 と、簡潔に問うた。見かけと合わせ、安心感を抱かせる抑揚の効いた声だ。


「ここは原形世界の裏側。といっても、とある創造世界のーーという注釈はつくけど」

「‥‥‥‥」

「質問はないのかい? いったいどんな世界だーーとか、あの樹はなんだーーとか」

「‥‥‥‥」


思考に埋没していた男は一拍置いて、


「‥‥‥どうやら、俺には記憶がないようだ。言われた言葉に覚えがないどころか、どうやってここに来たのかすらわからない」

「そうだろうね」


 チェルノボグは頷き、


「だって君は産まれたばかりだから」

「‥‥‥産まれたばかりの人は赤子と言うのではないか? 小さく弱い状態だ。記憶がないのに何故わかる、と言われれば、何故だかわかる――としか答えようがないのだが」

「別に不思議ではないさ」


 チェルノボグは首を傾げる男に答える。


「君の魂には前世の残滓がこびりついている。完全に残っているわけではなく、こちらの都合のいいように少し手を加えさせてもらったけど。ああ、肉体の方は一から造ったよ。魂に見合うようにね」

「‥‥‥つまり、お前は俺の親にあたるということか」

「そう思いたければ」

「‥‥‥‥」


 束の間、男とチェルノボグは見つめあう。両者とも顔に一切の感情の色がないという点では、なるほど似通っていたが、その実男のほうは完璧に抑制されたもののそれであり、チェルノボグのほうは持たざるもののそれであった。


「さて、いつまでもこうしていてもしょうがない。そろそろ本題に入ろうと思う」


 チェルノボグが沈黙を破って口を開く。


「子を造るという行為には必ず理由がある。まず根っこに遺伝情報の伝達があり、その上に社会における役割に関する何か――まぁ、大抵は補助――があるものだが、私も同じだ。君に手伝いを頼みたい」

「剪定なら他所を当たれ」

「違う違う」


 にべもない男に向かってチェルノボグはひらひらと手を振ると、邪悪の樹へと視線を送った。


「ここが下とするなら上。裏とするなら表に、一本の樹がある。名を、生命の樹(セフィロト)という。あれと対になる存在だ」


 邪悪の樹を眺めるチェルノボグは哀しそうに首を振るとぽつりと呟く。


「だいぶ小さくなってしまった」

「十分大きいと思うが」


 男もまた樹へと視線をやり応える。


「いや‥‥‥君あれが何のためにあるか知らないでしょ」

「そうだな。生え方からしてまっとうな法則が当てはまらないというのはわかるが。さっき言った世界の呼び方や単独という在り方から察するに、何かを司るか支えている。もしくは象徴といったところか?」

「へぇ」


 表情は変わらず、声音は面白そうな玩具をみつけた者のようであった。


「どうやら想像以上に頭の出来がいいらしい」


 それに男は片眉を上げて応えた。


「君の言うまっとうな法則がどのようなものであるかは置いておくとして、確かにあれ大きさそれ自体には意味がない。重要なのは変化であり、問題なのは対比なんだ」

「生命の樹、というやつとのか」

「そう」


 チェルノボグは教え子に言い聞かせるように、


「世界というのはね、調和(バランス)で成り立っているんだよ。すくなくともここは」

「その言い方だと――」

「そうじゃない世界もある。有から無へと一方方向に突き進むだけの。メリットは創るときのコストや管理のしやすさかな」

「ここはそうしなかったのか?」

「そうみたいだね。たぶん永遠に続けたかったんじゃないかな。私が創ったわけではないから憶測だけど」

「そうするための手間が二本の樹の管理か」

「そうだ。話を戻すけど、そこで先程の問題が起きた。向こうが大きくなればこちらが、こちらが大きくなれば向こうが、同じぶんだけ小さくなる。自浄作用というか、ある程度の柔軟性と元に戻ろうとする復元力は与えられてはいるんだけど、今回はどうやらそれでは無理だと判断したらしい」

「誰が判断しているのだ?」

「維持神ホーラさ。でもそれは今回は関係がない。少なくとも君には」

「‥‥‥俺はここで何かをするのか?」


 切り捨てるような発言に、男は腕を組んで眉を寄せた。


「しばらくは我慢できそうだが、長期に渡った場合は保証しかねるな。ここは滅入る」


 男に見える範囲では、ここには動物はおろか水さえ見当たらない。高い湿度も不快だった。


「その心配はいらない。君には創造世界へ行ってもらう。いろいろな種族が普通に暮らしている世界だから、きっと気に入ってもらえると思う」

「‥‥‥‥」


 自身の意志を無視した決定という時点で気に入らないのだが――と男は思ったが、表面上は静かに問いかける。


「そこで何をすればいいんだ?」

「別に何も」

「‥‥‥」

「ああ、そう睨まないでくれ。少し語弊があった。何もしないというか、普通に暮らしてくれればいいよ。やりたいことやしなきゃいけないと思ったことをね」

「それがお前の目的と相反した場合は?」

「それはない」


 チェルノボグは確信を持って言った。


「仮に、間接的に手を加えて維持されている食物連鎖があったとしよう。ある階層の生物が増えすぎた場合、その上の階層の生物を増やして対応するわけだけど――」

「それだけで済むわけがない。影響は多岐に渡るだろう」

「今は方法の是非や結果を問題にしているわけじゃないさ。それありきの話だ。――それで、数を増やすというテコ入れをするわけだけど、その増やす生物に一々何をしてくれと頼むと思うかい? それは都合が悪いからやめてくれと頼むかい? できること、やるべきことは決まっていて、どう振る舞おうが目的に沿うのに」

「つまり俺が何をしようとお前にデメリットはないと?」

「いや、あるよ。あるけれども無視していい程度の些細な問題だってこと。まぁすぐに死んでもらうのが困るといえば困るかな」


 その言葉に男は嫌そうに顔を顰める。


「ならばここへ呼ばずに直接送ればよかったではないか」

「それは無理だ。君は肉体がなかったろう? 私は君を、周囲に影響を及ぼすのが大変な幽体で送るつもりがなかった。邪悪の樹を構成する十の要素の一つ、物質主義(キムラヌート)を使って受肉させたんだ。手間はかかるがその甲斐はあったと思っているよ」


 チェルノボグは歩み寄ると男の城壁の如き胸に指を突きつける。


「見てくれ。素晴らしい肉体だろ。創造世界には君と同じでこの世界に触れた者達が複数いるが、全てが精神だけとなって移動する形だった。つまり精神は強靭かもしれないが、肉体は元の世界に準拠している。それに生命の樹か邪悪の樹の影響を強く受けてはいるが、君に比べたら微々たるものでしかない」

「‥‥‥比較をするということはそいつらと競合しなければいけないということか」

「無理強いはしない。でもそうなるだろう。生命の樹の影響を強く受けた者達にとって君は許しがたい存在だろうし、邪悪の樹の影響を受けた者達は協調性に欠けるきらいがある」

「敵だらけというわけか」


 男は困ったように言ったが、口元には不敵な笑みが浮かんでいる。そして瞳は氷の冷たさだ。

 だがチェルノボグは否定した。


「そういうわけでもない。獣人達なら条件付きで君を受け入れてくれるかもしれない」

「獣人? そいつらはどちら側の所属なんだ?」

「彼等は中庸なんだ。生き方や性格によってどちらに転ぶ可能性もある‥‥‥というか、君は少し勘違いをしているようだが、創造世界の住人達は別に二つの陣営による一大決戦に参加しているわけじゃない。彼等はそんなこと露程にも思っていないだろうし、自分達が何かに所属しているという自覚すらないだろう。ただ結果的にそうなっているというだけで。――実を言うとそこが重要なんだ。意志なき人形は道具に過ぎず、道具とはそれを扱うものの想いが直に反映される。それでは私達が直接手を下すのと変わらないし、やってはいけないことになってるんだよ。理由があれば誘導したりはいいんだけどね。それ以外は間に誰かの意志を挟む必要があるのさ」

「では何故俺は狙われる? それが事実なら――」

「一部例外がいる。頼まれてもいないのに世界の管理者だと自認する者達が。これはどちらの側にも言えることだ」

「ふーむ」


 男は目を細め与えられた情報を噛み砕いていく。そして何かを言おうとしたチェルノボグを手を上げて止めると口を開く。


「先程言った俺が受け入れられる条件というのはなんだ?」

「それはまぁ‥‥‥簡単に言うと好みの問題だ。別にふざけているわけじゃない。少し長くなるがいいかい?」


 男が頷くのを待ってチェルノボグは続けた。


「創造世界には二十一系統の力が存在する。邪悪の樹が司る十。生命の樹が司る十一だ。そのうち一つは隠されていているので例外とするが、これらは生物達の在り方に影響を与えている。世界を構成する要素であるからどんなに嫌おうとも完全に影響下から脱することは不可能で、正確に言うならどちらに属するかではなく、どちらにより近いか、となる。そして長い時間の中で複雑に絡み合い、時に私達の予想さえ越えた結果をもたらす。ただ予想できることもあってね」


 チェルノボグは男の均整のとれた肉体に目をやった。


「君は生命の樹の系統の力を使えないわけじゃないが、きっと費やした労力に見合う結果は得られない筈だ。逆に邪悪の樹の系統に属する力は十全に発揮できる。問題は君の肉体が力そのものという点にあってね。‥‥‥例えば、創造世界で生きている普通の人達も影響は受けてはいるんだけど、それはあくまでも基点やきっかけに過ぎず、肉体そのものの構成は食事という行為によって育んでいるわけなんだ」

「‥‥‥‥」

「その点君は直接力を物質に変換した。その身体は形を変えた力に過ぎない。純度や量からいっても活動していくためには直接エネルギーを摂取する必要が出てくる。そしてその変化は可逆的なものになるだろう」

「回りくどい言い方は止せ。要点を言え」

「‥‥‥おそらく君は通常の食事では活動エネルギーを得ることはできない。いや、肉体はあるから物を食べることはできるだろうし、もしかしたら栄養も取れるかもしれないが、長期的な目で見た場合、全く需要を満たせない筈だ。それに肉体が要素そのものという点から、他の系統の力を使用した際、割合の問題で物質主義の影響が薄れ、実体がなくなる可能性がある」

「つまり?」

「君の食事風景は獣人達のお気に召さないだろう。それどころか一部の職の者達やリョースアールヴ達は不倶戴天の敵として君を――」

「もういい」


 男は唸るような声をあげ、気持ち早口で捲し立てるチェルノボグの台詞を遮った。その瞳は中空にそえられ、対象を持っていない。


「‥‥‥なるほど」


 やがて男は納得したように言う。産まれたばかりの赤子が、誰に教わるでもなく乳の飲み方を知っているように、自分にもそれが備わっていると確信した男の声である。


「さっそくだがやることができたようだ」

「へえ? いったいなんだい?」


 男は道理を識る者である。施しを与えたものを殺すことはないし、武器を向けたものを抱き締めることもない。それに足して、チェルノボグと自らの関係と将来性、良いように利用されることを良しとしない性格が合わさり、男を突き動かす。

 目をパチクリさせる相手に対し、頭を一掴みにできそうな手が伸ばされる。

 しかし、完璧に不意をついた筈のそれは空を切った。


「もう心の準備はできたみたいだね」


 背後から聞こえた声に、素早く振り向いた男は雄牛のように突進した。

 一度決断した男には迷いがなかった。二度とないであろう機会に全力を尽くそうと、与えられた肉体はその性能をあますとこなく発揮し、チェルノボグには腕をあげる程度の動作しか許されない。

 だがそれで十分だった。

 ――次の瞬間、何らの前兆もなく、凄まじい稲妻が男の身体を貫いた。 











 酷い雨だった。

 まるで子を失った母の嘆きのように止まるところを知らず、我が身に突き入れられた刃のように冷たい雨だ。

 雷鳴混じりに朝から降り続いたそれは掘り返された土地をぬかるみに変え、明日のことを思ったトリアの表情を暗くさせる。

 パチパチと暖炉の火が爆ぜる横で、古い傷だらけのテーブルに肘をついたトリアは首を振った。考えるだけ無駄だ。嫌だと思っても自分がやるしなかい。誰も変わってなどくれないのだ。

 手元にある指二本程度の幅を持つ木簡に視線を戻すとペン先をインク瓶に浸し、上から下へすらすらと文字を書き連ねる。名前、生まれ、年齢。書くことはあまり多くない。それが終わると次の木簡に移る。五札全てを書き終えると既にある一巻を紐解き、継ぎ足す形で編むが、獣脂のランプに薄ぼんやりと浮かび上がる視界は捉えづらく難儀する。なんとか終わらせるとくるくると丸め、紐で縛った。

 赤黒い染みのついた木製のコップを口元まで運ぶと、獣脂の燃える独特の臭いをアルコール混じりの吐息がかき乱す。

 一息ついたトリアは老体に鞭打つとランプを手に腰をあげた。隙間風の多い小屋の中は暖炉とワインがあってなお寒く、背中を丸めて地下室への扉を開け放つ。

 地下に雨漏れがないことにほっとしつつ所定の戸棚へと木簡の束を収め、ミシミシと嫌な音を奏でる階段を一歩一歩上った。

 椅子に座り直したトリアはベッドには入らず、ワインを注ぎ足す。いつもなら止めておく回数杯を重ねることに抵抗はあったが、明日のことを考えるとこれくらいなら、とついつい自分を甘やかしてしまう。

 明日は穴を掘らねばならない。三つもだ。世間のトリアと同じ年齢の男達は子や孫に囲まれて庭いじりをし、仕事を教え、旧来の友人と酒を飲み交わし、惜しまれながら墓に入るのだろう。だが彼は――

 トリアの姿は酷いものだった。大柄な肉体を隙間風に縮こまらせ、目尻には目やにがついている。ごわごわとしたくすんだ金の髪はもつれてだまになっており、ファー付きの着古したチュニックは洗っても落ちない汚れに黄ばんでいる。かつての、厳しく己を律していた生き方は見る影もない。

 だが、もし注意してくれる誰かがいたなら喜んでトリアはコップの中身を捨てただろう。髪を切り、下着を買い、髭を剃って背筋を伸ばしただろう。年を重ねるとあれこれと注意してくれる者がいる幸福というものを噛み締めるようになるもので、若い頃はただただ鬱陶しかった親、まるでその代わりを勤めんといわんばかりだった妻が今は恋しかった。

 予感のようなものがあったのかもしれない。とっくに磨耗してしまい、普段は考えもしないことを頭に浮かべてしまったのは――

 出し抜けに、まるで空が割れたかのようなばりばりという音が耳をつんざいた。

 母屋が震え、座っているトリアの肌が粟立つ。

 驚きのあまりコップを倒してしまい、テーブルの上に広がる中身に子供には聞かせられない罵りの言葉が口から飛び出した。

 慌てて布巾を手にし、溢れたワインを拭っていたトリアはふと顔をあげる。

 ――始め、そのドンドンという音は、落雷が続いているのだと思った。

 拭う腕を止めて瞬きをする。耳を澄ましてじっと待つとまた音が聞こえた。

 規則正しいその音はノックの音だ。誰かがドアを叩いている。そう結論を出すのに時間はかからなかった。

 酷い夜だ。最前にも増してトリアはそう思った。ノックをするということは獣ではない。アンデッド族かインモータル族か、はたまた盗賊か。どちらにせよ、このような大雨の夜に墓地にやってくる輩だ。まともではないだろう。

 入り口の横に立て掛けてある剣を手に取る。直刀であり、抜き放たれた刀身には、古い言葉である勝利を意味する《ネツァク》の文字が彫られている。柄頭は鷲の足を象っていて黄玉を掴んでいた。如何様にして彫られたものか、宝石の中心に刻んだように絵柄が浮いていた。唯一捨てきれなかった品だ。今のトリアには分不相応なものでもある。ズキリと胸が痛んだが、それを無視して構える。

 自分は変わってもかつての相棒は何も変わらずそこにあった。鈍く輝く白刃から、若かりし情熱の残滓が伝わってくるようだ。

 束の間、トリアは自らの年を忘れ魅入った。

 だが無粋な来訪者はそんな感傷などおかまいなしに扉を叩き続ける。硬木でできた扉を支える蝶番が嫌な音を立て、トリアの頭にカッと血が上る。

 もし闇の住人なら剣の錆びにしてくれる――そう勢いづいたトリアは閂をあげると扉を軽く外に押し、外にいる者に扉が開いたことを示唆し待つ。

 古い扉がぎいと軋むと、トリアはぎょっと硬直した。目の前にいたのが凶悪なヴァンパイアやいずこかの国の王侯貴族でもこうはならなかったであろう。

 凍てつく雨混じりの風が皺だらけの顔を打ったが、それを腕で庇おうともしない。あんぐりと口を開き、目線は上へ。

 ――戸口の外に立っていたのは大きな男だった。トリアが今まで目にした人族なかで三本の指に入るだろう。黒々とした長い髪が水を吸って張り付いた身体は吟遊詩人が唄う英雄のように均整が取れていて、大腿は女の腰ほどもある。腕は鍛冶師の持つそれであり、首は切り株のようだった。

 冷たい雨が、男の身体を滝のように流れている。驚いたことに男は裸だ。腰布すら身に付けていない。股の間を隠そうともせず、じっと佇んでいる。

 どんな神経をしているのか、その肉体はぶるりともしておらず、そのことを訝しんだトリアが目を凝らすと肩からうっすらと湯気さえ上がっていた。

 男は燃え盛る炉のように活力(エネルギー)を発散している。ただそこにいるだけで男に相対したトリアの肌は、寒い日に湯につかったようにチクチクするのだ。

 男の氷蒼(アイスブルー)の瞳がつとと動き、その何を考えているかわからぬ瞳はトリアの持つ剣で止まったが、それは男に知性があるという証左であった。

 不意に、トリアはとてつもない羞恥に襲われる。それは丸腰の男に武器を向けているという状況のせいだけではない。目の前の男の完全性は律することを止めて久しい老人を言い訳のしようもなく打ちのめし、トリアはまるで親に叱られた子供のように武器を下げる。男に害意があったら――とは考えなかった。もしその気ならとっくに始まっていただろう。

 男はトリアが剣をどうするか、若干の興味とともに眺めていたようであったが、それが自分に振るわれることはないと知るや促すようにトリアを見た。

 その澄んだ眼差しに押されるようにして、


旅人(ヌーヌル)()このような(ボナーヴ)夜に(イル)――」


 そう声をかけると、男は不思議そうに眉を寄せ、首を傾ける。

 トリアははっとなった。それは光を失った者が手探りで物を探している時、それを見た周りの者がたちどころにそれと察するのに似ている。

 トリアから見た男は一瞬のうちに様変わりした。そこにいたのはもはや完全無欠な英雄ではない。独りで生き抜く力を持ちながらも、仲間を求めてさ迷う哀れな獣だ。しかも冬籠もりに失敗している。

 逡巡は一瞬だった。退がって行く手を空けてやると、男はトリアを視界に収めつつ戸口を潜る。

 こうしてトリアは、意図せず寒く厳しい冬を共に過ごす同居人を得たのだ。






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